『未題』


 黒乃あずさの葬式は、大粒の粉雪が降りしきる二月、しめやかに執り行われた。

春のように柔らかい仕草が印象的な彼女には少しも似付かわしくない極寒は、その死を惜しむ数多の参列者の悲壮が形となったもののように思えた。


 室内禁煙。葬儀場の外にしか居場所がないのはこのご時世致し方ないものの、さすがに喪服姿で真冬の厳しい寒さのなか長居はできない。かといって湿った空気のなか、気分転換もなしにやっていけるほど、神代かみしろレイヤはできた人間でもない。


 束の間の、息抜きの時間。火のついた煙草をくわえながら、悴んだ指先を手元のスマートフォンへと滑らせる。LINEを立ち上げると、唯一といって差し支えない同僚からのメッセージが届いていた。


『明後日から動けそう? 無理そうなら私が一人で行くけど。青木ヶ原樹海の案件』


 鵺崎ぬえざき宙姫そらひめからの通知に『問題ない』とぶっきらぼうに返信したところで、かつ、とピンがコンクリートを叩く音。


 エントランスへ振り返る。


「…………よぉ、お疲れさん」

「…………(こくり)」


 まだ年端もいかない女の子が口元を真一文字に結んだまま神代へ軽く会釈を一つ。


 首元で切りそろえられた黒髪と長いまつげ、そして二重で切れ目の目元が印象的な少女だ。すらりと伸びた手足に、成人男性の平均身長であるレイヤに並ぶ背丈もまた、十二歳とは思えないほど大人びた雰囲気を醸し出している。からからと数珠を両手で擦り合わせる音に混じって、はぁ、と乾いた彼女の吐息がレイヤの鼓膜を揺すった。


「…………」

「……………………」

「クロエちゃん、こんなところにいたら風邪引くぞ」


 肩にのし掛かる重苦しい沈黙を断ち切るようにレイヤが声を掛ける。


 即座に返ってくる舌打ちには馴れたものだ。一人残された黒乃クロエの境遇を思えば、その態度をくさすこともできない。


「ちゃん付けはやめて。それに、馬鹿じゃないから風邪なんか引かないし」

「そうかい」

「……………………」

「……………………」


 普段は沈黙などさして気にしないレイヤも、このときばかりは気まずさを覚えた。


 黒乃クロエは神代の姪にあたる一人っ子で、今年の春から中学生になる年頃だ。


 そしてこの冬、母親を失った。


 父親である黒乃白夜びゃくやは数年前から行方不明のまま、その行方は未だ知れない。


 実の両親を失った彼女が身を寄せられる場所として祖父母の実家が候補に挙がったが、父方からは既に拒絶されていた。黒乃白夜が失踪した頃からクロエを忌み子と看做していた彼らは、黒乃あずさが死んだことによって一層その認識を強めたらしく、顔を合わせれば二言目には黒乃家を罵り、罵倒し、一方的な絶縁しか口にしない。


 必然、黒乃クロエは神代家に頼るほかない境遇にある。


「……母さんは――」

「ん?」

「……母さんは、最期まで葬魔師として死んだと聞きました。母さんにしか相手にできない霊魔と相打ちになった――そう、聞きたの」

「…………ああ」


 幽霊や悪霊とは異質の、実体を伴った異形の化物。異界の種族、神々の使いとも称されるそれらが、霊魔だ。


 これに相対し、葬ることのできる葬魔師そうましの総数は三桁にも及ばない。

 古来から現代まで語り継がれる霊魔という脅威に対抗するための力を宿す人間は一握りであり、絶対数が常に足りていない。


 黒乃あずさもまた、連日連夜に及ぶ葬魔師としての職務を全うしている最中、命を落とした。


 幾万の人間を救って、その果てに黒乃あずさは死に絶えた。遺体は致命傷となった傷を覆い隠すように綺麗な化粧がされていたが、壮絶な最期を見届けたことを、現場にいた葬魔師は皆知っている。レイヤもまたその一人だが、その仔細――壮絶な最期についてはなに一つとしてクロエに話すことはないと心に決めていた。


