鈴カステラ

「ふう……」


 ついつい、ため息がひとつ。

 私は悩んでいる。


 先ほど、協力会社さんから、メンバーの欠員で開発の進捗が大きく遅れてしまうという連絡が入った。

 しかし、そんなことはどうでもいい。

 遅れが発生したなら、何か手を打つのみだ。お客さんに頭下げるなり、こっちでも手を動かすなり、どうとでもなる。

 そんなことで悩んでなどいない。


 まだ定時内、しかも一五時という時間なのに、社内に私以外誰一人としていない。

 しかし、そんなことはどうでもいい。

 よくあることだ。元々人数は少ない会社だし、みんな営業や打ち合わせに出てしまうなんて日常茶飯事だ。

 そんなことで悩んでなどいない。


 仕事じゃないとすると、何か。


「はあーっ……」


 もう一つ大きく、息を吐き出す。


 しばらくの間、というか、上京して以来、恋人と呼べる者がいない。

 しかし、そんなことはどうでもいい。

 そりゃあ、キャッキャウフフしたい気持ちがないわけでもない。今はその必要性を感じていないのだ。もう少し悠々自適な生活を続けたい。……なんてことを言っていると婚期を逃すのかもしれないが。

 そんなことで悩んでなどいない。


 積んでいるゲームがたまる一方だ。

 しかし、そんなことはどうでもいい。

 プレイしたいと思うときにいつでも始められる。こんな贅沢なことはないじゃないか。

 そんなことで悩んでなどいない。


 じゃあ何なのか、と。


「危険だ……これは危険すぎる……」


 デスクに座る私と、愛用のハッピーハッキングキーボードの間に鎮座する、

 お昼休みに会社の近くの100円ショップで買ってきた、ころころと丸くて、茶色と黄色のコントラストがなんともかわいらしいのが125gも詰まっている、


 そう、だ。


 …………。


 だ、だってだって、これ絶対開封したら全部食べちゃうパターンでしょ? 絶対おいしいでしょ?

 何も気にせず、開封してしまえば幸せだったのかもしれない。

 でもでも、ついつい栄養成分表示を見てしまった。

 カロリーはあまり気にしない。本質を見るには、炭水化物だ。

 100gあたり、炭水化物が70g。

 、ね。、じゃなくて。

 一袋だと90g近くいっちゃうよね!?

 一日あたりの標準的な炭水化物摂取量は、確か200gくらい。

 これだけで半分近く摂取できちゃうじゃない。なんというコスパ。


 ……じゃなくて!

 こいつはとんだ猫かぶりだよ!

 こんなかわいい見かけで人の寝首を掻く凶悪な牙を隠し持っているよ!

 この袋を開けたら最期、私はこの獣に狩られてしまうかもしれない。

 ああでもなんてかわいらおいしそうな……ううっ、悩む!!


「にゃあ、おじょうちゃん、にゃにをそんなににゃやむことがあるのにゃ」


 ん、妖精さんか。

 なんか、大きなねこ耳つきで茶色と黄色のトラ柄のパーカーを着ているし、しゃべり方もにゃーにゃー言ってるし。あとやっぱり、首元の大きな鈴。鈴カステラだもんね。

 かわいいけど――


「なんですか、おじょうちゃんて。あなたのほうがかわいらしいおじょうちゃんみたいじゃないですか」


 いやむしろ子猫ちゃん?


「ムッ、吾輩わがはいを誰だと心得ておる! 鈴カステラ様じゃぞ! 名前はまだない。歴史は古く……あれ、発祥……どこにゃったか……」


 とんだドジっ子だー!


「と、とにかく、吾輩はおじょうちゃんよりももっともーっと偉いんにゃ! わかったかにゃ!」

「はいはい、エライエライ」


 めんどくさくなってきたので、袋を開けて鈴カステラを一個、妖精さんの前に転がしてみる。


「おっ? にゃっ、はっ!」


 おお、食いついた。さすがねこ。鈴カステラの周りをごろごろ転がりながら手足で一生懸命じゃれついている。


「吾輩はぁー(ごろごろ)、偉大にゃー(ごろごろ)、鈴カステラ様でぇー(ごろごろ)、たーのしー!(ごろごろ) おいおじょうちゃん、聞いているのかにゃ!?(ごろごろ)」

「はいはい聞いてますよー」


 あーもう、激しくのどをごろごろならしちゃって。獣め。

 まあこれでしばらく放置しておけるでしょう。

 で、袋を開けてしまったのではもう仕方がない。おいしいうちにいただくのが礼儀だろう。偉大な鈴カステラ様をいただくとしよう。



 いただきます。

 袋からきれいな鈴をひとつ、取り出す。

 表面にまんべんなくまぶされた砂糖の、ざらりとした感触を楽しむ。

 そして一息に、口に放り込む。

 先ほど指で味わったばかりの砂糖のざらざら感を舌に感じる。甘い。

 ゆっくりかみしめると、想像していた以上のふんわり感。

 続いて来るのは、ミルクと卵、そして蜂蜜で彩られた優しい味わい。

 んはぁ……しあわせ。

 こうなってしまうともう止まらない。

 私は工場の機械のように同じ動きを繰り返し、口の中に鈴カステラを放り込みかみしめる簡単な作業に没頭する……。




「あっ……」


 ない。

 気がつけば、袋の中に、ひとつも、ない。

 ……いや、まだ!

 視界の端には、未だ鈴カステラにじゃれついて遊んでいる妖精さん。

 すばやく彼女から鈴カステラを奪い取り、口へ運び込む。


「にゃっ!?」


 ……うん、おいしかった。ごちそうさま。


「にゃんてことをするのにゃ! 吾輩の大事にゃおもちゃを――」


 食ってかかってくる妖精さんをじっと見つめ、にっこりほほえみ、やさしく話しかける。


「ふふ、もしかしてあなたも食べたらおいしいんですかね……?」

「――!?」


 毛を逆立てておののき、じりじりと後ずさるねこ……あ、デスクから落ちた。勝手にインベーダー柄トートバッグに入ってくれたか。そのままお持ち帰りとしよう。

 しかしあの怖がりよう。獣なのは私だったのだ、きっと。

 仕方ない、鈴カステラの前では皆、獣になるのだ。



 ふと、私は一つの事案を思い出し、頭をかかえる。そして、決意するのだった

 ……晩ごはんは、炭水化物抜きにしよう、と。



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