第15話 雨音の記憶
雨の季節、六月がはじまる。僕の季節だ。
ここから、こころをはじめられたら、とてもいい。
六月一日の日記のように。或いは、雨を待つこどものように。
*
梅雨生まれの僕は、だから雨がすきなわけでもなく、かといってきらいにもなりきれない中途半端。疎まれる自分の誕生月を、僕くらいは擁護してあげないと可哀想な気がして、でも、どこか
ね、君はささやかな恵みとして、ただ通り過ぎることが許されたらいいのにね、雨の月よ。
濡れるのはいやだけど、傘をさすのも面倒で、どっちつかずの雨が僕には似合っている。しっとりと霧のように霞がかかって、ぼんやりと雨曇り。水墨画の悲しい涙のように落ちていく。
叩きつけるような雨ならば、何か文句を言いたくてここに到来しているのだろう。 仕方なく受け止めよう。だいぶ溜めてしまったようだね。だから少しずつ話しなよって言ったのに。
部屋で聴くノイズのような雨音が、 僕の記憶を呼び覚ます。
*
雨の記憶を手繰り寄せると、そこにはピアノを習っていた自分がいて。なぜかレッスンの木曜には、いつも雨が降っていた気がする。
斜めの雨、その中を突き進むように自転車のペタルを漕いだ。あの頃もやはり傘はささなかった。ピアノの先生はびしょ濡れの僕を見て、あらあら、また。というほほえみで迎えて、そっとタオルを掛けてくれた。
手の届かないメロディを雨の中で口ずさむ。夏の頃なら、ショパンの前奏曲「雨だれ」を。まだ薄明りにぼんやりと滲む夕方の雨粒がはねて、哀し気な水玉と遊べる。
冬ならば、ドラマチックなドビュッシーの「雨の庭」を。暗闇がふいに襲ってきそうな黒い世界の入口に、雨が線となって待ち構えたようになだれ込む。逃げるように自分を追い込む。
習い始めのバッハのリトル・プレリュード。左でも旋律を弾く、小さなこどもの手で。
ボイジャー2号にプレリュードが載っていたこと、今日はじめて知ったんだ。バッハは数学的で、宇宙と交信できるかもしれないって思いついたんだって。音楽と数学の美しい結び付き。漂う曲線。宇宙では音はただ吸い込まれていって、存在しなくなってしまうような気がした。小さな雨音のような音楽に気付いてもらえるのだろうか。
*
あれから何年も経って、雨の日の記憶は、更に未来に甦る。
恋ばかりしていた頃。雨はいつも味方だった。僕のきもちに寄り添うように、大きくなったり、慰めてくれた。
空を眺める窓硝子の横で、雨に紛れて大声で泣いた日。完全に世界を失った日。絶望しかなかった。泣きわめかずにはいられなかった僕を、大雨が包み込んでくれた。誰にも気づかれずに、泣くのに相応しい雨。
車の中、雨を子守歌にして眠りについたあの日。もう疲れ果てていた。ここで少し寝て行かないとふらふらで運転なんてできやしない。このままだときっと崖から落ちてしまう。吸い込まれるようにやさしい雨音が、僕を周りから隠してくれた。守ってくれた。
あの日も。あの時も。今まで、よく生きて来られた。
*
雨には音楽が似合う。雨の歌詞が一等すきだ。雨から思い描く言葉たちは、素敵なことだらけに見えて、どこか僕をほっとさせる。
僕にとって、とても大切にしている歌があるんだ。飛鳥涼さんの「はじまりはいつも雨」がそれ。雨を水のトンネルに喩えた人。そのひとことで、しあわせな光景が表現された。雨はきらわれ者なんかじゃなく、やさしさの証。こんな風に恋人に想ってもらえたら、いいね。
この言葉に出逢ってから、僕はやさしい簡単言語であっても、情景が浮かぶように表現できることを知った。僕もそうしたいと、一つの世界を切り抜こうと思って、今ここに立っている。
人にあれだけ響く曲たちを創るために、そんなにも彼は苦しかったのだろうか。擦り減っていたのだろうか。彼の歌詞が、彼こそを救いますように。ただ祈るだけだ。
僕の短文書き、体言止めのルーツは、ここにある。
一曲の歌の歌詞を書くように、五分の世界に物語ができ上がるように。目を瞑って確かめるように胸に取り込む。雨音と同じように。心に沁み込むように。
こうして、僕にはたくさんの雨のストックが貯まっていく。
*
あのね、今日から読む本があるんだ。ずっと気になっていた平野啓一郎さんの 「マチネの終わりに」だ。
六月一日から少しずつ読むことにずっと決めていた。
僕は、大切な音楽を手に入れた時も、一日一曲しか聴き進めないように細心の注意を払ってから、イヤフォンを装着する。
一遍に、すべてが遠ざかってしまうのは耐えられないんだ。いつも何かを抱えていないと、すぐに不安になるんだ。
だから、今日から一枚ずつ頁をめくる。
今日は「序」だ。秘密と虚構について。この一文を今日一日、抱きしめることとする。 夜が来てもまた想い出す。秘密、甘美な響き、序だけで倒れそうだ。 まだはじまったばかりだ。早過ぎる。
*
雨が降る前の、知らせが届く匂いがすきだ。まもなく降る合図をよこす律儀な君。土が湿っていく時の、かすかな匂い。独特なやさしい香り。もうすぐやってくる雨粒。
月曜日には、雨の中、カメラを持って散歩しよう。
僕は、いつだってノルタルジアを連れて、世界を見てる。
雨は、いつだって、僕の近くにいてくれた。
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