第40話 消えたいくらい

 

 恋をした。

 そして、あっけなく散った。急降下して、墜落した儚い恋。


 会った瞬間、その笑顔に目が離せなくなって、身体中に彼の声が響いた。あっという間に恋に堕ちていた。あの日の奇跡にも思えてしまう夜を、私は生涯忘れることができないだろう。


 あれは秋がはじまったばかりのある夜。空気が一気に夏から秋に変わったあの日。

 待ち合わせの場所に向かう途中で、デパートの一階の化粧品売場を通った。いつも漂っている甘ったるい香水が、何処かで新しいことがはじまる予感を連れてくるような気がした。


 私に好意をよせてくれる人がいた。いい人だな、付き合ってみようかなと思いながらも、まだ二人きりで会う決心がつかなくて、お互い友人を連れて飲みに行くのはどうかなと提案した。きっと彼は、あの人を連れてきたことを心底後悔しただろう。逢わせた瞬間に。


 ひとめぼれって、あるんだ。高熱を出した時のように、全身に訴えかけてきて。


 それは、想いが通じるとか、届くとか、そんなことは関係なくて、私の、私だけの感情のはずだった。そうであったらよかったのに。


 彼女がいるのなら、君から電話をくれて嬉しいよなんて言わなければいいのに。ごめんねって消えてくれたらよかったのに。あの人からは一度もかかってこなかったのだから、もっと早く気づかなくてはいけなかったのに。


 別にイタリア帰りだからって、女の子に甘い言葉で応える必要ないんだよ。可愛かったから断り切れなかった。だなんて、言い訳を最後に言ったりしなくてよかったのに、ね。


 もうあの人のどこがそんなに好きだったのか、思い出せないんだ。でも、好きになり過ぎて抑えきれなかった。それだけはいつまでも残っている。



 いてもたってもいられなくて、何かしていないと壊れてしまいそうで、思いつくことに何でも手をつけた。忘れるなんてできないってわかっていた。無理やりでも遠くに追いやらないと、苦しくて仕方がなかった。


 強いお酒を飲んで、たいして吸えもしない煙草に手を出し、クラクラ頭の中の妄想が回る。地球もついでに回っている。吐くほど酩酊しても何も変わらない。わかってる。こんな陳腐なやり方では追い払えない。

 朝、冷たい床の上で目が覚める。私、何しているんだろう。


 家族に普通に接する自信がなくなってきて、真夜中にしか家に帰れなくなった。だから深夜までほっつき歩いていた。こんな姿、誰にも見せられない。恰好悪すぎるよ。ひどい失恋だった。


 どこかで他人の目にふれていれば、そこまで酷い醜態をさらせないだろう。そこまで落ちぶれはしないだろう。そう思っていた。だから、あえて街中に出てひたすら歩いた。小銭をポケットに直接入れて、その分だけで過ごす。冬が近づいてきたから風も冷たい。上等だ、冷たいからいいんじゃないか。


 忘れ方がわからなくなっていた。今までだって失恋なんかしてきたはずなのに、どうやって乗り越えてきたんだろう。長く好きだった人への想いは、年月をかけてゆっくり色褪せるのを待っていたけど、今回の爆発みたいな恋には、忘れるのにも爆弾級の何かが必要な気がして、いっそ狂ってしまいたくなった。


 相手にとって自分が必要じゃないってわかったならば、取る行動はただ一つだ。友人として切り替えられないのであれば、きっぱり去って断ち切る。それくらいのことはできる。連絡先や思い出すものは全て捨てる。一緒の空間で生きているわけじゃない人とは、これができる。同じ学校や職場だと見かけるたびに心が痛んだりするけど、幸い二度と会うことはない。


 けれども、思い切りのいい行動に相反して、自分の中に残ったものは未練でぐちゃぐちゃで、これと一人きりで戦わなくてはならないから、たまらない。


 そんな時、ふと見かけた青みがかった映画のポスター。横顔の写真が、あの人に似ていた。そんなの見たら余計辛くなるのに、気づいたらチケットを買っていた。

 上映の間ずっと、私は静かに泣き続けていた。音もさせずに涙がどんどんあふれた。


 何を見ても、何を聞いても、すべてがあの人に繋がってしまう。

 中世的な顔が驚くほど似ていた。背が高くて、胸板が薄くて、悩む顔がきれいだった。

 その男は男が好きだという。お話の中だから同性愛者に驚かなかったけれど、表立ってその気持ちがわかるなんて迂闊に言えない。その内容は衝撃的で、でも二人の俳優のお陰か、違和感なく見られた。誰かが誰かをすきになるのに性別なんて関係ないんだとすら思えた。


