第37話 記憶の在り処
大崎善生氏の著作に「パイロットフィッシュ」という作品がある。
私はこの小説がすきですきで、もし無人島に一冊だけ持って行くことになったら、迷わずこれを選ぶだろう。それくらいに。開いて一頁読んだだけで、もう虜になってしまうのだ。
何にそんなに心を掴まれるのかと想う。文章の情景だろうか、言葉の響きだろうか。何度も繰り返し読んでいるのだが、読み終わるといつも違う気持ちにさせられる。
この回を書くにあたって読み直しているのだが、やはりすきだと思う気持ちと裏腹に、今回はやけに命のことが気になってしまった。
考えてみたら、父が死んでから初めて読んだのかもしれない。三年の月日。そして身近な者を見送った後、リアルに感じられる編集長の最期の日々。
人は、自分の経験や体験を通して、少しずつ微妙に、だけど確実に毎日変わっていく。それを同じ本を読むことで突き付けられる気がして、大事な本は何度も読む。
*
この物語の世界に入ると、自分が絶えず彷徨い続けている気になるんだ。 過去も今もこれからも、きっといつもどこにも定まらずに心は浮遊し続ける。掴めそうでいつまでも掬えずに、ただただ空を仰いで水の中にぷかりと浮いて迷っている。
水槽に棲む魚たち。バクテリアの生態系。水槽内のバランスを保つために最初に入れられたパイロットフィッシュ。他の高級魚の環境を整えるために先に準備をしておき、淘汰どころか捨てられてしまう魚。
悲しいことが何よりも大切なんじゃないかって想えてきて、言葉を記憶の海に投げ込む。
圧倒的な印象と、刺さっても抜けないような美しい響きに、あちこち立ち止まり困惑する。
何度読んだら気が済むのだろう。きっと幾度でも。
*
私が若い頃に憧れた男。無機質な部屋に住む、もの静かな人。
世間に動じることもなく、慌てず騒がず中空を見つめている。自分は何者でもない癖に、なぜか確固たる精神を持ち、周りの景色が勝手に変わっていくかのように仕向けていく。人になど関わらなくても構わないと見せかける。手に負えない。
そういう男の周りには、役割を持った女の子たちが次々に登場してその男を翻弄しようとするけれど、誰も何も得られないまま去って行くんだ。
そして私は、まるでそんな女の子たちの一人になりきったように、明るくふざけて振る舞っては、少しだけ自分も彼の物語の中に登場させていく。 決して届かないのに構わずに。
最後に残るのは、失ったものは決して取り戻せないという喪失感と、いつまでも漂い続けるような虚無感。二つが混ざって絶望しかないのに、体だけが軽くなるような感覚。いっそそれこそが希望のように思えたんだ。
*
記憶というものは、厄介だ。
普段、記憶は私の中に、まるで整然と引き出しに収まるかのように存在している。きちんと年代ごとに折り畳まれているかの如く。
ところが、その記憶たちは日々あちこちに乱暴に移動を重ねて、うっかり引き出した時に、勝手に時系列関係なしに飛び出してくる。
他のことなど蹴散らして、我先にとばかりに私に訴えかけてくる。
それは夢の中の時もあり、突然炎の如く持ちかけられ、迷惑も顧みず強引にやって来るのだ。
この感情、この困惑、この熱情。順番を一切守らない、どうしようもない君たちよ。自分のことであり、誰かからの呼びかけであり、何処かに叩きつけないといけないもの。まだ効力が消えずに、支配されたように私は囚われてしまう。
近付いてはいけない。そう思えば思う程、側に寄ってしまう。私は囲われたように見せかけて、仮初の振りをして本当の私を隠す。燃やされてしまうおそろしい魔物に手を伸ばす。
優しいふりをして蜘蛛の糸をたらし、かかった獲物をただただ眺め尽くすだけの相手に、太刀打ちなどできようもないのに。
あの人はどんな記憶を準備して、私を待っているの。
*
大崎氏は、記憶を湖にたとえる。
記憶に刻まれている限り、それは本当の別れではない。記憶の中では、絶えず一緒にいる。
それが記憶の帰結なのだろうか。私に響くのは、そのせいなのだろうか。
様々な記憶と共に、どう扱っていいかわからないまま集めて、迷った記憶の行き先を告げるように。寄り添うことが自然なんだと許されるように。
一緒にいる間、共有した者だけの記憶。
それは情景であったり、音楽であったり、二人だけの莫迦げたものであったり、二人しか知らない秘密だったり。
そうだね。確かに人と人は出逢っていつしか別れていくけれど、こころの中で、記憶の中で、大切だった人はまるでそこにいるかのようにずっと抱えていられる。
たとえ相手が生きていようと死んでいようと、もうその繋がりは途絶えることもなく、ずっと流れている。それが記憶なのだとしたら、もう離そうとしなくていいのかな。
私も過去の恋人から突然電話があっても、すぐに聞き分けられるだろうか。
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