1:Do you remember the day when we first met?
黒猫の少女:1
私を築き上げるすべてが、ガラガラと音をたてて崩れ落ちた瞬間だった。
「はじめまして、君はだれ?」
困ったように微笑んで、私を見るこのひとは、私を知るクラール様ではなかった。
何気ないたった一言が、ぐさりと胸に突き刺さる。それが痛いと感じる暇もないくらいに、私は思考を奪われた。頭は真っ白になって、返事をすることさえ忘れてしまった。
私を救ってくれたものが、私を支えてくれるものが、足元から崩れていくような感覚。
ただそれでも、今一番苦しんでいるはずの彼が私のために微笑んでいるという事実が、無性に悲しかった。
*
ここは、王国の片隅にある小さな村。
忘れ去られたような北の大地には、いつも凍てつくような風が吹き荒んでいる。せめて少しでも温かくなる春と夏が恋しかった。
この家の下働きである私の眠るところは、小さな物置だ。もう使われなくなった道具たちと一緒に閉じ込められて、身体を縮めて丸くなって眠る。床は固く、ひんやりと冷たい。
物置の中には布団などなかったし、身体を包むような毛布もなかった。だから私は自分の体温を逃さないようにぎゅうっと小さくなる。山の近くにあるこの家は、夜になると冷えた風が忍び込んできてたやすく体温を奪っていく。
この家には私と同じくらいの年頃のお嬢様と、その弟であるお坊ちゃま、そして太っちょで声の大きい奥様、ハゲワシのような頭の旦那様がいる。
連れて来られたのは五年くらい前のことだ。私はまだ十歳にもなっていなかった。
それまではもっと大きなお屋敷で、他の子どもと一緒に御主人様に仕えていた。けれど他の子が割ってしまった花瓶を、私のせいだと嘘をつかれ、売り飛ばされたのだ。親というものは顔も覚えていない。口減らしの為に売られる子どもというのは珍しくないのだと御主人様が言っていたのを覚えている。
躾のなっていない、悪い子どもとして私は安値で売られ、今の旦那様に買われた。ちょうど雑用をさせる奴隷が欲しかったのだ、とハゲた頭を撫でながら笑っていたのを覚えている。
私の一日は、太陽が昇る前に目を覚まして、家畜に餌をやることから始める。その後は旦那様たちの朝食の準備をしなくてはならない。この家には私の他に下働きをする者はおらず、通いで庭師と掃除婦が週に一度だけやってくる。それ以外の家事はすべて私の仕事だった。
前の御主人様のお屋敷で料理長と親しくしていた私は、奥様に習わなくても一通りのことはできた。料理長はとてもいい人で、お腹を空かせていると時々余り物をくれたものだ。あの頃はあまり飢えを感じなかったけれど、今の家に来てからは毎日が餓えとの戦いになった。一日一杯の麦粥しか与えられない私は、当然のように痩せていった。
一日中お腹はぐぅぐぅ鳴っているけれど、仕事は山のようにある。奥様の機嫌を損ねたりするとその貴重な一杯の粥ですらもらえないので、私は必要以上に話さないようになった。
ある夜のことだった。
冷たい風が、もうすぐ冬がやってくることを告げている。私が疲れて物置の固い床の上でぐっすりと眠っていると、声の大きな奥様の、いつもよりももっともっと大きな悲鳴が聞こえて目を覚ました。
やめて、たすけて、ころさないで、おねがい。
そんな言葉が聞こえて、私は身体を震わせた。たくさんの悲鳴と、それを踏みにじるかのように笑う声。
――外でいったい何が起きているの。
そう思ったけれど、怖くて物置から出ることが出来なかった。物置の中の、奥へ奥へと隠れて、しゃがみこんで耳を塞ぎ、全てが過ぎ去るのを待った。いくつもの悲鳴と、いくつもの嘲笑が過ぎて、静まった時に、私はのろのろと顔をあげた。煙い。
「……っ」
慌てて物置から出ると、家の中を火が走りまわっていた。黒い煙はどんどんを広がり、私を飲み込もうとする。竦みそうになる足を叩いて、私は外へ出た。勝手口がすぐそこにあったのが幸いだった。
振り返ると、村で一番大きかった家が火に包まれている。他の家にも火がつけられていて、もうほとんど家の形を残していなかった。
勢いを増す火の熱さに、私は一歩、また一歩、と後ろへ下がった。すると何かにつまずき、私はそのまま尻もちをつく。手をついたら、どろりとした液体に触れた。
何が起きたのか、気づき始めていた私は身を凍らせた。お尻は固い地面にぶつからずに、ぐにゃりとした何かを踏んでいる。ごくりと唾を飲み込みながら、私はそろりとそれを見た。
「――――っ!」
おかしなことに悲鳴は出なかった。私がつまずいたのは、隣の家のおばさんだったものだ。もう、彼女はいつもと同じように、九官鳥のようにうるさく話さない。永遠に黙ったままだ。うつろな目が私のことを見ている気がして、飛び起きた。