 主人公が、ラストシーンでとにかくひたすら街を彷徨う。どうしていいかわからない時にはそうなんだよねって、一緒に迷った気持ちでうなずいた。

 衝動で飛び出してしまった後の女の人が、その後我に返って何をするんだろう。こういうことをしでかしそうな私は、うわ、林檎買うのかって呆然と見ていた。傍から見ていたら、かなりメンドウな滑稽な女なんだろうな。


 でも、観終わってすっきりした気分になれた。いつしか薄れていくのだろう。そう思ったら、初めて少しだけ先が見えたような気がした。悲しみの果てに。



 やっと落ち着いて部屋にいられるようになったから、その映画の原作を読み始めることにした。それが、江國香織さんの「きらきらひかる」だった。


 その本は、淡い紫を基調とした装丁で、タイトルは銀色に光っていた。

 ひかるもの、光、星、月、反射、読む前に色々考えてみた。欠片が散りばめられたもの。


 主人公の名は、笑子。笑う子と書いてショウコと読む。これつけられたらずっと笑っているか、笑えないか、二者択一になりそうだ。実際彼女はいつも不機嫌そうで、自分をコントロールすることができない。


 夫の名は睦月、彼の恋人の男の名は紺。

 笑子と睦月が交互に語る物語。映画と原作は色は似ているけど、小説の方が笑子の惑いがさらに深く描かれていると思った。世間とうまく繋がりを持てない彼女に連れ添うようにして存在する睦月。そう。私があの人の面影を重ねた睦月。やはりこの人に惹かれてしまう。


 抱いてくれなくて、さみしくないのって聞きたかった。

 たとえ自分に心を向けてくれなくても、側にいてくれたらしあわせだろうか。

 抱いてくれても、話もできない人の方がさみしいかもしれない。

「水を抱く」って言葉は、ぴったりだった。

 まったく実感のないもの。腕をすりぬけていってしまうもの。

 どっちがいい? 両方くれたらいちばんいいけど、体と心、どっちかの繋がりしか、もしも持てないとしたらどっちを選ぶ? どちらでも埋められないんだろうな、きっと。


 あとがきで、江國さんが、恋をすることは無謀だ、蛮勇だって。

 すきになったり、信じるって、ほんとに何故しちゃうんだろう。

 お互い好きだと思っていても、ずっと同じでなんかいられないのに。どこにすきなんて思ってしまうスイッチがあるんだろう。


 彼女が七夕の短冊に一枚だけ書かなかった願いに想いを馳せた。

 いちばん叶えてほしい思いは書けないんだ。誰かに見つかったら叶わなくなるから。大切な夢を人に話した途端、消えてしまうのと同じように。


 やさしかった。ひたすら私にその本は優しくしてくれた。

 やわらかい煙で包んでくれるような、そんな心地がした。

 

 私はなぜか、自分も何かを書きたくなってしまった。

 私はむつきという響きにすっかり魅せられてしまった。でも六月生まれの癖に睦月と名乗るのは嘘っぱちな気がして、六月と書いてむつきと名乗っている。

 私は作家になれようがなれまいが、一生文章を紡いでいきたくなった。心を遊ばせる。いつしか真剣になってしまう程に。 



 「忘れるためにやってみること」を箇条書きにリストアップして、実行できることから片っ端にやってみることにした。人の誘いにも出掛けていけるくらいには回復してから。生まれた街を二十年ぶりに訪ねてみたりもした。

 彼を思い出さずに済むように、時間を他のことにかけて、悲しみをそっと揺り起こさないでおきたかった。


 最後にもう一度あの人に逢えることになったから、長かった髪を肩くらいに切った。軽くなって、心も大丈夫なはずだったのに、後悔した。


 この時の自分に降りかかってきた一場面、一場面が何十年経った今でも、ふいに蘇ってくる。あまりに大切で、どうしようもなくなった。


 さみしさは一生埋めようがない。誰であっても、何をしようとも。一瞬塞がったような気がしても、それは錯覚でしかない。


 それでも、関わってくれる人がいてくれただけで、私の人生には淡い光が灯っている。すきになったことは、捨てられない。ずっと、ずっと覚えているよ。






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