第一部/最終話 ただいま


「邪魔するえー」


ふとした声の闖入に、田路彦はリクライニングを起こして背後を振り返った。取り換えたばかりの蛍光灯が照らし出すのは、一人の女。

年の頃は二十代前半。目尻の下がった眼はどこかのんびりとした印象を放つ。背中まで伸ばした黒髪は、毛先が柔らかくカールしていた。すらりとした長身は魅力的だが、しかしながら、胸や尻の類はまるで少年の様であった。

魔力を宿す緑眼に見つめられながら、しかし田路彦は緊張する様子もなかった。


「ファアファル殿か。珍しいな、こんなところにまで足を伸ばすとは」

「会長はんに用事なんやけど、生徒会室に見当たれへんのどす」


ファアファルは半眼で嘆息する。管制室内は足の踏み場を探すのにも苦労する程に書類の山が方々に築かれていて、彼女はヒールで踏み抜かないよう慎重に足を進めた。

その散らかり具合は往年の装いを呈していたが、その実、どれもがここ三カ月以内に生まれた書類――つまりは人魔同盟締結後に発行されたものである。

もはや山脈と形容しても過言ではないであろう書類の山が、締結後からの目の回るような日々を象徴しているとも言えた。


「成程。それでここなら会長殿の居場所も特定できるだろうと」

「そういうことどす」


言いながら、ファアファルは田路彦の座すリクライニングの背もたれに手をかけた。その手に顎を乗せて顔を向けるのは、正面の壁一面に並んだ縦横五つずつのモニターだ。

きょろきょろと目的の人物を探す彼女の顎先を、田路彦は何となく見上げながら、


「周囲の者に尋ねた方が早かったのではないか?」


問うと、ファアファルは拗ねるように口を尖らせた。


「えんばんと、そないわけにもいけへんのよ。話しかけるどこか、あてが目ぇ向けただけで気まずそうに身体強張らせてそっぽ向いて」

「魔眼を恐れてか。それにしても減ってきたのではないか?」

「なむなむやなあ」

「なむなむ?」

「まずまずって意味!」


一転して鼻息荒く笑顔を向けるファアファル。


「……ああ、最近覚えたのだな、その単語」

「そうなの!」

「易々とキャラを捨てるなというスクルド殿の説教が聞こえてくるようだ」

「よしとくれやす気味悪い!」


本気で嫌そうに首を振って、ファアファルはモニターに目を向け直した。


「まあ正直、受容派と抵抗派を見分けて聞くんも骨折れるしなあ」


公式に同盟を締結したとはいえ、個人の心情はスイッチを切り替えるように容易には変化しなかった。無理もない。長年の絶対的な支配関係を忘れるには、どうしたって日が浅かった。三か月を経たいまでも、新たに同士となった異族を認められない者は一定数以上いる。


魔族はまだ半数以上が抵抗を示すし、あれだけ悲願として掲げてきた人族の中にさえ抵抗はいる。特に自虐戦争を経験した大人の中に散見された。

その溝は、一朝一夕には埋まる事はないだろう。


「とはいえ、友好的な姿勢を見せる同士が増えているのも事実なのだ。ファアファル殿も魔族代表である以上、あまり逃げ腰になっていては示しにならないのではないか?」

「分かってはりますっ。やけど今日は公務やあらしまへんさかい、大目に見とくれやす」


むくれるファアファルに胸中で苦笑して、田路彦は一つのモニターを指差した。


「お目当ての会長殿なら居住区画の大調理室なのだ」


目を眇めると、確かにモニターの中に、調理器具を持って忙しく立ち回る小さな少女の姿があった。余程気合を入れているのか、彼女が背にするテーブルには既にいくつもの料理が並んでいた。大鍋を火にかけながらフライパンを火にかけているところを見ると、まだ品数を増やすつもりらしい。