 そしてクロエもまた、それを知っていて、問い質すことはない。

 けれど。


「ほんと、馬鹿みたい」

「…………そんな言い方しなくたって――」

「葬魔師はみんな、母さんのように死んで、それで終わり。残された人たちのことなんてこれっぽっちも考えてない。勝手に他人を助けた気になって、そのくせ自分の周りのことなんて少しだって大事にしない。父さんもそうだった。母さんもそうなった。急にいなくなって、そのくせ誰かを守るとか、世界を脅かす敵に立ち向かうとか、冗談よしてよ」


 あずさが死んだと知った瞬間からこれまで一縷の涙だって流していないクロエが、心の底から吐き捨てるように言う。


「虚しいし、憎いし、悔しいし、ほんとふざけるなって……ずっとそう思って、思い続けてきたせいなんだろうね。もう、色々と疲れちゃった。これからあたし、どうしたらいいと思う? 世界には夢も希望もないっていうのに」


 クロエはこの世すべてに絶望していた。希望など一欠片もないと悟っていた。


 生きる意味も目的も見いだせない。誰からも必要とされない。誰のために生きるわけでもない。存在している価値など、どこにもない。


 だから、無価値の人間の世話をすることになった黒乃家を不憫にも思った。亡き長女が遺した一人娘を預かることになってしまったのだから。


「本当に大丈夫なわけ? あたしを引き取って」

「問題はない。耄碌したあちらさんとは違って、こちらは父も母も喜んで引き取ると言っている。姉さんの子どもだから当然だって張り切ってる始末だ。あとはクロエちゃんの気持ち次第だ」

「…………やめてって言ったよね」

「クロエの気持ち次第だ」


 やれやれと、レイヤは肺腑に溜めた白濁の煙を大粒の粉雪に吹き付けて、問う。たとえそれがあまりに残酷な選択肢であっても、その意志は尊重しなければならない。


「どうする?」

「逆に、どうしてほしい? というか、選択肢なんてほとんどないわけだけど」

蜘蛛の子を散らすよう白雪をぼんやり眺めながら吸い殻を磨り潰して、レイヤはクロエを流し見た。

「意地悪な質問ですまん。けど、クロエには自分で選ぶ権利がある」

「馬鹿馬鹿しい。選択肢なんてないじゃん」

 黒乃家を拒絶すれば、文字通りクロエは一人きりだ。児童養護施設や孤児院に預ける他ない。あるいは里親という選択肢だってないわけではないが、それが決まるまでは施設預かりになることは避けられない。

「レイヤ兄のところで世話になるに決まってる。最初から決まってたことでしょ?」

「実家は神奈川になる。できればここを起つ日程も早いうちに決めてくれ。春休みのうちに転校届を出さないといけないだろうしな」

「……そうじゃなくて」

「あん?」

「レイヤ兄のとこって言った」

「いやだから実家に来るんだろ? だから転校届を――」

「違う。レイヤ兄のところってのは、つまり、レイヤ兄の家ってこと」

「……………………いや、それは」


 駄目だろう――、

 そう言葉を紡ごうした矢先、クロエが遮るように言う。


「葬魔師になるために、レイヤ兄に鍛えてもらいたいの」

「――っ」


 レイヤは面食らった。

 その心意気も、心情も、理解できなくはない。だが。


「復讐するつもりか? 霊魔に」

「……そうだと言ったら?」

「それだけはやめておけ。姉さんはクロエにそんなことを望むわけがない」

「それはレイヤ兄が思い描いている母さんでしょ? 死人に口はないの。本当は未練があるかもしれない。憎らしいと思ってるかもしれない。その想いをあたしが継ぐの」

「それこそクロエの勝手な想像だ。とにかくやめろ。復讐心だけでやっていけるほど葬魔師は簡単じゃない」


 事実、家族や最愛の想い人の仇を討つことを己が生き甲斐にしようとする葬魔師は決して少なくない。だが、長く続かないのだ。葬魔師としての責務をまっとうする前に精神を摩耗してしまう。


