第9話 誰かの痕跡を探す


 文章に惹かれると、書いた人が気になってしまう。

 絵に魅せられると、画家のアトリエが見てみたくなる。

 誰かの痕跡を探すのが、たまらなく好きなのだ。



 その絵を見た瞬間、空気が完全に入れ替わった。

 人の喧騒を肌で感じながらも、心の中は一瞬の風が一気に余計なものを取っ払ってしまったかのように、私はそこに一人になった。


 モノトーンで、クールで、静謐な部屋に似合う作品群。

 その作品の画家の名は、タナカヤスオさん。


 言葉で形容するのは難しいのだけど、キャンバスにはモノクロの白、 黒、 グレー、そして銀色の絵の具が、無造作に見えて計算されたように塗られていた。


 キャンバスは自由なクリームが塗られる場。そのクリームは甘くなく、さわるときっと硬質なのだろう。鉛の鉛筆から役割を引き継いだように。


 形は抽象的で、何かを表しているか否かは判断できず。描かれているというよりは、絵の具を、ここにあるからこそ生きる場所に配置させた。そんな風に見えた。


 手がかりは詩的なタイトルのみ。「分岐点」「間合いの一例」、そして「触れる距離」。


 色は決して失われたのではなく、白も黒も美しき存在。触れずともその質感が身体に入ってくる感覚。


 ミニマムな色は、まるで孤高の精神。時に黒は艶のあるピアノのよう。白は凛として、グレーはどこか淡い表情を持ち、時折アクセントに塗られる金色の甘やさかが目を引く。


 特に印象的なのが銀色で、そのままチューブから塗りつけられたかのように妖しく光る。或いは、黒の下から削り取ったら顔を出してしまったのか。

 銀色は、ギィーっとドアを開ける音を立て、中から少し乱暴にも思えるようにめくり上げられた。痕跡を残して、話しかけてくる。



 ピカソの絵皿よりも、ピカソ本人とアトリエの写真がすきだ。

 長沢節氏の色彩と鉛筆の線と、彼のアトリエの写真がだいすきだ。


 軌跡が、 途中が、 過程が、 情熱が、知りたくなる。



 タナカヤスオ氏ご本人から教えていただいたインタビュー記事を読む。キーワードは「消す」「消える」という言葉だった。消しても残るもの。

 こうして、想像だけの段階から一歩だけ前に進む。でも、なおさら疑問も募っていく。


 タナカ氏は、作品を一気に描き上げるのだそうだ。


 目の前に対峙したキャンバスに描く時、緻密に計算するのではなく、余計なことを排除して何も考えずに、自分から出てはくるけれど、別のものを。


 物質のリアル。 道具は、筆、ペインティングナイフ、スキージー。そして、削り取る丈夫な定規。 きっぱりした道具たち。

 彼のアトリエで、透明人間になって息を殺して見てみたい。


 彼は、草木の自然よりも、朽ちた看板の赤い錆が描く紋様に惹かれるらしい。これは、私も写真を撮る時に同質のことを感じる。朽ちているもの、朽ちかけのもの、なぜその形に、色になったのか。偶然が重なることで、変わってゆく世界。


 見えてきた形は意味を成さない。見る人の想像に任せればいい。

 何も考えず、無になって描く、たす美学ではなく、削る美学。

 消そうとして、物質として残る痕跡。



 昔、「マルメロの陽光」という映画を観た。

 一九九二年、ビクトル・エリセ監督によるドキュメンタリー映画。現代スペイン・リアリズムの巨匠アントニオ・ロペス・ガルシア。


 マルメロとは、日本のカリンに似た果実である。

 映画は、画家がマルメロの樹木と実をひたすら描いていくというシンプルなものだった。


 自分の感性が任せるままに筆をぶつけていく衝動と、情熱が迸るままに絵と対峙していくのが画家。そんな私のイメージの貧困から来る画一的な考えの浅はかさ。


 マルメロの画家は、まず自分で巨大なキャンバスを貼ることから始めた。そして、驚くことにキャンバスに緻密な線を引き始めた。正確な位置を示す線。これに沿って描くのか、意外だった。


 しかし、マルメロの実は生きている。当然のことながら熟したあとはただ朽ちて腐ってゆく。画家は絵の完成をあきらめる。予測された未来だったはずなのに。


 この時以来、絵の奥の人、その場所を紡ぐアトリエが気になって 仕方がない。 絵の具チューブの形、転がり具合。あれは、人の手によってつぶされた、美しいもの。


 多分、そこに物語を感じてしまうからだろう。素人ながら、物書きとしての自分が気になる方角、方式、その人の視線への興味が尽きない。


 描く人の数だけ、書く人の数だけ、方法もアプローチの仕方もあるのだろう。そして、私はいったいその何処に惹かれてしまうのだろう。



 再び、いつもの勝手な想像で、心を飛ばす。


 ここからは、時間の匂いはしない。時は分岐する時にこそ、一瞬時を止めてゆくのかもしれない。


 銀色の絵の具がどろりと濃密に熔けたのは、実は身代わり。チョコレートの銀の包み紙が、チョコの替わりに熔け堕ちていってしまうように。

 私は無になれず、結局、何かにたとえてしまう。


 最後の作品にだけ、少し、別の感情を抱く。

 彼にとって、この作品の「触れる距離」とは、どのくらいのことを示すのだろうか。触れる、手に触れる、やっと指先が届く、匂いがわかる程に近付くのか。 でも、きっと近付き過ぎない距離。


 この銀の舌のような部分を誰もいなければ指で掬ってみたいというような誘惑。 ここで終わる。


 友人が一緒でなかったら、ずっとここに佇んでいたかった。






*special thanks to タナカヤスオさま

 勝手な空想を広げてしまい、大変失礼致しました。

 以下、ご本人からいただいたメッセージです。

「絵の具をここにあるからこそ生きる場所に配置させた」の部分が、特に響きました。


【参照】

* Yasuo Tanaka portfolio http://www.yasuo-tanaka.com/

* https://www.instagram.com/yasuo_tanaka_art/

* http://itamuro-daikokuya.blogspot.jp/2015/10/blog-post_19.html


【2016年個展】

*project N 64 Tokyo Opera City Art Gallery

 4F コリドール (4/16 - 7/10)

*トーキョーワンダーウォール都庁 東京都庁 (5/17 - 5/31)


ありがとうございました。






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