十人、否、二十人分にもなるだろうか。


「なぁんでこんな真昼間から?」

「今日は久々に書記殿と監査殿、会計殿が渉外業務から戻ってくるのだ」


ファアファルは田路彦の口にした代名詞をそれぞれ桐吾、歌誉、なずなと読み替えて、頭に疑問符を浮かべた。


「久々? なずなはんとは一週間前にここで会うたばかりやけど」


生徒会役員をはじめ、多くの人族はアシハラ外へ出かける渉外業務が激増した。向かう先は北海道から沖縄まで全国に渡り、それを複数のチームが分担している。中国やロシアにも一部教師が使節団として派遣されているが、こちらは人員不足のために注力できていないのが現状だ。


渉外業務の主な目的は三つ――都市再興計画の推進、抵抗派との和平交渉、龍族による暴動の鎮圧である。

特に龍族の暴動には、未だに頭を悩まされていた。

交戦権を失った龍族が人を襲えば、基本的にはオルテラによって鎮圧される。但し、交戦の罰則としてコスプレを強要してきた事もあるような女だ、彼女の天秤に全幅の信頼を寄せる事は出来ない。事実、龍の襲撃例は人魔同盟後も後を絶たないのだ。


王政の頂点に立つカザロロフ・ヒドリョフとの和平交渉は拍子抜けする程に順調に進んでいた。が、そもそもこの王政自体がとっくに形骸化している。かつて宮廷闘士団を務めた実力者達が地方領主として長く群雄割拠してきた事が、龍族間の情報共有に大きな妨げとなり、なかなか龍族全体の抵抗は収まらない。

魔族という大きな力を得たとはいえ、なずなや桐吾は、いまも戦い続けている。

一度出掛ければ少なくとも一週間、長ければ一か月以上戻ってこない。加えて、なずなと桐吾とは別働チームで任務に就いているため――


「個人単位ではしばしば顔を合わせるのだが、同じ日に全員揃う事が滅多になくなってしまってな。今日がその日というわけなのだ」

「ああ成程」


得心して、ファアファルは浅く笑みを浮かべた。


「そら張り切りよるやろなあ、あの小ぃこい会長はんは」

「そういうわけなのだ」

「邪魔しよったらあかんし、ほんなら今日は帰らはります」


そう言って踵を返すファアファルは、帰路にも書類の山に悪戦苦闘していた。

その様子を見送りながらふと思いついて、


「差支えなければ、代わりに聞いておくが?」

「あら珍しい。田路彦はんも生徒会の自覚ちうもんが出てきたんやろか」


振り向くファアファルは、袖で隠した口元でくすくすと笑んだ。


「やかましいのだ。嘘なのだ。帰れ」

「そういけずな事言わんと」


なだめる声を向ける相手は、バツの悪そうな表情でモニターへ向き直ってしまっていた。

ファアファルは短く嘆息を挟んで、声音を改めた。


「どうもエルフ族の動きがキナ臭いっちゅう噂があってなあ」

「エルフ族?」

「それが、こっそり龍族の旦那らに交渉持ちかけ――」


と、ファアファルの言葉は唐突に寸断される。突如として、室内に非常を知らせるサイレンが響き渡ったのだ。天井の非常赤色灯もまた、慌ただしく明滅を始める。


「何事どすか?」


今度こそ書類の山を蹴り倒して、ファアファルは田路彦へと駆け寄る。


「いま調べているのだ……ッ!」

ファアファルが背もたれに手をかけて顔を伸ばすと、既に田路彦は索敵を始めていた。キーボードを素早く操作しながら、手元のラップトップと眼前のモニターへ目を走らせる。

数秒で異常を特定した田路彦は、一つのモニターの表示を拡大させた。


「……馬鹿者め。さては帰郷に気を緩めたな……?」


Kのモニターに映し出された人影に、田路彦は辛辣な言葉を投げかける。

半眼で見据える先には、一人の少年が韋駄天を想起させる速度で疾駆していた。靴底に仕込んだ特殊なベアリングを滑らせ、アシハラ市街を騒がせる。

その後方には人族とはとても似つかない、三メートルにも達する巨躯が追走していた。頑健な鱗に身を包んだ筋骨隆々とした四肢を大胆に唸らせ、獲物を射抜く鋭き眼光の下には、ずらりと獰猛な牙が並ぶ。

