桜怪談

なつのあゆみ

第1話


 夜半時、裏路地の小さな公園に人はいない。路地に向かって細い枝を伸ばした、桜の木がある。生ぬるい風が吹いた。


「あの枝、まるで命乞いをする老婆の手のようだ」


 同僚がせせら笑う。僕は同意しかねる。


 長方形の団地が並ぶ住宅街にある、小さな公園にある桜は毎年、咲かない。


「酔いを覚まそう」


 同僚が自販機で水を買い、公園に入っていく。僕は同僚についていき、ベンチに座った。貧相な電球の街灯が、やせ細った、蕾もつけぬ木を照らしている。


 家が近所だと理由で同僚の見送りを任されて辟易している。いつもに口元にうすら笑いを浮かべ、二十代後半にしては頬の皮膚のたるんだ同僚を、僕はできれば目にしたくない。


 毎年、彼は新入社員を酔い潰しては、いい気になる。そして彼もひどく酔っ払う。

 唾棄すべき者と、咲かぬ桜を見ている。

 気分が悪い。


「あの桜、なぜ咲かないか知っているか?」


 知らない、と僕は答える。


「呪われているんだ」


 ああ、ひどい戯言だ。

 僕は足を組み、ベンチの背もたれによりかかって、悪い酒のせいで気分が悪い、という体勢を取る。


「ここは昔、山だった。山が切り崩され住宅地となった。口べらし、知っているかな? 飢饉で育てられない子供は殺された。昔、ここが山だったころ、多くの子供が置き去りにされ、犬に食われて死んだとか、生き埋めにされたとか」


 同僚はにたにたと笑っている。


 怖気が走る。酔っているとはいえ、そんな話を笑いながら出来る神経を疑う。早く帰りたい。しかし僕の胃袋の底で急にアルコールがうずまいてきて、立ち上がるとめまいがしそうだ。


「殺された子供の怨念で、あの桜は咲かないそうだ」


 はあ、そうか、と僕は溜息交じりに答えた。

 安直な怪談話だ。

 貧相な桜の木は、枝ばかり伸びて全体に栄養が行き届いていないようだ。悪い虫に食われ、ろくに手入れもされず、花をつけないのだろう。公園の外へと枝を伸ばしているのは、豊穣な地へと逃げたいように見えた。


「しかし、桜が咲くことがあるそうだ」


 僕は同僚の方を見た。彼はやけに真面目な顔になっていた。


「桜の幹に赤い紐が結ばれていたら、花が咲くという証拠だそうだ。たとえばこう温かい夜に、赤い紐がいつの間にか結ばれていて、それを解くと花が咲くそうだ」


 同僚はじっと僕を見て言い、水を飲み干してペットボトルをゴミ箱に投げた。

 同僚が立ち上がり、歩き出す。もうふらついていない。僕はほっとして、立ち上がった。


 曲がり角で奴におつかれさま、と言おう。


 赤い紐が結ばれて、解けば花が咲く。

 怪談話の落ちとして、どうもしっくりこない。それではまるで、めでたしめでたしで終わる昔話のよう、口べらしで殺された子供の怨念と結びつかない。

 とんだ与太話に付き合わされたものだ。


「おや」


 僕は同僚の背にぶつかりそうになった。


「おい、あれ見ろ」


 興奮気味に同僚が言う。


 闇に赤いものが浮かんでいる。太い紐の先が、ゆったりと生ぬるい風になびいた。

 咲かぬ桜の幹に、赤い組紐が、ちょうちょ結びされていた。


 いつの間に。誰も来なかった、物音一つしなかった。


「解いてみよう」


 同僚が桜に近付く。


「やめておけ」


 つかもうとした彼の肩は、すりぬけた。


「おい、やめるんだ」


 怖気がうなじから、つむじへと走ってくる。

 いやな風が吹く。

 乱暴に同僚は紐を解いた。


「ああ……」


 感嘆の声をもらし、同僚が桜の根元に座り込む。


「……咲いた」


 震えながら僕は桜の木を見上げた。


 真っ白だ。


 細い枝に大きな白い花が、たくさん咲いている。みっちりと寄せ合い咲いて、木はまるで白い塊のようになっていた。


 本当に、桜が咲いたのか。


 僕は一歩、桜に近付いた。

 花が大きすぎるし、白すぎる。もしや桜の木ではなく白木蓮だったのか。


 二歩、踏み出す。

 丸い、とても丸くて小さな。


 三歩目、動けなくなった。

 花ではない。

 小さな頭蓋骨の眼窩から、枝が出ている。

 その隣のさらに小さな頭蓋骨は、枝に引っかかっているだけで、今にも落ちてきそうだ。

 一振りの枝に連なる、五つの頭蓋骨が、くるくる回った。風にもてあそばれる桜の花びらのごとく。


 小さな小さな頭蓋骨、枯れ細った枝に咲いた。


「あっはははははははは」


 同僚が笑っている。


「咲いた! 咲いた! 咲いた!」


 同僚は歓喜の声を上げて赤い紐を手にした。


 長く太い丈夫な赤い紐を、同僚は首にかけた。


「あっはははははははは」



            終

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