 真剣な声音で反発したせいか。クロエは小さく溜息を溢すも、一転して、なんでもなかったかのように笑ってみせる。


「……あはは、うそうそ、冗談だよ。安心して? 復讐なんて、そんな物騒なこと考えてないから」

「本当だろうな」

「うん、嘘じゃないよ」


 レイヤはほっと胸を撫で下ろす。

 だが、それも一瞬のこと。


「……霊魔は、鏖にするからさ」


 底冷えるような声が響いた。

 吹きすさぶ極寒すら凍てつかせるような、黒い呪詛。レイヤの背筋が怖気立つ。


「あいつら、ズタズタにして殺してやるの」


 レイヤの眼前で、少女は虚ろな眼のままに呟く。


「復讐なんて言葉に言い表せるような生易しい感情じゃないの。そんな低俗で野蛮で救いようのない感情なんて必要ない。復讐したってあたしは救われない。霊魔に憎悪なんてこれっぽっちも抱かない。怒りなんて微塵も感じない。あたしにあるのは、ただただ純粋な殺意だけ」

「っ…………」

「霊魔が存在していい理由なんて一つだってない。それは明白な事実なんでしょ? だから殺すことに躊躇いはないし、そんな奴らに感情なんて抱く価値もない」


 レイヤは絶句するしかなかった。返す言葉が見当たらない。

 クロエは――彼女の心は、とうに破綻して、壊れていた。


「だけど、お前……そうは言っても葬魔師になれないだろ。神能ギフトがないんだから」


 神能ギフト――その名の通り、神話として伝承されている神々が有していたとされる力を行使することのできる異能。そして、葬魔師となるためには必須の力。


 数百年の歴史を持つ黒乃家に生まれる子息が当然のように発現してきた神能をクロエは持って生まれなかった。身体のどこにも神能を宿す証である紋様がなかった――そのことを喜んだのは母となったあずさだった。クロエが霊魔と戦うことはないのだと、安心した様子でさえあった。


 だからクロエの激情を霊魔にぶつけることは不可能。

 それは覆しようのない現実――、


「……実はさ、いままでずっと隠してたんだけど――」


 そのはずだった。


「あるみたいなんだよね。喉の奥に」

「…………は?」

「一年くらい前かな? 喉に魚の小骨が刺さったことがあって。そのとき、手鏡であれこれやってたら、見つけた」

「それ、姉さんは知ってたのか?」

「ううん。言ってないから、多分知らないと思う」


 唐突に明かされた信じがたい告白に、面食らったレイヤは頭を抱えた。


 クロエもしっかりと黒乃家の血を継いでいたということだ。


 そうであれば必然、葬魔師になれるだけの素質を秘めている。レイヤも、あずさも、両親も、先祖も皆そうだったのだから。


「神能の使い方はずっと密かに練習してたんだよね。母さんはずっといなかったし、打ち明けるのも気が引けたから。いままで黙ってたけど……これくらいのことなら造作もなくできるんだ」