龍族。かつて最強の称号を欲しいままにした暴虐の種族が、アシハラに侵入していた。

まるで少年と龍族が煽動するかのように、周囲の者達の騒ぎが拡大していく。あるいは悲鳴が、あるいは勇ましい声が、あるいは歓声もあった。


「いつでも行けるわよ、田路彦」


ふと風に運ばれてきたような気まぐれさで、田路彦のもとに声が届いた。

状況に頭を抱えていた田路彦はこめかみをピクリと震わせる。瞠目の視線で声の主を探すと、伝声管に目がとまった。

聞き覚えのある声は、そこからしていた。


「あれ? 聞こえてるわよね?」


平然とした口調は、どこか緊張感に欠ける。だがそれは、声の主が抱える自信の表れでもあった。

もしもーし、と応答を求める声が繰り返される中、田路彦は苦笑した。


「いつ戻ったのだ?」


声を返すと、嘆息の気配が伝わってきた。


「何だ、やっぱり聞こえてるんじゃないの。――ついさっきよ。全く、羽を休めようとした直後にトラブル持ち込むとか、私の事嫌いなのかしら」

「自分の拳に聞いてみるといい」

「……拳に聞くと心当たり返ってきそうだから胸に聞いていい?」

「好きにしろ」


言いながら、手元のラップトップの表示を切り替える。管制室下のドックに格納されたアビス・タンクの状態が、一覧となって田路彦の目に飛び込んできた。

人魔同盟後に随分と個体が増えたそれらのコンディションを素早くチェックしながら、伝声管の向こうへと指示を飛ばす。


「では、七十七番を装着するのだ」

「充電率は?」

「百パーセント」

「万全ね」


下方ドックでアビス・タンクの装着を終えると、その旨がラップトップにも返ってくる。

電源が入ると、血が巡るように出力が開放されていく。無心の鋼鉄機械に熱が通り、人の意志を増幅させる希望の担い手としての力を再現していく。

アビスタンクの起動を確認した戦友は、田路彦へ言葉を投げた。


「じゃ、迎えに行ってくるわね」


   ◆


油断した。凱旋した間隙をついて、アシハラの出入り口に潜んでいた龍族が桐吾に躍りかかったのだ。必殺の一撃を間一髪で回避した桐吾は、そのままアシハラ市街へ逃げ込む事にした。

わざわざ市内に脅威を持ち込むような真似は、普段なら決して取りえない選択だ。

だが、桐吾は今日がどういう日かを承知していた。自分が一番頼りにしている戦力が、すぐそこにいる事を充分に分かった上で、桐吾は敢えて市内を一直線に駆けた。

そして、その信頼は突如として頭上より現れた。

無数の鋼鉄で構成された外殻は。かなりずんぐりとした印象を受ける。特に肩部と胸部の装甲が厚いせいで、逆三角形のようなシルエットを持つ。外殻だけでも相当な重量があるはずだが、しかし彼女は、鈍重さを一切感じさせない機敏な動きで躍り出た。

その鋼鉄機械は、桐吾の頭上を飛び越えるようにして、足を天に投げ出した逆さの姿勢で、危なげなく剣を振るったのだ。


鮮やかな一閃が、吸い込まれるようにして龍の首を捕える。


一瞬の邂逅で決着はついた。

重たい音を響かせながらアスファルトに着地した鋼鉄機械――アビス・タンクは、剣を背部の鞘に収めながら桐吾を振り返る。

鋼鉄の装甲を挟んで、視線が交錯する。

脅威が去った事に表情を緩める桐吾の視界で、アビス・タンクの装甲が前後に割れた。空気の抜ける音と共に各部装甲は下方へスライドしていき、やがて装着者の姿が露わになった。


眼前で、桐吾の思い描いていた通りの人物が息をつきながら汗をぬぐう。そんな何気ない仕草さえ、戦闘用のボディスーツに身を包んだ彼女ならば様になる。

久々に顔を突き合わせた二人は、無事と信頼を確かめるように姿を認め合う。


気の利いた言葉はいらない。

二人は互いに笑みを浮かべ、帰還した戦友へ喜びと祝福の言葉に代えて告げる。

網代なずなは高天原桐吾へ。

高天原桐吾は網代なずなへ。


「――ただいま」

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