第2話 2015年3月28日 緑が丘北中学校

 田平孝之たひらたかゆきは校長室にいた。

 言い知れぬ緊張感。これから、新しく赴任する教職員の打ち合わせが始まる。

 目の前には封筒が置かれていた。中には厚い冊子と千鳥格子のファイル、それに数枚の紙が入っている。封筒には、「ようこそ緑が丘北中学校へ! よろしくお願いします」と書かれた紙が貼られていた。新卒の、期限付き教諭として赴任した自分にとって、暖かいんだか、プレッシャーをかけられているんだかわからないメッセージに、心の中で苦笑する。

 とりあえず冊子を取り出して目を通してみるが、学校経営案やら教育重点目標やら、少なくとも今の自分が落ち着いて読める文章は載っていない。それでも気は紛れるかもしれないと、文字だけでも目で追った。


 しばらくすると、コンコンとノックの音がして、ベテラン教諭らしき男女が入室してきた。教頭と、教務主任というやつだろうか。空気がさらに緊張感を増す。最も、そう思っているのは自分だけかもしれないが。

「本日はお忙しい中お越しいただきありがとうございます。校長は今参りますので、もう少々お待ちください」

 女性教諭が全員に向かって言った。肥満体の体に鋭い目つき。それに比例するようにして声が良く通ると田平は思った。きっと百戦錬磨の経験を持つ人なのだろう。

 反対に、男性教諭は細身で、先ほど入室して椅子に腰かけてからは一言も話していない。少々古い言葉でいうと、優男といった感じだ。先ほどから目をつむり、眉間に皺を寄せている。風格こそ足りない気がするが、校長と言われれば違和感がないように思える。田平はぼうっとして、2人をそう分析していた。


 ガチャリと音がして職員室側のドアが開き、1人の男性が入ってきた。眼鏡の奥の小さな目でこちらを見、「本日はお忙しい中お越しくださり、ありがとうございます。」と頭を下げた。この人が間違いなく校長だろう。その場にいた新任の教職員たちも一斉に頭を下げる。それを見計らったように、女性教師が持っていた黒革のファイルを開く。

「では、早速ですが、これから新規に赴任された先生方との打ち合わせを行います。わたくしは教務主任の橋本美穂子はしもとみほこと申します。よろしくお願い致します。不肖ながら、進行を務めさせていただきます」

 なるほど、この人が教務主任か。田平はその人の顔をじっと見た。

「では、まず教頭と校長の方から、自己紹介もかねて本校の説明をお願いします」

 橋本に促され、校長が席から立って話し始めた。

「私が校長の春日井義春かすがいよしはると申します。これからどうぞ、よろしくお願いいたします。本校の説明につきましては、教頭からさせていただくことになります」

 そういって、自分の席に座った。なんともあっさりした自己紹介だ。田平は少し面食らったように思った。

 次に、先ほどから目をつむっていた男性教諭――おそらく教頭であろう――が立ち上がり、口を開いた。

「皆さま、本日はお忙しい中お越しくださり、ありがとうございます。私は教頭の道下寿明みちしたとしあきと申します。学校のことで何か疑問点や相談したいことなどがあれば、遠慮なくお声がけください」

 道下はにこりと笑った。先ほどの印象とは全く違う、さわやかな笑顔。田平はまた面食らった。

「さて、校長からもありました通り、本校についての説明を私からさせていただきます。なるべく時間がかからないようにしたいと思いますが、何分口下手なところもございますので、あの、辛抱強く聞いてくれればと思います…」

 最後の一言で場の空気が軽くなった。この人は思ったよりも話しやすい存在なのかもしれない。田平は少し安心感をもって、教頭からの話を聞いた。

 口下手、と自分で言っておきながら、教頭の話は非常に理路整然としてわかりやすいものであった。学校の沿革から校区の範囲、それから校風、生徒の実態まで、実に細かく、それでいて聞きやすいと田平は感じた。

「教師は経験がものをいう」

 先に期限付き教諭として働いている先輩から聞かされた言葉だが、今まさにそれを実感していた。


「最後に、ですが」

 新任教師の自己紹介と質疑応答も終えたところで、教頭が語調を改めて語りだした。

「くれぐれも内密にしていただきたいことを一点お話しなくてはなりません」

 校長と橋本の表情が硬くなるのを、田平は目撃した。一体何の話だろう?

「おととしの暮れ、本校の生徒が不慮の事故によって亡くなっています」

 しん、とその場が静まり返る。

 田平は衝撃で大きく目を見開きながら教頭の方を見ていた。

「同学年であった生徒たち、つまり新学期から3年生になる生徒たちの中には、まだ心の傷が癒えていない子がいます。もしその件を話してくる子があれば、皆様におかれては「新任だから知らない」という立場で話を聞いていただき、私にご相談ください。場合によっては、養護教諭やSC(スクールカウンセラー)とも連携する必要があるかもしれません。繰り返しになりますが、くれぐれも内密にお願いいたします」

 教頭はそういうと、深々と頭を下げた。校長と橋本も頭を下げている。

 田平は自分の眉間に皺が寄っていることに気が付いた。自分でも無理はないと思う。

 重い空気が場を支配した。

「…私からは以上です。校長先生、何か補足などはありますか」

 教頭が言うと、校長は目をつむり、首を振った。

 タイミングを見計らったかのように、橋本が言う。

「分掌等はまた後でご確認していただくことにしまして、ここからは教頭による校舎見学をお願いします。荷物はここに置いて行って構いません」

 新任の教師たちが一斉に立ち上がる。田平もそれに倣った。


 ふと、封筒のメッセージが目に入る。

「ようこそ、緑が丘北中学校へ!」の文字が、自分の中の不安を掻き立てられるように思えてならなかった。

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