第24話 水無月と真夏の紫陽花


 今年の六月は、何やら様子がおかしい。


 六月というのは、暦であって、私であって、両方変なのだ。

 私、六月むつきの方は想わぬ不測の事態で、自分の心もちがふわふわしている現象であり、暦の六月の方は、梅雨という冠を外してしまって雨の気配がない。


 どうした。このままでは本当の「水無月」になってしまうよ。

 この水無月みなづき、不思議に思われている六月の名。寧ろ、水有月じゃないの?と疑問になるもの。


 なぜ、水無月なのかは諸説あるので、その解釈を並べてみる。

 * 旧暦だと、梅雨が明けて水が無くなる時期。

 * ただの無=の。つまり、水の月の意味。

 * 田植えという大仕事を仕終えた皆仕尽みなしつき

 * 梅雨によって天上の水がなくなるという解釈。etc. etc.


 ローマ神話からなるジューンブライド。案外ロマンチックな六月。

 歳時記を眺めるのがすき。季語を知って言葉を紡ぐ。あめんぼうも六月の季語だったりする。くすくす。



 つらつら考えながら、週末に鎌倉に行って来た。

 池袋から湘南新宿ラインに乗り込む。土曜なのにラッシュのよう。この人たちが 全員鎌倉行きなのではと思ったら、急に憂鬱。北鎌倉駅でたくさん降りていく。ほぼ紫陽花の名所、明月院に行く人たち。


 私は鎌倉駅で待ち合わせ。今日は写真学校時代の仲間と撮影。山のような人たちの間を縫って、早速バスで移動。

 ルート決定は友人にすっかりゆだね、私は報国寺がいいよと一言だけ。その手前の浄妙寺から伺うことにした。知らなかったが、ここも紫陽花がすてきな処。


 陽射しはまるで真夏。でも、日影は涼しい風が吹いている。影に入るたびに、しあわせな存在が身体を吹き抜けていく。


 ここの紫陽花は種類がいっぱいで、青や紫、ピンク、白。日向の色、日影の色、沈む色。

 雨の露こそ似合う紫陽花が、直射日光に晒されてまぶしそう。そんな紫陽花は、少し笑いながら風に揺れてピントが合わないよ。


 浄明寺の茶室で抹茶と干菓子をいただく。餡が合わさったやさしい味。小さな日本式の庭はやさしくて穏やか。りすが木からジャンプする。


 水琴窟の音に耳をつけて交代で聴く。まるで、聴力の検査のように響く。

 うぐいすの鳴き声が見事過ぎて、スピーカーから流しているかのよう。あの子は滅多に姿を見せない。見せにくるのは親類のめじろだけ。


 アナベルという名の、白い紫陽花のなかまに出逢った。泡泡の中のように、夢の中のように、ふんわりと真っ白。カリフラワーが襲ってきそうな、もこもこ。

 夢の中の少女の日傘のようだ。その子たちは、小さな花びらの数がみっつだったり、よっつだったり。和の紫陽花はあまり香りがないのに、このアナベルはいい香りがする。



 竹林で有名な報国寺。いきなり苔がお出迎え。苔のみどりが抹茶のようにおいしそう。

 竹に差し込む上からの太陽のスポットが不思議で宇宙っぽくて、灯りがぽっと射すと、そこから新しい竹がにょきにょき成長して、かぐや姫が入っていたらって妄想してみるのが楽しい。


 おなか空いてきたのと、蕎麦たべたーいという私のわがままで検索かけてもらったら、報国寺の近くにお店発見。

 表通りじゃない、小さな川に沿った小路を往く。小学校のグランドからサッカーコーチの怒声が聴こえる。厳しくするといいことあるのかな、厳しくしないといけないのかな。住所からやっと辿り着いた「そばや」は、本日貸し切りだった。


