第38話 あの街を遠く離れて
自分の生まれた街に、一度行ってみたい。
そんな風に思い始めたのは、いつだっただろう。
引っ越して十年以上、私の中ですっかり忘れていたあの街。
大学生になって、電車でその街の駅を通り過ぎるようになった。
遠かった時には思い出さなかった街の記憶が、こうして毎日駅を見かけることで、徐々に甦って行く。
その駅に用事はない。行くためにはそれなりの理由が必要な気がして、降り立つことはなかった。
暮らしていた家は、今もそのままあるのだろうか。
遊んだ野原は? 怪我をした石段は?
いつかとても辛いことが起きて、人生に途方に暮れたら訪ねてみよう。いつのまにか、漠然とそんなことを考えていた。
何か特別なものがあるわけでもない、私が生まれ育ったというだけで、あの街はいつしか宝を埋めた場所になっていた。
そして唐突にその日はやってきた。今だ。今こそ、行きたい時なんだ。
*
どうしても手に入れたいと思った人と仕事が、同時に無理だとわかって為す術もなかった。すきな人には彼女がいたことがわかって、仕事は最終面接で自信のない受け答えをしてしまって、当然のことながら不採用になった。
失恋と失業か。なかなかに無様に人生の岐路に立っているじゃないか。
今だよね。今こそあたためていたカードを切る時だ。
二十年振りにやってきた街。去った年と同じ十一月。
私は六歳の時に今住んでいる家に移り住んだ。
引っ越しの記憶はチョコボール。お別れに誰かがくれたものなのかな。ずっと箱を握りしめたまま、トラックの助手席に乗って通り過ぎる窓の外を見ていた。
着いてドアを開けた時の、まだ新しい畳の匂いのする家。今日からあなたの家よ。
こどもは引越の意味など、きちんとわかっていない。ある日突然おでかけしたら、世界が変わっていた。
でも新しい生活に気持ちが傾くから、置き去りにしてきた場所は、そのまま残っていつまでも自分を待っているような気がしていた。
私はここには幼稚園の年長までいたことになる。卒園を待たずに秋に越してきた。幼稚園のこと、家の周りのこと、結構覚えている方だと思う。弟は二つ下なので、あまり覚えていないと言う。
私はきっと、写真で見る小さい自分やその背後の風景を重ね合わせ、自分の想い出と擦り合わせた、少々強引な記憶を大事にしている。
*
駅に降り立つが、昔の面影はない。二十年の月日が、何もかも魔法のように変えてしまった。
住んでいた家は駅から結構遠かったから、長い散歩になる覚悟で歩き出した。
いつか行く日のために地図を準備してあった。さりげなく母に、どこに何があったか尋ねて書き込んであった。
車の激しい通りをひたすら歩いて、幼馴染が住んでいた小さな神社に辿り着く。
ペコちゃんのボーイフレンドのポコちゃんにそっくりだった男の子。幼稚園でもいつも一緒にいた。私は男の子みたいだったから、やんちゃな二人だったろうな。もしかすると私が女の子だって思ってなかったかもね。
小さい時は野球のグランドくらいの広さに思えたそこは、今はガソリンスタンドになっていた。一応神社の建物が少しだけ裏に残っている。狛犬さんたち、私のこと覚えてるかな。
大きな病院の横を通る。私が生まれたところ。
季節は引っ越した時と同じ秋。黄色のコスモスが咲いて、金木犀の匂いがする。まるで歓迎されているようで、なんだか嬉しくなる。
父と手を繋いで渡った歩道橋が今もあった。
歩いているうちに「横腹が痛い」と言ったら、「背筋をしゃんと伸ばして歩けば治る」と言われて、ずっとそういうものかと思っていた。今思えば、お腹がいっぱいだったんだろうな。そんな時歩き続けて本当に治ったのだろうか。
幼稚園の園庭を外から眺めて不思議な気分になる。幼稚園の記憶はたくさん持っている。
鉄棒がある。空中逆上がりが得意で何度もくるくる回ったっけ。
運動会の時、うさぎのダンスなのに、もぐらのお面を頭につけて小太鼓を叩いたね。
あの頃から歌ったり踊ったりがすきで、幼稚園は絶対休みたくないくらいだいすきで、元気に通ったな。アルマイトのお弁当箱をあたためてくれるお昼がいつも楽しみだった。