周囲を見回せば、同じように倒れている人々がいる。山の近くの、小さな村にある家々はすべて焼かれ、夜だというのにやけに明るい。
村の入り口までのろのろと歩き振り返ると、そこはもう村と呼べるところではなかった。ただ赤々と燃え盛る炎があるだけ。人が生活するようなところではない。
私はそのままぺたん、と座り込んだ。星空の下、薄着のままだったけれど、炎の熱が近くまで迫っているせいか、寒さは感じない。火がすべてを飲み込んで、月が徐々に傾いていく。
――空が白んでくると、遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。
顔をあげると、遠くから馬に乗った人たちが近づいて来る。まさか村を襲った奴らが、と思ったけれど、白い百合の紋章を見つけて私はほっとした。白い百合の意匠は、領主様の紋章だ。その一団は瞬く間に近づいてきて、地面を揺らした。
領主様の騎士団だ。昔、御主人様のお屋敷にいた頃に見たことがある。重そうな鎧を着た、大きな男の人たち。
領主様は王様の親戚らしく、このあたりは領主様が治めてくださるから安全なんだ、と奥様が大きな声で話していたのを覚えている。
「ジルベルト様、子どもが!」
ぼんやりと騎士団を見上げていると、その中の一人が私に気づく。たくさんの馬はゆっくりと速度を緩め、村の入り口で止まった。
「生き残りか」
ジルベルト、と呼ばれたその人が馬から下り、私の傍で膝をつく。それでも私はその人を見上げなければならないほどに背が高く、騎士団の中で一人だけ、違う鎧を着ている。偉い人だろうか、となんとなく思った。
「無事で良かった、さぞ怖い思いをしただろう。もう大丈夫だ」
座り込んだままの私の頭を撫でて、その人は微笑む。そうっと壊れ物を扱うように優しく私を抱き上げて、他の人々に何か指示を出していた。
私は昨夜のことを説明しなくちゃ、と思うのだけど、身体が重くてひどく疲れている。しっかりと私を抱きかかえる腕にもたれるように、私は泥沼に沈むように意識を手放した。
目を覚ましたとき、私は見知らぬ部屋の大きなベッドの上にいた。
あれから急いでこのお屋敷に運ばれた私は、高熱を出して長いことうなされていたらしい。三日目になってようやく起きあがれるようになった。
目を覚ました私に待っていたのは、質問の嵐だった。名前は? 年は? 家族は? あの夜はどこにいたのか、何があったか分かるか、私以外に生き残った人はいたか。そのどれにも私は答えられなかった。
私は一言も話せなかった。言葉を、声を、出すことができなくなっていた。
急に世界が一変して、私の頭はひどく混乱しているらしい。あの夜の悲鳴を思い出すと身体が震えて、食べ物も喉を通らない。
白衣を着た白髪交じりのお医者様が言うには、あまりにも怖い経験をし、精神的なショックで声が出ないのだろうとおっしゃっていた。
とにかく栄養のあるものを食べなさい、と言われたが、何を食べても結局吐き出してしまう。毎日食べていた麦粥なんかよりもずっとずっと美味しいはずの食事が、砂を噛んでいるように味気なかった。
「ジルベルト様、このままではこの子は死んでしまいます」
私の世話をしてくれるお姉さんは、様子を見に来たジルベルト様にそう言った。ジルベルト様は、なんとあの領主様なのだという。
ジルベルト様は私の細い身体を見て眉間に皺を寄せる。細すぎだ、と小さく呟いた。
「本来、一番栄養をとって大きくならなければならない時期だろうに。まともに食事も与えられていなかったのだろうな。ひどいことをするものだ」
盗賊に襲われて死んだのも、ある意味天罰だろうか、とジルベルト様は苦笑する。
確かにあの家ではいつもお腹はが空いていたし、ひどい時は旦那様や奥様に叩かれたりしたこともあるけれど、でも、あんな無残に、殺されても仕方ないとは思えなかった。
「……このまま面倒を看ていてやりたいところだが、ここは人の出入りも多いし、私もあまり相手してやれない。もっと静かでこの子と一緒にいられる人間がいるところの方がいいだろう」
「ですが、あんなことがあったのにまた環境を変えるのはどうかと……」
「だが今のままだと、この子は食事もとらないだろう。あまり心配するな、信用できない人間に預けるわけじゃない」
……のところだ、とジルベルト様が誰かの名前を口にすると、お姉さんも納得したように微笑んだ。しかしその後ですぐに不安げに瞳を揺らす。
「確かに、お任せできるのならそれがいいと思いますが……大丈夫でしょうか?」
お姉さんの言葉に、ジルベルト様は淡く微笑んだ。
私はベッドの上で二人のやりとりを見つめたまま、これから自分はどうなるのだろうと他人事のように思う。不思議と、救われたのだという気持ちは湧いてこなかった。
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