第32話 背中の羽


 ジャン・コクトーの天使は、甘くない。

 砂糖のノスタルジアで、できてはいない。

 堕ちた人間の姿をした天使。

 羽は確かに生えている。白い簡易なカイトのように。


 彼は天使をどうたとえていただろう。

 エゴイズム、憐憫、放蕩、そして、純真。

 地上の快楽、侮辱、無邪気な背徳。すべての欲望を抱えた存在として。


 コクトーの映画を三百人劇場(実際には300人入らない)で特集していた頃、いつもあの日の背中の羽のことばかり想い出していた。

 私の場合は、羽にすらならなかった未熟な片側。



 こころを許せた、はじめての異性の友人だった。


 大学の近くの「金曜日の映画館」は、隔週で上映作品が入れ替わる。だから、映画を見に行かない金曜日も隔週で存在していた。

 この空白の金曜日は、或る日を境に電話をかける日になった。

 きっかけは、サークルのスケジュールを聞きたくて誰彼ともなく電話していたら、たまたま下宿先にいた彼と話せたからだった。

 私は金曜になると、なんとなくその声が聴きたくなった。


 その人は、のちにつき合うことになる彼の友人で、サークルで気が合った男ともだちだった。Fridayからとって、仮にFとする。

「いま、話していい?」そう聞くと

「いいよ、付き合うよ、お嬢さま」

 なんとなくだけど、ほんとは寝起きなんじゃないかなって感じてた。夜中まで勉強して、まだ寝ぼけた顔をして目をこすりながら、よっと体を起こす仕草が浮かんできたんだ。


 持て余してる時間なの、そんな失礼な言葉で一時間くらいつき合わせた。

 Fは地方から出て来て司法試験を目指していたので、バイトはしない貧乏学生だった。確か実家がしいたけ農家だったな。

 サークルには時々顔を出していたが、いつも同じ服装をしていた。緑と紺のチェックのズボンに、履き古したローファー。

 顔立ちはいいのだが、こいめの眉毛が犬を連想させる雰囲気。

 いつから仲良くなったのか覚えていない。あの夏の日にこっちを向いた時の笑顔は、今でも思い出せる。



 一度だけ、彼と二人っきりになったことがある。


 あれは、夏のテニスサークルの合宿で行った北軽井沢だった。参加者が多くて、数グループに分かれて貸別荘に泊まった日。

 ちょっぴり複雑なグループだったのを覚えている。

 私、私のすきな男、私のことをすきなちょっと苦手な男、私のすきな男が気になっている女の子、その女の子の友人で私のすきな男をやっぱり好きな女の子。そして、電話の友人F、男女三人ずつの六人。


 それぞれのすきな矢印が見えていて、ついその相手の方向を目で追ってしまうような空間なのに、なんだか楽しかった。みんなでカレー作ったね。私が切った玉ねぎはよく転がったな。

 コーラを注いで、ひとつだけ、いたずらのめんつゆ入りのコップ。じゃんけんで選んでいって、吹き出しそうだった。


 夜になって他のグループも合流して、はじめて会う人やらおかしな人やらで、あちこちふざけた軽口にいっぱい笑った。

 でも、誰よりもFとばかりお喋りしていた。電話じゃなく向き合って話しても、この人はなぜか落ち着く。


 一方で、私のすきな男は四方八方の女の子に声をかけながら、ふっと私のことも忘れずに髪の毛をくしゃくしゃってしに戻ってくるようないいかげんな人で、どうしてこんな人をすきなのかなぁって自分に呆れていた。


 わいわい、がやがや、若いからそのまま徹夜。三々五々寝に行った、喧騒のあとの急な静けさ。



 私とFは、どちらからともなく早朝の空気の中に散歩に出た。

 白い靄がかかっていて、夏なのに高原は寒くてちょっと震えた。


 道端にどうぞと用意されていたような平たくて大きな石に二人で座った。草の葉に朝露が白く光って、さわるとつめたい。


 寒かったから、背中合わせに寄りかかった。徹夜したぼーっとした頭と、幻想的な真っ白な空間。

 伝わってくるあったかい背中。もし抱きしめられたらそれでもいい。

 そんな気持ちに瞬間揺れたけど、Fはそのまま動かなかったので、背中をぐりぐりと押し付けて、わざとふざけた真似をした。

 ともだちとしての仲が壊れるのを危ぶんでいる。きっと君はそう思ってくれた。


 肩胛骨がいたたとぶつかっただけの、不思議なふれあい。そのままそこで背中合わせに、身体を預け合って少し眠った。

 背中の羽の付け根を確認しただけの、淡い時。



 その時から、Fは私の「特別な友だち」になった。

 友だちだけど、きちんと女の子扱い。なぜか苗字よびすてで呼ばれることが多かった私を、君だけは下の名前にちゃんをつけてくれた。


 いつしか、金曜だけじゃなく夜も電話の相手になってくれて、秋からみんなに内緒でつき合いはじめた八方美人の彼とのことも相談にのってくれたり、大学での彼の様子を聞かせてくれたんだ。

 彼と君と何人かでご飯を食べにいった後は、いつのまにかすっといなくなって、二人にしてくれたね。


 春になって彼と別れてしまって、サークルに行かなくなった。ほんとはFにはそんなこと関係なく電話をしたかったけれど、彼の友人だったせいで変な緊張をしてしまってかけられなくなった。


 やっと声を聴けたのは、それから半年後だった。

 変わらぬやさしい口調で話してくれたね。でも、まだ自分が傷ついたままだって気づいて二度とかけられなかった。君ももう電話をくれることはなかった。


 最後に会ったのはサークルの送別会だった。

 でも私は、久し振りに逢う別れた彼のことばかり気になって、君と話せなかった。ずっとこちらを見ている目に気づきながら、きちんと言葉を交わせないまま。


 後になって、私のことがすきだったことを人づてに聞いた。

 うん、ほんとは知っていたかもしれない。よかったね。あれからアメリカに渡って、弁護士の夢を叶えたんだね。


 もし、君があの時、背中合わせの時に、抱きしめてキスしてくれたら、元カレとのキスじゃなく、それが初めてのキスになったかもしれない。そして、つき合っていたかもしれない。

 そんなの、ただの可能性なんだけどね。

 あの時、もし、そう、だったら。なんていうのは。


 それとも、やっぱり君はともだちだったのかな。

 だって、私はあの調子のいい気障な彼のことがすきですきで、あの一年のことを今でも宝石のように想っているんだもの。

 後悔のひとつもなくて、その後どれだけ長い間離れたことが突き刺さったままでも、あの恋がいつまでも大切だった。


 心のままに生きていれば、仕方のないことだらけなんだ。


 あの時、背中の羽に気付いていたら、手を取り合って空を一緒に飛び回ったかもしれないな。

 あの背中合わせの悪戯の透明な羽は、いつまでも残っていて、今も黙ったまま旅立っていかない。


 君は今、元気でいますか。






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