 そう言ってクロエが指を鳴らす。

 刹那、白銀の世界を溶かすように、眩い光が差し込んだ。


 分厚い曇天が消え去り、嘘のような蒼天が視界いっぱいに広がる。世界を覆いつくすようにしんしんと降りしきっていた雪が俄に降り止んでいく。


 まるで世界が新たな才能が息吹きはじめたことを歓迎するように、雪の結晶がきらきらと宙を舞い、陽の光を浴びてきらめく。


「やっぱり、母さんに冬は似合わないね」

「クロエっ、お前、こいつは……っ!?」


 驚愕に顔を染めるレイヤ。


 十一歳にして天候すら操ってみせるとなれば、想像していたよりもずっと、純度も高く強力な神能であることに疑いはない。


 どころか、これほどまでの力となれば、黒乃家最強と謳われる始祖すらをも凌駕するのではないか――それほどまでに類い稀な力である可能性すら秘めているのでは、と。


 呆気に取られた叔父の顔に満足したのか、悪戯を成功させた子どもは無邪気に微笑んでみせた。


 そこに、底知れない憎悪と殺意を滲ませながら。

「どう? これなら文句もないでしょ。葬魔師の才能、あると思わない?」




※※※




 満天の星空に浮かぶ満月の恩恵は、青木ヶ原の深く鬱蒼とした樹海の底には届かない。


「ちぃ、思ったより厄介だな……っ」


 レイヤはスーツの袖口を捲りながら、しかめっ面を浮かべて舌打ちを一つ。


 目下、標的である下等霊魔――竜人種リザードマンの群れを狩っている最中だった。

 表皮は硬く極彩色の鱗で覆われ、鰐のように強靱な顎と鋭利な爪先でもって獲物を切り裂き血肉を喰らう二足歩行の怪物。日中であれば極彩色にきらめく滑らかな鱗もいまは迷彩のごとく闇に溶け込み、月光の頼りない樹海の底にあっては、もはや目視でその姿を捉えることは不可能だった。


『――状況はどうだ、神代』

「残念なことにいまいちだ。こいつはお姫様を頼るほかねぇかもな。救護班、状況は?」

『――案ずるな。彼女はこちらでの任務を終え、すでにそちらへ向かっている。じきに到着するはずだ』

「そいつはありがてぇ。仕事が早くて助かる」

『……くれぐれも優秀な愛弟子に苦労を掛けないよう、少しでも竜人種の数を減らせ』

「言われなくたってやるっての!!」


 その数にして三桁に迫ろうという竜人種の群れが樹海の一帯に巣くっているのを青木ヶ原樹海にて訓練中の自衛隊が発見。レイヤをはじめとした数名の葬魔師が、葬魔師連盟本部から竜人種リザーマン祓滅ふつめつ依頼を受けたのが六時間前。


 日没から間もない今、竜人種のおよそ七割を祓ったところだが、状況は芳しくない。


 多勢を一掃できる神能を扱う葬魔師が各所に出払っており、招集できなかったのが大きな原因だった。唯一頼りにできる愛弟子は竜人種の強襲に遭った怪我人の救護にまわっていて、もうしばらくは戦力に換算できそうにもない。


宙姫そらひめのやつ、昨日は暇だ暇だと叫いてやがったくせに、いざとなったら別件で不在とかふざけんなよ畜生が」


 竜人種ごとき、鵺崎宙姫の神能であれば容易く一掃できる程度の下等霊魔だ。

広範囲を対象に発現できる神能を持ち合わせていても、その神能の特性ゆえに真価を発揮できないレイヤは忌々しげに愚痴をこぼす。


 かといって各個撃破は気が滅入る。日中であれば多少は見分けがつく迷彩の鱗も、日が暮れてしまえば夜目が利いても動きを追うのは難しい。レイヤにとって森林での竜人種討伐は、動き回る鼠を目を閉じたまま火のついた弓矢で射貫けと言われているに等しいのだから。


