第15話 雨音の記憶

 

 雨の季節、六月がはじまる。僕の季節だ。

 ここから、こころをはじめられたら、とてもいい。

 六月一日の日記のように。或いは、雨を待つこどものように。



 梅雨生まれの僕は、だから雨がすきなわけでもなく、かといってきらいにもなりきれない中途半端。疎まれる自分の誕生月を、僕くらいは擁護してあげないと可哀想な気がして、でも、どこかかばいきれなくて。

 ね、君はささやかな恵みとして、ただ通り過ぎることが許されたらいいのにね、雨の月よ。


 濡れるのはいやだけど、傘をさすのも面倒で、どっちつかずの雨が僕には似合っている。しっとりと霧のように霞がかかって、ぼんやりと雨曇り。水墨画の悲しい涙のように落ちていく。


 叩きつけるような雨ならば、何か文句を言いたくてここに到来しているのだろう。 仕方なく受け止めよう。だいぶ溜めてしまったようだね。だから少しずつ話しなよって言ったのに。


 部屋で聴くノイズのような雨音が、 僕の記憶を呼び覚ます。



 雨の記憶を手繰り寄せると、そこにはピアノを習っていた自分がいて。なぜかレッスンの木曜には、いつも雨が降っていた気がする。


 斜めの雨、その中を突き進むように自転車のペタルを漕いだ。あの頃もやはり傘はささなかった。ピアノの先生はびしょ濡れの僕を見て、あらあら、また。というほほえみで迎えて、そっとタオルを掛けてくれた。


 手の届かないメロディを雨の中で口ずさむ。夏の頃なら、ショパンの前奏曲「雨だれ」を。まだ薄明りにぼんやりと滲む夕方の雨粒がはねて、哀し気な水玉と遊べる。

 冬ならば、ドラマチックなドビュッシーの「雨の庭」を。暗闇がふいに襲ってきそうな黒い世界の入口に、雨が線となって待ち構えたようになだれ込む。逃げるように自分を追い込む。


 習い始めのバッハのリトル・プレリュード。左でも旋律を弾く、小さなこどもの手で。


 ボイジャー2号にプレリュードが載っていたこと、今日はじめて知ったんだ。バッハは数学的で、宇宙と交信できるかもしれないって思いついたんだって。音楽と数学の美しい結び付き。漂う曲線。宇宙では音はただ吸い込まれていって、存在しなくなってしまうような気がした。小さな雨音のような音楽に気付いてもらえるのだろうか。



 あれから何年も経って、雨の日の記憶は、更に未来に甦る。


 恋ばかりしていた頃。雨はいつも味方だった。僕のきもちに寄り添うように、大きくなったり、慰めてくれた。

 

 空を眺める窓硝子の横で、雨に紛れて大声で泣いた日。完全に世界を失った日。絶望しかなかった。泣きわめかずにはいられなかった僕を、大雨が包み込んでくれた。誰にも気づかれずに、泣くのに相応しい雨。


 車の中、雨を子守歌にして眠りについたあの日。もう疲れ果てていた。ここで少し寝て行かないとふらふらで運転なんてできやしない。このままだときっと崖から落ちてしまう。吸い込まれるようにやさしい雨音が、僕を周りから隠してくれた。守ってくれた。


 あの日も。あの時も。今まで、よく生きて来られた。



 雨には音楽が似合う。雨の歌詞が一等すきだ。雨から思い描く言葉たちは、素敵なことだらけに見えて、どこか僕をほっとさせる。


 僕にとって、とても大切にしている歌があるんだ。飛鳥涼さんの「はじまりはいつも雨」がそれ。雨を水のトンネルに喩えた人。そのひとことで、しあわせな光景が表現された。雨はきらわれ者なんかじゃなく、やさしさの証。こんな風に恋人に想ってもらえたら、いいね。


 この言葉に出逢ってから、僕はやさしい簡単言語であっても、情景が浮かぶように表現できることを知った。僕もそうしたいと、一つの世界を切り抜こうと思って、今ここに立っている。


 人にあれだけ響く曲たちを創るために、そんなにも彼は苦しかったのだろうか。擦り減っていたのだろうか。彼の歌詞が、彼こそを救いますように。ただ祈るだけだ。


 僕の短文書き、体言止めのルーツは、ここにある。

 一曲の歌の歌詞を書くように、五分の世界に物語ができ上がるように。目を瞑って確かめるように胸に取り込む。雨音と同じように。心に沁み込むように。


 こうして、僕にはたくさんの雨のストックが貯まっていく。



 あのね、今日から読む本があるんだ。ずっと気になっていた平野啓一郎さんの 「マチネの終わりに」だ。


 六月一日から少しずつ読むことにずっと決めていた。

 僕は、大切な音楽を手に入れた時も、一日一曲しか聴き進めないように細心の注意を払ってから、イヤフォンを装着する。


 一遍に、すべてが遠ざかってしまうのは耐えられないんだ。いつも何かを抱えていないと、すぐに不安になるんだ。


 だから、今日から一枚ずつ頁をめくる。

 今日は「序」だ。秘密と虚構について。この一文を今日一日、抱きしめることとする。 夜が来てもまた想い出す。秘密、甘美な響き、序だけで倒れそうだ。 まだはじまったばかりだ。早過ぎる。



 雨が降る前の、知らせが届く匂いがすきだ。まもなく降る合図をよこす律儀な君。土が湿っていく時の、かすかな匂い。独特なやさしい香り。もうすぐやってくる雨粒。


 月曜日には、雨の中、カメラを持って散歩しよう。

 僕は、いつだってノルタルジアを連れて、世界を見てる。


 雨は、いつだって、僕の近くにいてくれた。






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