忘れられない恋

第31話 金曜日には映画を


 大学一年の頃、金曜日に経済学の講義を採っていた。

 その「マクロ経済学」は、英文科の一般教養としてはあまり人気がない講座で、受講している人もほとんどいなかった。


 なぜ、そんな小難しい授業を選択してしまったかと言うと、教科書に惚れてしまったからなのである。

 その本は枯葉色で、本格的な匂いがして、文字の線が昔っぽくて、外箱から出すとオブラートのような紙に包まれていた。

 見本をみたら、その恭しさが欲しくなってしまった。


 完璧な選択ミスだった。中身、難しいんだもん。

 クラスで一人しか採ってなかったから、他の授業より熱心に出席した。自分のノートだけが頼りだったから。

 試験は全記述式で、何を書いたか覚えていないが、なんとかAをもらえた。

 みんなと同じ音楽(歌)にすれば楽だったよーと思いながらも、なんだかその教科書と一緒にいると、大学生になって頑張ってる気分になれた。専攻した英米文学の訳も、それくらい気合入れたら、もっと役立ったかもしれない。



 さて、金曜はただ経済学のためだけに学校に来ていたから、午後のバイトまでが暇になってしまった。クラスの友人も誰もいない。


 はじめは図書室で復習したり、のんびりお昼を食べたりしていたが、或る日、近くの映画館の存在に気付いて、ふらっと見に行った。

 リバイバル映画中心で、基本二本立て。しかも金曜日は女性半額だった。


 ここはすっかり私のお気に入りになった。二週に一回上映作品が変わるので、月に四本はそこで映画を見ていたことになる。今はなき、なつかしい映画館。


 バイトの合間に、昔の洋画を探して観るのがすきで、あちこちの小さな映画館にも行った。

 高田馬場のビル、五反田の線路の下、駒込の三百人劇場。学生だから、ロードショーなんて贅沢は以ての外だった。いつも二本立て、或いは三本立て。今は到底できない、若さゆえ。


 この頃の自分は、インプットの時代だったのだと今更ながら想う。

 すきな本を読み、音楽にふれ、スクリーンに心を躍らせた。



 なぜか、その頃観た中で想い出した映画が「スワンの恋」だ。

 目を閉じて想いを馳せた時に、数多見た映画の中で特に傑作でもなかったこの映画が、どうして浮かんできたのだろう。折角なので、思い出せることを書いてみよう。


 原作は、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」

 ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」と並んで、20世紀最大の作品と言われる。


 一冊手に入れたはいいが、そのあこがれの本は未だ一巻の途中を彷徨ってる。

 いつか、死ぬまでに、きっと読む時間がやってくる。来ないかな。原稿用紙一万枚(四百万文字)の膨大な活字。あまりに長く、本人すら途中で亡くなっている。そして難解。


「スワンの恋」は、その一巻が舞台となっている。

 有名な小説は映画化されると酷評される危険を伴う。例に漏れず、スワンも散々言われていたようだ。退屈だとか。

 だが、なぜか私には印象に残る作品だったのだ。まだ未熟なこどもの私にとって、大人の映画だったのだから。


 残念ながら当時の記憶だけなので、細かいことは覚えていないのだが、ともかくもスワンのジェレミー・アイアンズの品格と色気が素晴らしく、また、彼が恋するオデット役のオルネラ・ムーティ(なんて色気たっぷりな名前だこと)が期待通りの豊満妖艶さであった。

 こちらは勝手にスワンに同調して、彼女に恋焦がれていくのであった。


 彼の憧れる夜には「カトレアの夜」という名がつけらている。

 カトレアは、オデットの胸につけられている花。


 カトレアは、洋蘭。 華やかな女のドレス。

 あのピンク色が示すのは、女のフリル、誘惑。高級の象徴。


 その胸元に顔をうずめたい。カトレアにくちづけたい。

 胸のやわらかさ、はねかえす弾力。 勝手に翻弄され、感触を想像し、悶える。


 あの時代、ものすごい分量の布のドレスを着ているのに、なぜあんなに胸の部分に布が少ないのかは謎ではあるが、まあ、胸の盛り上がり、谷間は、男性のあこがれであった。

 あのふくらみに、顔をうずめたい。現世も同じである。

 耽美的、抒情的、ロマンチック。そして、醒めればより現実が深くなる。



 マドレーヌを食べると「失われた時」を読まないと、と想う。

 多くの比喩に、複雑な文体。 時間も、記憶の系列も迷い込む世界。メタファーを多用したと言われる難解な解釈。

 日本家屋より、やはりどこか異国の空の下で読むのが相応しい。いつかそんな場所に旅して、つい居ついてしまいたくなる土地で。


 作品は、完成させてこそ、しあわせなのか。

 それとも、途中こそが、最もしあわせな時と言えるのか。銀河鉄道だって、未完なのだ。


 素人作家が、完結にこだわるかどうかなんてどうでもいいことだと、全てが連載中の私は、ぼおっと考えていた。






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