 だが、そう愚痴ばかりこぼしてもいられないと気合いを入れ直し、


「――そこっ!!」


 紫電一閃。


 拳銃に見立てて構えた右手の人差し指と中指から弾き出された雷撃が一直線に伸び、なにも存在しないはずの空間へと突き刺さった。


『ギィアアアアアアアアアアアア!!』


 雷鳴に混ざって谺する断末魔とともに、がさり、と獲物が頽れる音が響く。


 見れば、全身を黒く焦がした竜人種の遺体が一つ。


 レイヤの手に掛かれば、こうして一撃で仕留めること自体は造作もない。だが、その火力をそのまま木々にぶつければ間違いなく着火し、一帯は瞬く間に火の海だ。


 だからこそ、迷彩を纏った竜人種を周囲の景色と誤認することなく、雷撃で的確に始末することに気を払う必要があった。たとえそれが、どれほど億劫だとしても。


「……さて、次か」


 まだまだ先は長いな、と溜息を零したそのときだった。


「レイヤ兄、ごめん、遅れた」


 足音を立てずに舞い降りてきたのは思春期真っ盛りと言わんばかりの少女だ。ショートボブに整えた黒髪をふわりと揺らし、額を汗で滲ませながら荒い息をする彼女は気怠げな様子でレイヤの隣に立つ。スーツ姿のレイヤと同様、あまりにも場違いなセーラー服。


 けれど、彼女こそが、レイヤが待ちかねた愛弟子――黒乃クロエ。


「随分と早いな。もう終わったのか?」

「最低限のことはね。総合病院の救急車がきたから、負傷者はそっちに預けた」


 授業を午前で終えたその足で青木ヶ原樹海へ直行してきたクロエは、負傷した自衛隊員たちの救護にあたっていた。それにしたって尋常ではない手際の良さだ。百名にのぼる負傷者の応急処置を二時間あまりでやってのけたのだから。


「……で、状況は?」

「残り三割ってところだな。今日中になんとかしちまいたい所だが……」

「異相結界は張ってあるよね?」

「ああ。残らず祓滅するまで解けることはない」

「それじゃあ、あたしがアレをやる」

「体力は持つか? リソースの大半、救護に回したんだろ?」

「……ぎりぎり、いける。日頃どんだけしごかれてると思ってんの? 見くびらないで」

「……なら、頼んだ。俺は退避しつつ他の猟魔師に連絡しておく。合図したら発動しろ」

「りょーかい」


 その場から退避するレイヤを見送って、クロエは意識を集中させる。


 母が死んでから三年の歳月が流れ、クロエはこうしていま霊魔と相対している。


 この三年、レイヤのもとで研鑽を重ね、名実ともに準一級の葬魔師となった。最上位の特級、そして、規定上、未成年では昇級の余地がない一級を除けば、クロエが現時点で到達できる最高位。


 奇しくも才能があって、環境に恵まれた。

 死ななかった。


 ……否、死ねなかった。


 類い稀な才能が、彼女の死を許さなかった。他者の傷や怪我を癒やすことのできる神能もまた滅多に発現しないものだった。皮肉なことに。


 あずさの娘だからこその神能だった。だからこそ、母が死に絶えたその場に自分が居合わせることができなかった運命を呪ったりもした。


 どうしようもない話だ。とうに終わって、救えなかった話でしかない。


 けれど、あれから少しも色褪せることはない。絶望、憤怒、憎悪、そして、霊魔に対する明確な殺意。 その感情はどれも等しくクロエの糧になった。それだけを心の支えに生きてきた。過言でも冗談でもなく、本当に。


「――竜人種、か」


 あずさが死ぬと同時にその動向が鎮静化していた異形は、今日になって突然活性化したという。まるで、クロエの成長を心待ちにしていたかのように。けれど、それが偶然にしろ必然にしろ、クロエにとってはどうでもいい些事に過ぎない。やることはなにも変わらないのだから。