お遊戯会で「マッチ売りの少女」をやって、お目目の大きな薫ちゃんが主人公で、私は最後に「まあ、なんてかわいそうなの」という役だった。着ていたカラフルなボタンのついた白いワンピースを覚えてる。
急な坂を降りる時に、オルガン教室が終わって帰る頃の景色が重なった。
母より先に子供の私が、左に大きく曲がったカーブを行く。コンクリートが板チョコ模様の坂道。
ふと、母を連れてきてあげればよかったと思った。
私に思い出があるのなら、母には尚更だったろうに、その頃の習性であたり前のように一人で来てしまった。私らしいといえばそうだけど。いつも自分のことだけでいっぱいで、誰かの気持ちを汲むことができずにいた。
*
そしていよいよ、自分が暮らしていた家に向かう。
四つ角はすぐわかった。オレンジ色のガムをくれた床屋さん。店先でおまんじゅうを売っていた酒屋さん。八百屋さんは焼肉屋になっていた。そして、大家さんの家はアパートに。
角を曲がって坂を上る。
坂のカーブを覚えていた。大きく右に折れていくカーブ。何度も見た光景。坂の上にはピアノが上手な子が住んでいた。
あ、あった。私の家。
いや、そこにちんまりと建っていたのは、消防署第5分団の倉庫!
小さな古い木造家屋だったもの。残っているとは思ってなかったけど、ああ、そうなんだ。
こんなに小さな土地の上に私の家は建っていたんだね。ぱたぱたと走り回っていたあの家が。やっぱりもうなかった。
小さい時に大きかった鉄棒は、今の自分の腰くらいしかない。
小さい時に長かった坂道は、今はすぐ終わってしまう。
すべてが今はミニチュアのようで、自分が大女のようで。
小さい時の視線は映画館のスクリーンのようだった。今は12インチほどのテレビ画面のよう。
石段も一段が狭くて、足を踏み外しそうな程に。
変わらずにあった石段。大正五年生まれって書いてある。
何度も写真で見ていた私の最初の思い出。母に抱っこされて、手を振って会社に行く父を見送った。
ここで頭を打って怪我もしたっけ。私よく転んだから。
一段一段木の実を踏みしめながらゆっくり上に昇る。涙が少しずつあふれてくる。
上の空地は弟とバレーボールをしたあの白黒写真のまま。すきな人に見せたい場所。
高台から見降ろすと、銭湯の煙突が見える。浩の湯。まだやってたんだね。
やっと帰ってきたよ。もう耐え切れずに、私はしゃがみ込んで泣きじゃくった。久しぶりなのにこんな姿でごめん。でも、いいよね。
ここに来てみて、一つわかったことがあった。
すごい郷愁で来てしまったけど、私にとって、ここは、ほんの欠片の在り処。全てなんかではなくて、ただの原点。
本当に必要のある処は最早ここではないんだな。あの頃の私は悩みもなく、無邪気に笑っていただけだ。だからあこがれてしまったのだろう。
いつか自分の家庭を持ったら、なつかしく思い出される場所はここではない。私の出発点ではあるけど、故郷と呼べるのはきっと今住んでいるところなんだ。
*
もう来ることはないだろう。ふと、私は確信した。
ずっと気になってたことがわかって、ほっとした。ここは最後の切り札だった。ノスタルジアに浸る真似をしたなら、そんな自分を笑ってしまって、もう一度立ち上がるきっかけになる、きっと。今ならいいよって、街が呼んでくれたんだと思う。
この先の自分。一歩進むために、引き換えに振り返るものを一つ減らした。
私にとっての特別だった場所は、再び記憶の中へ帰って行った。少しずつ遠去かっていくのだろう。或いは更に鮮やかに輝きはじめるのだろうか。
帰ってから母に、たくさん街の様子を伝えた。
そう、消防分団になったの。母は懐かしそうに聞いていた。
その時少しだけ思ったのは、母はあれから一度もあの街を訪ねなかったのだろうかということだった。もしかしたら、もうとっくに知っていたかもしれないね。
私はまだ何も成し遂げていない。これからだ。
まだ土台もあやふやだけど、でも、できることがあるはずだ。
そう思った二十六歳の頃。あれから自分は、何かを手にすることができたのだろうか。一生迷ったり、見つけたり、その繰り返しなのかもしれない。
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