第23話 浴衣の蝶々


 毎年、地元の夏祭りに浴衣ゆかたを着て出掛ける。私は盆踊りをこどもの頃から愛しているのだ。

 盆踊りはいい。何がいいって、気負う必要がない。踊りがわからなくても、上手な人の後ろで真似しているうちに、振りなどすぐに覚えてしまうものだ。


 浴衣も母に習って、最近ではなんとか一人で着られるようになった。数式は覚えられても、着物の着付けはいつになってもなかなか頭に入ってこない。壊滅的に着物センスがない。 好きだけど、極めたいこころが足りないからかな。


 この年なら、帯も「貝の口」というごくシンプルな結び方の方が粋なのだが、私はいつまでも蝶々結びがすきで、背中にちょこんと乗ったかわいい形が愛しくて結びつけている。



 盆踊りはどんどん踊り手が少なくなり、忘れられていく存在になりつつある。踊っているのは、地域の春蘭会という名のお年を召した方たちが中心で、あとは小さな女の子たちが浴衣を着せてもらってちょこちょこ付いてくるくらい。ぽっかり空いた世代がなかなか踊らないので、とてもさみしい。


 よさこいや阿波踊りは各地でも盛んなのに、誰もが踊れてたくさんの種類がある民謡が、もっともっと見直されればいいのにな。炭坑節や東京音頭のような伝統的な曲もいいけど、お米ありがとう、とか振付がすごくかわいいんだよ。


 盆踊りを踊るなら、絶対浴衣がステキだ。でも気楽に輪に入るなら普段着でも全然構わないし、寧ろ昔ながらのストンとした湯上りワンピースみたいな服で踊っている姿は、なんだかとてもなつかしい感じがして、それはそれでいい。


 ただ、お揃いの浴衣というものが苦手だ。前に一度、舞台で一緒に踊ってほしいと頼まれて引き受けたことを後悔した。踊ることは嫌じゃない。でもみんな同じ浴衣姿だなんて、情緒がない。


 毎年お気に入りの浴衣の中から今年はこれって選ぶのが楽しいんだもの。どの帯と合わせるか考えるのが嬉しい。キュッと締めた濃いめの色の帯と、ゆらゆら揺れる袖が、洋服と圧倒的にちがう雰囲気を醸し出すもの。


 やはり、舞には、布の表情は必要不可欠なのだ。風にそよぎ、我が身を演出してくれるもの。



 着物で思い出すのは、谷崎潤一郎の長編、「細雪」

 原作は、私の印象では人間の業が強くて、妙に生々しい小説。

 谷崎自身が、女性との相当なあれこれがあった男で、それらが全ての作品の中の思い入れになっているので、その女性たちが生きているように動き出し、興味が尽きない。


 「痴人の愛」のナオミのモデルは、元妻の妹。そして、元妻を親友に譲渡したり、細雪の二女は、想い人松子であったり。

 軍部の圧力に逆らいながらも「細雪」を書き上げた作家。常に、愛欲、近親相姦的概念が付きまとう。


 「細雪」は、三女雪子の見合いの話であると共に、四女妙子の自由奔放さが対照的に描かれていて、市川昆監督の映画でも、雅な映像の中に美人姉妹が美しい着物と共に彩られている。岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子の美しすぎる四姉妹。

 冒頭のシーンは、雨の降る日の桜の花見からはじまる。二女の旦那が食事の席で、三女が口を小さくすぼめて食べる口元に見惚れている。あの色気は一体なんだろう。


 着物を着た時の仕草、襟のぬき方、そして、西の言葉のしどけなさ。


 最初に見た時は、四女のこいさんにばかり目がいったけど、今見てみると、長女と次女の艶めかしい色気と共に、やはり三女の吉永小百合さんの可愛らしい清廉な色気の虜になってしまう。


 なんか男になった気分だ。関係ないけど、こどもの頃「おことの教室」という看板を、男の教室だと思って、ろくでもない想像をしたことを思い出した。お琴って書いてよ、読めなくても。


 美しい人の着物は、とてつもなく魔性を感じる。業を感じる。潜めておとなくしく見せかけておいて、艶めかしく、誘いをかけるかのような色気。それがゆっくり変化していくもの。



 今年の夏祭りは、私が尊敬していた、太鼓の師匠を弔う日になる。

 小中学生に毎年太鼓を教えてくれた、少し厳しくきりっとしたその人。寡黙で、太鼓を打つ姿は、実に粋で力強かった。


 「今年は太鼓の練習はありません。教える人がいないので」と回覧板が回ってきた。 体調でも崩されたのかと心配していた。少し経って、亡くなったことを知った。まだ死ぬには早すぎるのに。ああ、人はいつ死ぬかわからないのだ。予想寿命はあっても、若かろうとも。


 だから、今年の祭りに太鼓の音はない。どんなにさみしいだろう。私の浴衣姿を褒めてくれる照れくさそうな笑顔も、もう見られない。

 もしかしたら、盆踊り自体が一緒になくなってしまう可能性もある。それでも、もし続くのなら、微力でも私は今年も踊ろう。本来お盆の宴なのだから。帰ってくる魂のために踊りたい。空から見えるように。



 着物というものは不思議である。

 こんな私でもいつもの三割増くらいに視線を感じる。着物を着る人=日本の美のイメージのせいなのだろうか。浮き立つような祭りの夜に、まぶしい情景なのかもしれない。


 折角浴衣を着ていても、踊っている時以外はビールジョッキを持っている私に、色気は皆無なのではあるけれど。でも、もし見つめてもらうのなら、踊っている私ならば、少しは目を止めてもらってもいいかもしれないな。なんて。


 指先まで心をこめる時、斜めの線を意識する時。月という歌詞に合わせて、自分の手先で空に満月を描く時。

 両手を合わせて耳の横に持って行く時に、そっと顔を傾け、自分が女であることを思い出すのです。






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