 明確な殺意を向ける矛先へ、全神経を注ぐ。


「一柱残らず鏖にする」


 心の内に潜む神能に呼応するように、少女は両手を組み合わせる。


 同時、春の訪れを前にして生い茂る若草に、季節外れの霜が降りていく。木々が凍てつき、空気がしんと冷えていく。宙をきらきらと舞う結晶が、気温の急激な変化を物語る。


 クロエの周囲が、その殺気にあてられて、凍り付いていく。


『――……聞こえるか』


 静まりかえる密林に響く無線。


「感度良好。撤退完了した?」

『ああ。いつでもいいぞ』

「オーケー。それじゃあ、さっさとやっちゃうね」


 クロエは、両手で印を結び終え、静かに紡ぐ。


「範囲指定、空間固定、起動式展開――凍てつけ、世界」



 ――神能解放:秘奥・氷結結界楽園――コキュートス



 刹那、氷点下の息吹が地表から這い上がる。極寒の帳が天から降りてくる。視界のすべてが氷漬けとなっていく。顕現するは白銀の世界。異相結界の内部を音もなく呑み込み、凍てつく地獄へと変貌させていく。


 静謐が満ち満ちる。生命の息吹も、鼓動も、血脈も、生けるものが等しく凍てついて。


 やがて訪れる白銀の世界で一人、クロエはつまらなそうに白い吐息を零した。


「これで、おしまい」




 異相結界の領域内全域を文字通り氷漬けにしたクロエは、自衛隊の臨時拠点となった仮設テントへと戻った。テントに入るや否や、空いていたパイプ椅子に力なく腰掛ける。


「……おつかれさん。しばらくこいつで暖めておけ。帰り支度を済ませたら声を掛ける」

「……ありがと。あれ……、竜人種はどうするの?」

「あとのことは他の葬魔師に任せた。動かない相手なら誰でも始末できる以上、俺たちに出番はない。さきにあがらせてもらう」

「ふぅん……そっか」


 レイヤはクロエへ熱したタオルを放ると、そのまま他の葬魔師たちへ指示を出しては忙しなくテント内を動き回り始めた。葬魔師たちもまたそれぞれ勝手知ったる様子で結界の中へ戻り、あるいは病院や役所といった関係各所へと連絡を取り始めた。


 忙しない幾多の声を聞き流しながら、クロエはレイヤから熱したタオルを額に乗せた。午前の授業を終えて着の身着のままだったのだ、さすがに疲労が溜まっていたのか、程よい熱気が脳髄にまで響いてくるような心地に酔いしれる。


 指示出しを終えたレイヤは無線で本部へ連絡を取ると、そのまま自衛隊への報告と洒落込んだ。クロエはその仕事ぶりをぼうっと眺める。


(まだまだ、だなぁ……)


 不甲斐ないという実感ばかりが募る。神能をたかが一回、大規模に展開したくらいで息も絶え絶えな体たらくだ。神能に長けていても基礎体力がない、典型的な天才肌タイプ。自覚はしている。だから基礎作りのために走り込みは欠かしていない。それでも、まだ足りない。理想とする存在の背中には遠く及ばない。


 準一級の肩書きだって、特異な神能と天性の戦闘センスを評価されたに過ぎない。継戦能力は自他共に認める下の下だ。


 それに対して。


 何十もの竜人種を単独で祓ったレイヤも相当に神能を酷使しているはずなのに、普段と変わらずぴんぴんしている。


 力の抜き方や神能の効率的な使い方を体得したレイヤから手解きを受けていても、感性でしか理解できていない部分が多い。だからなのか、実戦経験をいくら積んでもセーブするという感覚に馴れない。感情を制御することも、神能を効率よく使うことも、なにもかも。


 焦りはない。まだ。


 レイヤのように上手く立ち振る舞う技量なんてないことも重々承知している。


 けれど、このままで本当に母の仇を討つことができるのだろうか、と不安にはなる。


 その気持ちは三年前からずっと、胸の奥で燻って、じくじくと心を焦がし続けている。一体でも多く霊魔を葬る――そんな焦燥がはやる気持ちに繋がり、結果として大切なことを見落としてしまっている気がしてならない。戦況を見渡し、見通す力が欠けている。だからすぐにガス欠を起こす。レイヤや宙姫のように余力を残す立ち振る舞いをしたくてもできない。その余裕は経験に拠るところが多いと分かっていても、だ。


