第19話 視野の蛍


 私の右目の視野は、少し欠けている。

 数年前に原因不明の右目痛を起こした際の後遺症で、見えない部分ができてしまった。

 ただ、見えないといっても中央部分なので、左目が常に補完していて本人には全く自覚がない。生活にも何も支障はないので、呑気なもんだ。


 年一回の検査で進行していないか確認する。幸い、ずっと欠けた部分が広がったことはない。そのぽっかりと見えない小さな穴は、目というよりもまるで私のブラックホールのようなものに思えてくる。自分の中に欠けているもの。欠陥。



 さて、その視野の検査なのだが、私はそれがとても苦手なのである。

 真っ暗い部屋で、片目ずつガーゼに包んだ大きな眼帯を貼られ、頭をベルトで固定されて、目の前のうすい小さな光を追う検査。


 光が見えたら、手元のボタンをカチッと押して知らせる。できるだけ目をきょろきょろさせずに正面を見て、目の端に現れる光を感じたら押してとの指示。だんだん疲れて来て、それが果たして光なのか幻影なのかわからなくなってくる。疲れで精度が落ちてくるような気がするのだ。

 もう最後はよくわからない。ああ、こんな結果で重症とか言われたら嫌だなあ。毎回そう思いつつ、なんとかやり過ごしてきた。



 ところが今回、とうとう息が苦しくてたまらなくなった。もう全てをかなぐり捨てて、この部屋から逃げてしまいたくなった。


 実際にはそんなことをしたらぐるぐる回っている機械に挟まれてしまうので、そんな気持ちになったということだが

「ごめんなさい、ちょっと息ができません」

と、検査員の方に手で制して中止するよう頼んだ。


 いつも検査を担当してくれる女性は、なんとか女史みたいなスネオのママ風のつり上がった眼鏡をかけて、とてもハキハキ物を言う、きつそうな人だった。

 私が窮状を訴えた時、その人は意外にも優しい声で言ってくれた。

「大丈夫ですか、ゆっくり休みましょう」


 検査だから次の人も待っている。申し訳ないと思いつつ

「私、狭いって思い始めてしまうと、急にだめなんです」

と、言い訳のようなことを言う私に

「わかります。 うちの夫がそうなので」

と、彼女は旦那さんの話をしてくれた。


 うちの夫は、タクシーに乗るとだめなんですよ。

 タクシーの中で急に饒舌になって、運転手さんにやたら話しかけるので、ずっと調子よくてうるさいなあと思っていたんですけど、苦手だから話してないと辛くてだめだったんですって。

 狭い、と感じると逃げたくなって、降りたくなってしまうと。もっと早く言ってくれればいいのに、ずっとカッコ悪いからって我慢していたらしいんです。最近になって、やっと打ち明けてきたんです。


 だから、私もそういう気持ちはわかるんですよ。

 そう言って、やさしい目で私に向かってほほえんでくれた。



 少し休んでから検査を再開した。何度も途中で大丈夫か聞いてくれて、頭の固定ベルトもきっと辛いでしょうから、動かないでいてくれれば外しましょうって、気遣ってくれた。


 私の心は、急速に元気になり、開放感すら感じられた。


 そのあとの、目の前に照らし出されるあの小さな粒は、まるで淡い蛍のような光に見えた。


  すっーっと、どこかから現れて

   すっーっと、流れ星のように消えていく。


 今までも同じ光を見てきたはずなのに、一度もそんな風に思えなかったのに、ほんとうに不思議なきもちだった。眼科の蛍。


 急に名前を知りたくなった。その検査担当女史は齊藤さん。きっとこれからはこの方がいてくれたら、もう私は大丈夫だ。


 人は弱くなって、わかることもあるんだよね。

 年を重ねたから、強くなるわけではないんだ。

 あとは、見た目で判断しちゃいけないなぁ、と反省。



 私は怖がりで、年々その項目が増えている。

 昔は、頂上までリフトで上ってスキーで降りて来れたのに、今は高いところもスピードも両方だめだ。


 狭いところも暗い場所も苦手だけど、パニックを起こす程深刻じゃなくて、なんとなく回避してきている。長距離バスには乗りたくない。でも、この前住友ビルの展望台は大丈夫だった。ほっとする。


 それから、人が自分の両側にいるのが苦手だ。片側症候群、いや反対か、両側症候群かな。

 よく会う仕事仲間や友人たちは、もうわかっていて研修で座る時にも、ごはんの時も端の席を空けてくれる。時々どうしようもなく人に挟まれた時は呪文を唱える。この人たちなら、きっと大丈夫だ。


 電車の中では空いていれば端に座るけど、よほど狭くない限り、両側に人がいてもなんとかなる。要は、気持ちの持ちようの問題なんだろうな。



 視野の蛍は、救世主だった。

 視野乃蛍、しやのほたる、ちょっと名前っぽい。


 怖いものを美しく変換して、みんな蛍みたいに想えるといいな。


 こうして、いつも蛍は私を助けてくれる。掬ってくれる。

 やさしく、淡く、せつなく、儚く、こんなところにまで現れて。


 蛍よ。大切で、わたしの味方の、そっと掌にのせた、いとしい君のように。






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