として

@kotoi

第1話 プロローグ

「…あなた」

 風呂場の方から、か細い声が聞こえる。

 前野康則まえのやすのりは吸っていた煙草を慌てて消し、急いで風呂場に向かった。

 急いでいるつもりである。しかし体が言うことを聞かない。実際には老人のように、よろよろと歩いただけであった。

 鉄臭さと生臭さ。鮮魚をさばいた感じではない、異質な臭いが風呂場のドアの隙間から漂ってくる。

「あなた」

 千佳ちかの声がはっきりと聞こえた。さっきもこんな声で呼んでいたのだろうか? だとすれば、結構な元気があるような気がする。康則はドアを開けた。

 刹那、開けたことを後悔した。

 おびただしい量の血。そして何かもわからなくなってしまった塊。

 そして、死んだ目をした妻の目。

「千佳…」

 康則はそっとドアを閉め、妻に近寄り、抱きしめた。

「無理をさせた…無理を…」

「…いいのよ、あなた」

 抱きしめているため、表情は見えない。だが、康則は千佳がか弱く笑っていることが分かった。彼女の髪の毛からほんのりと、血の匂いがした。康則は一層、愛する人を強く抱きしめた。

「…交代の時間だ。…君はもう寝なさい」

 千佳の耳元で、康則はささやいた。

「ううん…私、寝ないわ」

「無理をしちゃいけない…後の仕事は、僕がやっておくから」

「そうじゃないの」

 千佳はゆっくりと康則の首元から腕を離し、彼の目を見た。

香音かのんよ……あの子、きっと眠れてないわ」

 康則ははっとした。腕時計を見ると、針は午前2時を回ろうとしていた。

「そうか…すまない…」

 予想以上に憔悴した自分の声に、康則は驚いた。もっとも、それを表情に出す余裕は残っていなかった。

「……お願いね」

 千佳はそう言い残して、風呂場を出て行った。


 残されたのは、康則と、段田彰だんだあきらの死体のみであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る