 ただただ、歯痒い。

 力不足を痛感し続けている。この、三年。


「そろそろ戻るぞ」

「あー……、うん」


 手早く帰り支度まで済ませたレイヤに手を引かれ、車に乗り込む。往路は連盟本部が手配した特殊車両を使ったが、帰りはレイヤの自家用車。クロエはその後部座席を陣取る。


「……鵺崎さんの香水の匂いがする」

「昨日、別件の掃滅依頼で一緒だったからなぁ」

「ふぅん」


 別にそのことをどうと思うわけでもない。

 そう、明け透けに話をされるのも心中穏やかではないが。


「どっか寄って晩飯でも食ってくか?」

「じゃあ、静岡で有名なハンバーグ屋さん」

「……こっからだとそこそこ遅い時間になるけど、それでもいいか?」

「いいよ、別に。折角だし、行こうよ。お腹も減ったし、丁度いいじゃん」

「まぁ……たまには付き合ってやるか。到着するまで時間かかるから、寝てていいぞ」

「あー……、うん」


 お言葉に甘えてクロエは後部座席で横になる。


「……もうすぐ高専生かぁ」


 あっという間の三年だった。この調子だと、青春真っ盛り、花盛りの十代後半も気付けば終わってしまう気がしてならない。けれど、これからの三年は恋愛なんてものに現を抜かしている暇なんてない。色恋沙汰に疎くて興味もない自分には無縁だけれど、それでもそういう話は周囲で少しずつ増えていくのだろうか……なんて他愛もないことをぼんやり考える。


 それと。


「レイヤ兄、先生なんだよね……なんか、実感ないけど」

「頼むから実感、持ってくれよ。あと、高専では神代先生、だからな」

「はぁい」


 レイヤは葬魔師と講師とを兼務している。勤務先はクロエが入学する高専。そして、レイヤは教師となって満三年。新米から一皮むけ、葬魔師としても一級へ昇格して多忙を極めている。クロエの世話をしていたせいか、浮ついた話はなに一つないが、ステータスだけを見れば上玉。世間が放っておく道理がない。


「レイヤ兄のせんせーっぷりにちょっとは期待しておくよ」

「身内だろうと手は抜かないからな」

「甘やかされた覚えはこれっぽっちもないんだけどなぁ」

「高校生ともなれば、そりゃあメニューだってそれ相応にアレンジするもんだ」

「うへぇ。毎日五キロのランニングが序の口とか勘弁だよぉ……」

「五キロが八キロになる。まぁ、最初は馴れるために六とか七に抑えるけどな」

「走るの苦手なんだけど。というか、ぶっちゃけ祓滅するときも走らないし」

「すぐへばるんだから基礎体力を付けろ。自覚してるだろ」

「五キロ走り込んでもこの体たらくなんだけど」

「それならもっと走り込まないとな」

「ぐぇー……、スパルタはんたーい。今度から晩ご飯作ってやらないからなぁ?」

「別にいいぞ。むしろ高専には寮もあるし。いっそ寮に移り住んだらどうだ?」

 加えて、いま住んでいる社宅とほとんど変わらない広さだぞ、なんてレイヤが続けるものだから。

「…………むぅ」


 抵抗のつもりが思わぬ反撃にあってしまい、クロエは頬を膨らませながらバックミラー越しにレイヤを睨んだ。


 なんだか面白くない。


「……もう、あたしの手料理に飽き飽きってこと?」

「んなこと言ってねぇだろ」

「でも、そう言ってるに等しいじゃん」

「だから違うっての」

「寂しくないんだ。あたしがいなくなっても」

「俺の家と寮なんて歩いてすぐの場所だろうが」


 レイヤもまた社宅に住んでいる。歩いてすぐ、どころか道路を挟んだ対面に位置する近さである。


「そういう問題じゃないじゃん。帰ってきてもあたしいないんだよ? 洗濯とか料理とか掃除とかできるの? というかあれか、通い妻的な?」

「んなことしなくていいんだよ。そもそもクロエが来る前は一人暮らしだったし、一通りはなできるっつうの。いまどき料理ができなくてもスーパーとかコンビニはそこそこ便利で品揃えも豊富だしな」

