第28話 煙をくゆらす横顔


 煙草。今は酒専門なので全く吸わないが、若い頃、粋がって吸ってたわずかな時期がある。 お酒を呑むと、急に一本だけ吸いたくなる癖。微かな欲望。おいしいわけじゃなく、酔いを助長するためだけに吸っていた。


 そんな僅かな病理なので、自分では煙草は買ったことがない。家にいる時は父のセブンスターがあるから問題ない。

 不良高校生のように一本くすねて、自分の部屋で音量を上げたヘッドホンをつけて、ゆっくり吸った。

 灰皿の存在がきらいだったので、舐め終わっちゃった苺ドロップの小さな丸い缶を、灰皿代わりにしていた。


 飲む席では、もらい煙草専門。といっても一本だけだから、迷惑はあまりかけてない、と願う。

 煙草会社に勤める友人に、よくメンソールの煙草をもらっていた。彼女のは会社からもらった無料の試供品だったから、全く気兼ねなく。


 一度だけ知らない人に一本めぐんでもらったことがある。

 一人でカウンターで飲んでいる時にどうしても吸いたくなって、隣の男に「一本もらえませんか?」

 そう頼んだ。ナンパと勘違いされたら厄介だなと警戒していたが、優し気な目をしたいい人で、軽く話をしただけでどうぞと差し出してくれた。あの一本が生涯のベスト煙草だった気がする。 銘柄はなんだったかな。



 煙草の似合うカッコイイ友人がいた。同性ながら、横顔に見とれてしまう美形。

 写真学校の人物写真の撮影会で出逢って、きれいだから最初はモデルかと思っていた。


 女らしい顔立ちなのに、髪はショートで、仕草が超男前。

 いつも細い煙草をすっと手に取って、煙を少し嫌そうな顔で吐き出す。流し目が色っぽくて、声は甘く透き通ってて、笑うと可愛くて。


 彼女は片耳の聴力が弱かったので、いつも私を自分の左側に座らせた。

 煙をくゆらせながら目を閉じる時の、色気に見惚れた。



 沢木耕太郎の「一瞬の夏」の話を、二人で沢山したね。


 プロボクサーのカシアス内藤と、トレーナーのエディ・タウンゼント。カシアスとは、モハメド・アリの昔の名、カシアス・クレイから取ったリングネーム。

 才能があり、期待されながら、いつしか下降していく天才ボクサー。再起をめざすが、かませ犬だなどど言われて。

 ボクシングは自分を痛めつける戦い。なぜ、選ぶのだろう。


 彼女は女だてらにボクシングジムに通っていた。1ラウンドは3分。自分の身体に徹底的にこの3分を浸み込ませるのが大事なんだと語った。3分ランニングして、3分縄跳びやって、3分パンチング。

 カップラーメンのタイマーいらないねって、一緒に笑った。



 なぜ、彼女のような人が、平凡な私を気に入っていたかわからない。土曜日の学校帰りは、いつも二人で過ごした。なぜか凄く気が合った。


 長野に旅して、雪の温泉に行って、白濁した露店風呂で雪見酒。

 裸で雪に倒れこむという暴挙もやったね。

 馬刺しも食べたし、旅館の仲居さんにチップをどう渡すか、考えたね。


 山の中のプラネタリウムに行って、星占いをした。

 私は蟹座で、あなたはやぎ座だった。やぎ座は三角形、天国の入口。 蟹座は四角形、天国の出口。ねぇ、それは何を意味するのだと想う?


 もうすぐ春がやって来るわさび田に向かって、何度もシャッターを切る。残った写真には、薄緑がモノクロームのように写って、思わず目を細めた。


 あの時期、私には恋人はいなかった。あなたが男だったら、絶対恋人に志願しただろう。でも、黒い下着のあなたは、完璧な女の身体だった。


 その頃もまだ、私は時々煙草を吸っていたが、彼女からは一本も、もらわなかった。

 きっと、すっと何も言わず差し出してくれただろうけど、なんだかあなたには強請ねだりたくなかった。


 集団が苦手なあなたとは、いつも二人きりだった。私もそれで良かった。

 あなたが写真学校を辞めてしまった後、私は人恋しさにたくさんの人に囲まれる方にふらつく人間になってしまった。

 今もそうだね。こんなに誰かのことが必要で、すがりつきたくなる莫迦な人間になってしまったんだ。残されると、さみしくて仕方なくなってしまうんだよ。


 モンゴルにちょっと行ってくると言ったまま、音信不通だ。元気だろうか。



 私にとって、煙草を吸う人はみな、いつも想い出す時に他の人より郷愁が増してしまう。なんだか、狡い気がするよ。


 煙をくゆらす横顔を想い出す時、私だけはスクリーンのこちら側だ。

 遠く去っていく1シーンの、その薄い膜を手で掴んで、捻りつぶしたい。

 そして、もう苦しいなら、どこかに消してしまいたい。


 いや、ちがう。忘れたくないんだ、何ひとつ。

 煙草をはさんだ指先を見つめながら、私は酔いが回る。

 その腕の血管の青い筋につかまりたくなる。


 火をつける時の手のカーブに合わせて、視線を落とした睫毛の翳を追う。

 煙草をくわえたくちびるに、半開きなその唇に目をやって、ため息を漏らす。

 指先で撫でたくなって、そっと近付く。



 航空灯代わりにつけた煙草の煙が、空中に溶けていく。



 空になったキャビンの紙箱をねだって、丁寧に切り取って、詩集の文庫の栞にしていた。

 もうとっくに昔のはずの記憶と、まだ美しいままの煙草の栞。



 いやだ。胸が締め付けられる。






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