第29話 鏡の中の画策


 おるすばん。


 女の子は、両親も弟もいない一人だけの時を見計らって、自分ではない別の少女を想定してみるのでした。

 それは、悪戯ないたずらっこの、こころ踊る時間。


 三面鏡の前に立ち、朱い口紅を塗ってみる。

 母の真似をして、筆にすっと紅を取って、そっとラインを引いてみる。うぅのかたちにくちびるをトガラセテ、女の色気を演じてみる。半開きになる唇は、ちょっと大人の仕草でしょ。

 震える手先に、その線は残念に歪んでしまって、おかしいような哀しいようなピエロの顔。


 小さな瓶の香水を、引き出しから鏡の前に置いて、眺める。

 ヘリオトロープ。見たこともない異国の花の香り。

 ちょっとだけ指を濡らして、耳たぶにつける。急に女になったみたいに、紐で手首を縛り付けられたかのように。

 でも、胸はまだ蕾のように膨らみはじめたばかりの未熟。少女は、うそぶいて、ツンとした大人の顔をしてみせる。


 三面鏡の右の鏡を、ぱたんぱたんと動かしてみる。

 私が、何十人にも整列する角度を探す。 みんな、こちらを覗いてる。鏡の奥の世界は、どこまでも果てしなく続くのね。

 左の鏡は私の左顔を映して、嘲笑う。 右と左が競い合う。


 真正面の私は、私であって、私ではない。

 だって、これは私だけが知っている鏡の顔で、みんなが見ているのは、この顔じゃないのだもの。

 みっつの鏡で、写真に撮られる時の顔を探す。そう、これ。このアンバランスに見えるこの顔で、私はいつも歩いている。誰かと話している。笑っている。見つめている。



 母のクローゼットの中の小さな箪笥を眺めるのがだいすきだった。 それはまるで宝石箱のよう。

 母が大切にしている、蝶のかたちの真珠のブローチ。

 万博の記念切手や、古いコインのちいさなコレクション。

 木箱をそっと開けると、へその緒。私と繋がっていたもの。

  

 結婚衣装の記念写真の中から、両親のすまし顔がこちらを見ている。

 両親は一緒に暮らしはじめたのが先で、後から花嫁衣裳の写真を撮りにいったそう。そこには、なかなかいい男の父と、ふっくらかわいい母がいて、裏には或る年の五月の日付が書かれていた。

 その後、近くの料亭で働いていたお友だちの計らいで、ちいさな披露宴もやっていただいたのですって。

 私が知るはずのない、若い両親の思い出。

 二人がいなければ、私という存在もない不思議なつながりの感覚。


 さあ、口紅を落として、こどもの私に帰る時間だ。

 クローゼットの扉についている小さな四角鏡が私を叱る。たしなめるようにこっちを向く。そう、元の通りに全てをしまおう。何もなかったように。



 高校を卒業して、私服で通う女子大生活。

 みなが花のようで、可憐な蝶が舞う、匂い立つような毎日。


 少しは、女の子らしい恰好をしてみたいな。

 そう言ったら、バイト先の洋服屋の人がプレゼントしてくれた、レースの白い衿のパールのボタンのブラウス。 甘くて、くすぐったくてふわっとかわいらしくて、白のプリーツのミニスカートとお似合い。

 私がいつもこのブラウスを見つめていたこと、知ってたのかしら。


 でも、私は未だにお化粧をどうしていいか わからない。

 ピンク色の口紅だけでは、あきられてしまう。


 招待されたお化粧教室。ピーターラビットの小さな可愛いパレットには筆でのせる口紅みっつと、目に塗るアイシャドウみっつ。


 小さなまんまるの鏡の前で、はじめてのせる青いアイシャドウ。いきなり塗りすぎちゃって、青ざめたたぬきの形相。

 綺麗なおねえさんに、くすりと笑われてしまった。そっと化粧水を含んだコットンを目に当てられて、涼しくなる。かわいいわね、と余裕のやさしい大人の女の人の指で、拭ってくれた。



 ムーミンのガールフレンド、スノークのお嬢さん。

 あの子はお洒落なわがままな女の子。空想好きで、理想の男の子を夢見るうぬぼれ屋さん。

 飛行鬼が叶えてくれる三つの願いのうちの二つは、そんな彼女のせいで、台無しになった。


 一つめの願い。

 あの船首の飾りの女の人の像と同じ目にして。睫毛くるんくるんのぱっちりお目目に。それはまるでおばけのようで、似合わなくて。

 ムーミンが見惚れた女の人みたいになりたかっただけなんだよね。


 二つめの願い。

 ムーミンはやさしいから、彼女の目を元通りにしてあげてって。乙女ごころがわかったのでしょうか。

 二つの願いが聞き届けられ、結局何も変わらなかった。世界の大損失。 世界平和とか、世界に愛を、が叶えられずに。


 女の子はみんな鏡を見るんだよ。 おしゃれがすきなの。

 フィリフヨンカだって、赤いドレスに赤いニット帽。ムーミンママにはハンドバッグ。スノークのお嬢さんには金色のアンクレット。前髪にはお花を。

 いちばんのうぬぼれ屋さんは、ミムラかな。頭のてっぺんから足のつま先まで、自分のことがとてもすきだもの。



 フラメンコの舞台で踊る時、日本人の私のままでは上手に入れない。

 妖艶なスペイン女の気分で、胸も上げ底に装って、大胆不敵な台詞を繰り返し再生して、いつもとは違う挑戦的な指先の朱を目の前にかざす。


 長くてばっさばさしたカラスのようなつけ睫毛をつける。

 マスカラも上手に塗れないから、誰かのアイラインの助けを待っている。目を開けると、戦闘用化粧が出来上がってる。ああ、この顔の女なら、大胆に踊りきるしかないと覚悟が決まる。

 踊っている私は、その心臓の音と反比例して、不遜の振る舞い。


 口をとがらせて、口紅を塗っているときの女はきれいだと想う。

 そんな大切な仕草は、あなたの秘密をばらしているようだ。


 手鏡を持って、結った髪を確かめる。

 うなじの後れ毛が、これ以上ゆるくならないように、撫でつける。どうして後ろ髪にさわる時、女は口が半開きになるのだろう。軽く、あ、と発音して、どこか誰かの視線を意識してしまうんだろう。



 私のいつもは、大切な誰かにだけ気づかれる程の薄化粧。

 ほんの僅かな今日を気づいてほしい、微かなメッセージ。


 ひとさし指で、耳に練り香水をつけて、首をかしげる。

 小さな頃と同じ、変わらぬ仕草。近づいた恋人にだけわかるような悪戯をする。


 目の片側にわかるかどうかぎりぎりのラメの線を入れておく。

 青ざめたシャドウも、ほんの少しだけ、まぶたの端に。

 素顔の私より少しだけ、女らしく色香のあるような錯覚を起こす程に。

 目を閉じて近付いた時にだけわかるような、碧の色。


 ちっちゃな花のピン止めを、クロスで耳の上につけておく。

 ここには、髪をかき上げてほしい願いがこめられている。


 淡い桜色のマニキュアを塗って、ふぅふぅ待ってる時間。

 自分の爪のかたちが桜貝のそれのようで、ロマンチックで、誰かの肩に手を回す時、ふと夢を見られる。


 ブラウスの下には、ちいさなペンダント。

 胸元を開けなければ、発見できない欠片のような小石。ボタンを外せば、レースの下に、きらりと光っている。


 誰かのためだけに、忍ばせておく誘惑。


 どきどきして待っている、その行く先のない思惑。


 鏡の前で、あてどもない心を、いつまでも持て余して。






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