第39話 写真の森の迷子


 親しい人たちから、写真の良し悪しって何かと聞かれることがあって。

 これはね、とっても難しい質問! 私に聞くと主観ばかり入るから。

 

 私は単純に一眼レフカメラが家にあったのがきっかけで、社会人向けの講座にちょこっと通った素人。

 技術的なものは何も身についてなくて、雰囲気重視の趣味。だから語るような資格はないのだけど。


 鑑賞については、色々な視点や写真の歴史なんかも齧ったけど、難しいことなしで直観で選ぶのが大切な気がしてしまう。ね、いつもの私となんら変わらない、すききらい。


 絵画と同じで、見た途端にどこか惹かれるもの。きっと文章と同じで、ちらっと覗いただけで引き込まれる何か。


 万人に受ける小説がないのと同じで、万人に好まれる写真もない。

 ただ、それとは別の視点で「何かを訴えてくるような」とか、評価されるものにはきちんと理由があるような気がする。



* 撮影者の意図

 

 講師の方々も自分の方向性があるので、どれがいいと洗脳するようなことは言わなかった。有名な写真家の代表作を見て、ピンと来るものもあれば、何故これが評価されるのかと疑問が湧くものもある。


 小説と同じように、写真はジャンルがたくさんある。ものすごくざっくり分けると、人を撮るのか、撮らないかに大別される気がする。


 人を撮れる写真家には、エネルギーがある。相手に向かわなくてはならない。私は人が撮れない方だ。


 そのせいか、自分にとっての、いい写真とすきな写真は違う。

 例えば、ドキュメンタリー写真であれば、そこにリアルが介在するかのように肉薄したものが、いい写真と言えるのかもしれない。


 真実を突きつけられると逃げたくなってしまう。怖いのだ。

 けれども、凄いと思った写真家がいる。

 ユージン・スミスの写真だ。


 魂をつかまれるような気分だった。テーマはかなり重い。でも、なぜかとても美しい。釘付けになってしまう。多分プリントも命を懸けて焼いている。この白と黒は尋常じゃない。


 私が興味を持つものは、もっとぼんやりとしている。

 最初におもしろいと思ったのは、海岸に打ち捨てられたごみの写真だった。

 それは、ただのごみだったはずなのに、一瞬で切り取られた作品には、絶妙な色合い、掴み取れるような質感が存在していた。


 ああ、世界は美しさで満ち溢れている。なんだかそう思えて、写真に関わっていきたくなった。そこここに散らばるもの。

 何を伝えたいのか。撮った人の心が見えるようなもの。



* カメラ 絞り・速度 レンズ


 写真は絵が書けない私のツール。私はスケッチブック代わりにカメラを使っている。

 そう。写真というのはボタンを押せば誰でも撮れるもの。絵を描くのと違って、簡単に世界がぽんってできあがる。


 写真用語に、絞りとシャッター速度というものがある。


 シャッター速度は、たとえば走っているものを止めたかったら1/5000秒とか、ゆっくり時を映したければ1/30秒とか。星の軌跡を撮る時は三脚を立てて、数時間かけて露光することもある。


 絞りは数字が大きくなるほどにシャープな感じになる。F2.8は開放といって描写が淡い。F16なら奥まで細かく見渡せるだろう。


 カメラにはP(プログラム)モードがあるので、誰でもここに設定しておいてフレームを切り取れば、写真は撮れる。

 ただし、それはカメラ任せということだから、そこに自分の意図したいものを出すためには、更に様々な設定ができる訳だ。もちろん、フレームひとつにも個性は出るけれども。


 また、レンズの選択も重要になる。(フィルムカメラの場合)

 

 簡単に言えば、基本を50ミリ等身大と考えて、35ミリなら広角。広がりを持って撮れる。

 100ミリが中望遠。300ミリの望遠で遠くまで撮ることができる。また、望遠では近くのものの背景をぼかす写真が撮れる。ズームレンズがあれば色々な表現ができるが、単体レンズに比べると仕上がりが甘い。


 学校に入った時、まず50ミリで練習してみろと言われた。すきな距離に自分で移動して、掴むのだ。最初からレンズに頼るのではなく、自分の足で。



* アンドレ・ケルテス


 写真は光と影を映す。


 思えば、私が写真に惹かれたのは、1枚のモノクロ写真だった。


 サガンを読んで、ゴダールのリバイバル映画を観るような、思い切りフランス贔屓だった学生の頃。銀座のプランタンは私にとって、いちばんのお気に入りのデパートで、流れてくるフランス語や、香水の匂いに酔いながら、小さなアクセサリーを買って、1階のアンジェリーナでモンブランを食べるのを楽しみにしていた。


 上の階で催されていた写真展のポスター。アンドレ・ケルテスって誰。つられてなんとなく入った時の衝撃。白と黒の世界がこんなに美しいだなんて。エッフェル塔に稲光が落ちている写真に出逢って、ものの見事に自分の中に雷が落ちた。


 これは私の見方だと思うけど、写真も言葉があふれてくるような、刺激される、喚起されるものに魅入られる。


 詩や物語が浮かんでくる、奥行きや余地があるもの。

 そこから、続きがはじまりそうな予感がするもの。



* 写真の森のピクニック


 写真に解説はいるのだろうか。

 そのプリントを見て絵画のように感じ取ればいいのだが、時にはその奥が知りたくなる。


 なぜならカメラが撮っているのではなく、あくまでシャッターを切っているのは人間だからだ。そこには意図するものが介在する。意識しようと無意識だろうと、そこにはその人の想いが垣間見える。なぜそれを写そうとしたのか、なぜそれを選択したのか。


 だから私は写真展の作者の言葉を読むのがすきだ。本人がいたら話を伺ってみるのもすきだ。その人の世界を知りたいんだ。


 写真評論家、飯沢耕太郎氏の著作に「写真の森のピクニック」という本がある。写真の歴史にふれながら、テーマ毎に色々な写真の共通性を見出していく。


 その中の一節アンドレ・ケルテスの「およぐひと」を読んだ時、同じだと思った。

 私も萩原朔太郎の詩がぱっと浮かんでいたからだ。

 もうそれだけで、この人のことが気になった。彼の講義を聞きに行く十分な動機。


 一枚の写真から、ひとつの言葉から派生していく心地よさを知った。



* 言葉と写真の融合


 写真は「真を写す」と書くから、真実を映し出すものかと思えば、平気で嘘をつく。

 そのものを写していると見せかけて、自ら操作できるものなのだ。

 いらないものを省いたり、都合よく足したりできるから。


 私はどんな写真を撮りたいのだろう。なぜ、カメラを構えてみるのだろう。

 ここに来るまでに、色々なものを撮ってみたんだ。人も撮ろうとして向いてないってわかった。


 花火の写真を撮りに毎週出歩いたり、綺麗な風景写真をめざして水の流れを止めようと三脚担いで行ったり、気に入った物を並べて撮ってみようとした。

 いちばんすきなのは、歩いて小さいものをみつける散歩写真かもしれない。旅先の華々しさもいいけれど、極々個人的な、日常の先に落ちているものに目を向けたくなった。


 光を透かした葉のうら。ぽっとこちらを向く光。

 水のざわめき。鏡や水や窓に映るもの。


 なんだか、こうしてみて気づくのは、言葉との連動だ。

 私にとって一生追い続けたいのは、言葉だ。それを喚起させ続けたいがために、色々なものに手を出している気がする。


 写真もそのひとつ。

 堂々巡りをしてまた出発点に戻ったり、森の奥に入ろうとして、迷子になったり、ずっとしていくのだろうな。





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