第16話 左手同盟よ
仕事柄、幼児さんにおべんきょうを教えることがある。
大人は小さな子がすぐに上手にできないことを忘れてしまっている。幼児の視点という研修の中で、子供が自分の思うようにできないもどかしさに寄り添うには、塗り絵などをクレヨンを使って左手で塗ってみるとよいと言われ、なるほどと試してみた。
あら、すっごくきれいに塗れちゃってる。だめだわ。
そうだった、私はかつて「左手同盟」に所属していたのであった。
*
あれは高校二年の二学期、秋の出来事だった。
友人Nが、右腕の肘から手の甲にかけて、盛大に骨を折った。
あの日、Nと私は野原のグランドでテニスの乱打をする約束だった。待てど暮らせどやってこないのであきらめて家に帰ると、腕を折って救急車で運ばれたと、電話があったことを知った。
大変なことなんだけど、理由を聞いたらおかしくて、同情するどころか呆れてしまった。
彼女の母上が、庭の柿の木の、それもてっぺんの方の柿の収穫を頼み、梯子から木に飛び移る時に落ちたそうだ。その造り酒屋の家には男兄弟が三人もいるのに、なぜあえて女子の君が登ってしまったのか、友人よ。
彼女の兄さんは梅干しの匂いが大嫌いで、毎年梅が干される時期は、家出していたよね。だから勝手に梅干し兄さんって呼んでたね。まさか、柿もだったか。
*
ともかくその日からしばらく、彼女のギプス生活がはじまった。
はじめてギプスなるものを間近で見た私の好奇心ときたら。ねぇねぇ、触ってい-い? 毎日、質問攻め。なるべく近くにいて、観察がてら色々世話を焼いていた。
腕は折っていても他は元気なので、当然授業には出る。右手が使えないから、左手でシャーペンを握り、みみずがのたくったような字を書いてて気の毒だった。しかし、しばらくすると、かなりきれいな字が書けるようになってきた。
ある日数学の授業で、黒板に答えを板書きするのにNが指名された。先生も人が悪いなぁ、何もギプスの子を指すことないじゃん、と思った。
しかし、今もはっきり浮かぶ、午後の教室のあの光景。
彼女は、何事もなく誰とも代わらないかの如く、まるで最初から左利きであったかのように、数式をさらさらと書き始めたのだ。
あの、白いチョークで書かれた数字たちの清々しさ。彼女は下界に舞い降りた天使のようだった。淡く眠い午後の光の中に、白い文字が音楽のように流れていく様。なんて大げさだな。
でもこの時、数多の生徒が彼女に心を奪われ、左利きへのあこがれが猛烈にふくれ上がり、かくして有志十数名により結成されたのが、その名も「左手同好会」、後に通称「左手同盟」であった。
同志は、できるだけのことを左手でやるべし。
右手に安直に頼ってはならず。
学校での基本事項その一は、なんといっても字を左で書くこと。
力の入れどころがわからない。姿勢が斜めになる。いや、実に難しい。しかし、不可能を可能にするのが大事な精神なのだ。
*
あんなに毎日、笑った日々はなかった。
そうでなくても女子高生なんて、何が転がってもけたたましく笑ってしまう、莫迦な人種なのに。
この日から、みんなの珍行動があちこちの教室ではじまった。美術の絵筆などは、絵の具をつけたまま、どっかに吹っ飛ぶ。私なんて左手で書いた方がよもや天才かもしれなかった。芸術は爆発だ。
ハンドボールの時間。左手パスは勢い余って目の前で大バウンド。誰に渡してんの的、おかしなパスの連続技。
ソフトボールに至っては危険すぎて、いい加減にしろと先生に怒られ、レッドカードが出る始末。
やたらお弁当を食べるのが遅くなり、笑っちゃっておなか痛くてなかなか食べられない。転がるたまごやき、刺せないソーセージ、宙を舞う梅干し。脳内劇画タッチ。
部活の時間も、同盟の活動はさらに続く。
Nは卓球部だったが、サウスポーとしても十分やっていけそうだった。みんなギプスに目を奪われて、どこから球が打たれるかわかりづらく、右の時より強くなったんじゃないかとの噂。
ギター部の私は左右逆さに音楽室のギターを持ってみた。この場合、右手と左手の交換だけじゃなく、上下も変わっちゃうので、さすがに頭がついていかない。考えてみたら、ギターは普段から左手がコードを押さえたり、音階を彷徨う役割を果たしていて、働き者なのだ。それを右手がやろうとしても、案外できないものだ。
ピアノも初級者には、役割を替えたら変な感覚になる。左手が伴奏の曲ばかり弾いていると、バッハのように左も旋律を弾かせる曲が難しい。インベンションの楽譜をもらった時はちょっと大人になったような気がした。追いかけっこのような右手と左手のバランスに心奪われる。
同盟一同、かなりの字の上達を見せ、回し文などお手のものであった。私の左手の字も上達して、英語の筆記体もさらら。
友人Nは、折り紙やら、最終的には左手でシャーペンを回せるほどの上級者に昇格し、みんなの師範代になっていった。
みんなきっと、家に帰ったらただの緩んだ右手生活だっただろう。あれは、みんなで一緒に学校でやっていたから特別だったんだよね。私もそうだった。でも、字だけはちょっと秘密特訓したよ。
*
そして、別れの時。彼女とみんなの愛しいギプス。
かゆい時に必至の白い定規。さよなら、ギプス。
美術室の石膏像よりくすんでいる白い固まりが、彼女を守っていた。
それがパカっと半分に、桃太郎の桃のようにぎこぎこと切って開いてはずされた後、みんなでマジックでサインしたね。もちろん、左手で。
あの数ヶ月間のばかげたお祭り騒ぎがなつかしい。みんなで笑い転げた日々。涙が出るほどいとおしいんだ。
彼女が右利きに戻り、自然消滅的に解散した、わが青春の「左手同盟」よ。
ギプスが取れた日は、彼女にとって最高に身軽な記念日だっただろう。ふと電車の中で足元を見たら、上履きのまま帰宅中。よっぽど嬉しくって、浮足立っていたんだね。避難訓練みたいだ。
*
久し振りにちょっと試しに、左手でスヌーピーを描いてみた。
へんてこなおばけみたいな犬もどきになった。ウッドストックもユウレイ。これは左手のせいにしてはいけない気がするけど。
ちょっと難しい漢字を書いてみた。おお、書けた。結構いけてるな。久しぶりでも身体が覚えていて自転車に乗れるみたいなものかな。
左手が、勝手に覚えている感覚であり、記憶。
そんな台詞をほざいてみる。なんだか詩人になった気分だ。
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