 次の和食屋を調べてそちらに向かう。すごい並んでる。さすが観光地。おいしそうなお品書きを渡されて、みんなでああだこうだと悩むうちに席に通された。やったぁ。

 お店の名は「左可井」、表札は「酒井」。

 民家を改装して作ったお店なのかな。お家にお邪魔した感覚。とりあえず、というか、必須にビール。乾いた喉にうまい。


 私は、穴子丼とそうめんと小鉢のセット。

 穴子はふわりとやわらかく美味で、そうめんは柚子がきいて爽やか。甘くない私好みの卵焼き。ああ、またひとつ、しあわせをもらってしまった。


 こういう毎日だったらいいのにね。と、普段は仕事で忙しい友人たちと言い合いながらも、これが時々だからいいんだとちゃんとわかっている。

 写真仲間たちとは、いつもたくさんの場所には行かず、気に行った数箇所でゆっくり時間を楽しむ。カメラを持って好きな処にばらばらに散りながら、なんとなく集合する。

 脇道や路地裏のような、何でもないような場所がすきなのも一緒で、ペースが合って、それが嬉しい。



 写真家の十文字美信さんのギャラリー兼カフェに足を運ぶ。

 途中、八幡宮の前で人混みに遭遇し、みんなとはぐれそうで慌てる。私のスマホの電池は今にも切れそうなので、見失うと一人になってしまう。


 Cafe Beeは、若宮大路と小町通りにちょうど挟まれて、あの喧噪から突然解放された狭い路地に入った場所にある。ひとりでは迷ってしまって行き着けない。


 十文字さんご本人がギャラリーにいらした。カッコイイな。

 私は、枯れている花の写真がとてもすきだ。

 美しい花も茎も、いつしか枯れていく。でも、その写真の中の耽美は、いつも輝いている者だけじゃない、朽ちていく者への愛で満ち溢れている。

 私も文章でそんなことを書ければと想う。


 カフェで休む。十文字さんが焙煎されている珈琲豆。

 私は珈琲をすきなんて言うのが恥ずかしい程、普段は十倍くらいミルクで希釈したお子さまコーヒーしか飲めないけど、折角なのでストレートのマンデリンを選ぶ。

 おお、やはりお酒より本物の珈琲の方が、私はすぐに酔えそうだ。


 休みながら、みんなが撮った写真をカメラを交換して見せてもらう。同じ場所を歩いているのに、それぞれの切り取り方や、何を見ていたか視線がちがうのが本当におもしろい。

 人生は、きっと、それでいいんだ。



 海が見たい、と一人が言い出した。そうだね、もう今日はそれがいい。


 通勤ラッシュ並みの江ノ電にぎゅうぎゅうと乗り込み、降ります!と強引に稲村ケ崎で下車する。 駅からすぐに海が見える。


 私は海のない場所に住んでいるから、潮の香りがしてくるだけで、しあわせなここちがしてしまう。 特にこの辺りの海岸線がだいすきだ。


 横浜で作られた少し甘いビールを飲みながら、刺身としらすのかき揚げと、鮪のほほ肉を肴に、乾杯。

 昼過ぎからはずっとこんな調子で、何か食べて飲んでいるな。写真仲間=呑み友なので、 撮影会は常に飲み会に移行する。


 気のおけない他愛ないことを話しているのがすきだ。彼らとなら、どんな話もなつかしくて、いとしくて仕方なくなる。みんなの毎日も、行きたい場所の話も。

 今日は 特に、ベースを弾いてる奴がいて、音楽の話を山のようにした。めちゃくちゃジャズを聴きに行きたくなった。

 私は暮れていく海を眺めながら、こうしていられるだけでいい。海に映る灯りが揺れていたら、私も揺れて居られる。


 またね。じゃあね。

 駅で別れて、乗った電車の行先をまちがえて遠回りになって、早く家に帰りたくて、耳元のだいすきな音楽だけが慰めだった。



 今日は一日、ずっと一人の人のことを考えながら、旅をしていた。

 その人が私だけに言ってくれた言葉を、一日中抱えていた。


 心ここにあらずで見ていても、何倍にも色鮮やかに語りかけてくる風景。ファインダーに映る日常の切り取りが、いとおしく想えてくる瞬間。


 こんなきもちをくれた人に、この六月が特別になったことを言いたくて、水色の伝書風船に伝言を結んで、そっと手から空に放した。


 いつか、ゆっくり、もっと先に届くように。

 その時、まだ 一緒に、ずっと側にいてほしいと、願いをこめて。




*写真 https://twitter.com/i/moments/783707638131331072






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