第30話 フランスの幻想


 巴里とか、フランスとか、そのエッセンスに片想いしている。


 SORTIEという名の、日本とパリで同時発行された雑誌がだいすきだった。小さい冊子の中に、かわいい世界がおもちゃ箱のように詰め込まれていて。

 SORTIEはフランス語で「出口」。英語のSALTY(塩辛い)じゃないよ。


 蚤の市、かわいい切手、マティス美術館、こどもの視線、ピカシェットの家、コクトーの教会。どこもかしこも訪ねなくてはいられない気分になる。


 その雑誌を発行していた、その名は「パロル舎」。文京区本郷にあった、かつて存在した今は幻の会社。ここから出版された本たちは、とても魅惑的だった。


 宮澤賢治の画本「賢治宇宙」、萩原朔太郎の「猫町」、そして「スコープ少年の不思議な旅」。装幀で手に入れたくなる、くすぐられる本たち。



 私はフランス映画の独特の香りに、封じ込められたくなる。

 「モンパルナスの灯」のジェラール・フィリップ。

 「冒険者たち」のジョアンナ・シムカス。

 「カミーユ・クローデル」のイザベル・アジャーニ。

 フランス映画については語り尽くせないので、またいつか。


 ユトリロの絵、モンマルトルの丘、ジャン・コクトーの存在。

 ボルドーの葡萄畑で、シャトーワインを飲み干す旅にも出発してみたい。


 *


 ちょっと難解で、気位が高くて、自分たちが一番だと信じて疑わない国、フランス。


 さっきのSORTIEには時折、フランスで暮らすポイントや、フランス人とのつき合い方なんかも、ちょこちょこ書かれていた。

 「パリ症候群」って言葉があったな。パリに幻想を抱いて渡仏するも、適応できずに心を病んでしまう。特に女性が罹りやすい。きっとあこがれが強いほどに。


 だんだん外出できなくなり、家の壁からも声が聞こえてくるらしい。それって、ロンドンでの漱石みたいだ。



 はじめてパリに降り立ったのは、たった一日。


 エッフェル塔見て、シャンゼリゼ通りを歩いて、リュクサンブール公園を通って、お決まりの散歩。

 当時勤務先の駐在員の人に連れて行ってもらった「カフェフーケ」のことは、緊張していて、何を食べたか、何を喋ったか、全然覚えていない。折角のパリだったのに。


 二回目は、南仏。ニース、アンティーブ、カンヌ、そしてモナコ。

 今度は、自分でルートを決めたひとり旅。イギリスに三週間滞在した折に、途中四日間だけ訪ねたフランス。


 愕然とした初日。マティス美術館が無情にも工事中だった。なんのためにニースにしたんだ、自分。調査不足に、唇を噛む。


 そのうえ、なんとなくパリ症候群を体感した。すてきだったけど、孤独感でいっぱいになって、早くイギリスに戻りたいって感じた。ここに居たら壊れてしまいそう。


 なぜなんだろう、お店や公共の人が、常にちょっと意地悪。

 一応第二外国語は仏語だったから少しは通じるかなって期待しつつ、つたないフランス語で話しかけると、英語で返される。

 なんだよ、通じてるってことじゃないかー、と悔しくなった。だからといって英語で話しかけると、嫌そうにフランス語で返されて。

 たった四日間だったけど失語症にかかりそうだった。いっそ、日本語でまくし立てればよかったよ。



 でもね、住んでいる方たちには、すっごく助けられたんだ。困ってると手を差し伸べてくれる人たちがそこにはいた。

 地図見て迷ってたらどんどん人が集まってきて、みんな一緒に探してくれるんだもの。日本人は童顔だから、頼りないこどもに見えたんだろうな。


 バスに乗る時小銭がなくて、運転手さんに乗車拒否されてたら、横にいたおばあちゃんが、いいからって小銭を握らせてくれた。

 ペタンクに興じるおじいちゃん、おばあちゃんたちが、やってみる?って銀色の玉ころがしに誘ってくれたり。案外重くて驚いた。

 路で男の人にしつこく声掛けられてたら、さっと私の腕をとって友だちの振りしてくれた女の人もいた。

 

 その嬉しかったあったかさ、いつまでも覚えてる。ありがとう。

 お店の人の感じ悪さは、きっと観光地のせい。

 だから、きちんと心にきざんでおきたいのは、暮らしている人たちのこと。



 最後に空港に行くまで時間が余って、海岸でぼんやり佇んでいたら、なぜか香港の男の子となかよくなって、ちょっと待っててと言われて、抱えるのがやっとなくらいの大きくてふんわりした花束をもらった。さみしそうに見えたのだろうか。


 だから、フランス出国の最後の記憶は、淡い色彩の花束の記憶。あたたかい色のお守りを添えてもらった、しあわせそうな女の子。

 みんなが、この子誕生日かな、恋人からかな、って目で見るから、ちょっと恥ずかしいまま、イギリスに再入国。


 結局はバランスの問題なのかな。

 冷たくされ続けると、愛せなくなっちゃうよね。無償の愛なんて儚い。

 でも、すきになるのは止められない。やっぱりもう一度行きたいフランス。暮らしたくはないけど。



 コートダジュールには、言葉はいらない。

 私は、画家たちに逢いに、ここまで来たのだから。


 ピカソ。ニースとカンヌの間に位置するアンティーブ。グリマルディという名の石の城は、ピカソ美術館。

 ここから見える海は地中海なのに、なぜか瀬戸内海を思い起こす。コートダジュールは隠れ家。ピカソとコクトーが同時にいた奇跡。

 生きる喜び、ユリシーズとセイレーン。青い絵が多いのは、この地で描いたせいかな。


 コクトーは詩人の魂。冬であれば、レモン祭りのあるマントン。海の傍に立ち、ジャン・コクトーの要塞美術館を見つける。

 モザイクは、ここらの浜辺の恋しい小石。波が打ち付ける音。

 南仏を気取った明るい絵が陽気そのもので、極上のしあわせ感。


 シャガール。ニースの小高い丘の上にあるシャガール美術館。陶器を想わせる白い肌の女。大きなシャガールブルーの絵。

 ステンドグラスはどんな教会のものより濃厚に青く美しかった。光によって表情が変わるその場所に、できることなら日がな一日居て、いつまでも、夕暮れが過ぎても、そこに立って見ていたかった。

 ラズベリーの実を口につっこまれたような気分に浸り、貝の光沢に似たステンドグラスの艶を受け取りながら、何時までも。


 ひとりで来てよかったと想えた場所では、かえって言葉を失った方がよかったとさえ、一瞬感じられたんだ。






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