「…………ふーーーーーん」


 レイヤ兄って実は全然モテないでしょ、という喉の先まででかかった呪詛をクロエは無理やり飲み込んだ。


 前言――もとい妄想撤回だ。レイヤに女性の影がない原因は、少なくともクロエのせいではない。少し負い目に感じていたことがそもそも自分のせいではないことを確信した瞬間であった。


 なお、問題の本質はなに一つ解決していないのだが。


 すんっ、と鼻を鳴らすと、レイヤが面倒くさいとばかりに溜息を溢す。


「……ったく、なに拗ねてんだよ。姉さんが大事にしてた一人娘を邪険にする野郎にみえたのか? この俺が」

「…………そんなこと、ないけど」


 むしろ、社会人になりたてで、馴れないことばかりで大変だっただろうに、日々の世話だけでなく、日々の訓練にも付き合ってくれたのだ。文句などあるはずもない。欲を言えば色々あるが、それはどれも過ぎた願いというやつだろう。


「高専に入ってくる子の大半は寮住まいになる。まして葬魔師になる連中は夜間訓練もあるから、高専に隣接する寮が一番住みやすいってのも事実だ。なにより通学の手間がかからないし、時短ができる。あらゆることでな。トレーニングルームとかシミュレーションルームは四六時中使えるし、部屋も広い。多少の家事さえできれば住み心地は抜群だぞ」

「…………」

「つうか、真面目な話をすると、いまより強くなりたいなら、訓練や実践に没頭できる時間を意識的に作れ」


 車中に、強かな声が響いた。クロエは黙りこくったまま、再びバックミラー越しにレイヤを見つめる。その表情はいつにもなく真剣そのもので、有無を言わさない気迫すら感じられるほどで――まるで、本当に教師のようで。


「そりゃあ、クロエがいてくれて俺も助かってたさ。家事を任せておけるんだから。でもな、裏を返せばそうやって俺のために費やしていた時間を全部訓練に充てられるなら、これからはそうするべきだ、お前は」

「…………レイヤ兄」

「時間が取れないなかで教えてやれることには限りがある。寮に入ればクロエは俺の世話を焼く必要がなくなる。自分に向き合う時間が確保できる。それは……その積み重ねの時間は、生涯かけがえのない財産になるはずだ」


 クロエはいよいよ押し黙る。こうも訥々と諭されるとは思ってもみなかった。中学校の卒業式を週明けに控え、気持ちは四月に向かっていた。けれど、それはクロエだけではなかった。


 レイヤの、クロエに対する想いをまるで意に介していなかった。


 想像以上に、レイヤはクロエの将来と、その才能に、目を掛けていた。


 その事実が純粋に嬉しくて、嬉しいのだと実感してしまって、ミラーから目を背けて、ハート型のクッションに顔を埋める。気恥ずかしさともどかしさの衝動を和らげてくれることを期待して、ぐいぐいと抱きしめることしかできない。


「……疲労困憊のときにこんな話をしても頭に入ってこねぇか」

「寮のことは、考えさせてほしい……、かも……」


 ぐらつく天秤を頭に思い浮かべながら、口にできるのは先延ばしのお願いだけ。

いつだってそうだ。クロエの人生は突然に選択を迫ってくる。


 そして、先延ばしにしたところで、選択肢など端から一つしかないのだ。


「まぁ、まだちょっとは猶予はあるし、じっくり考えな。つうか寝てろ。到着まで、まだまだ掛かるからな」

「……そーする」


 疲れて頭は回らない。ならば、明日の自分に任せるのみ。


 そうして、クロエは意識を手放した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

未題のダイジェスト:______ 辻野深由 @jank

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