第10話 私小説の向こう側
此処で私が書いているのは、何のジャンルなんだろう。
随筆と書くとなんだか仰々しく、ノンフィクションというと違うかもしれない。記憶なんていつも曖昧で、自分に都合よく解釈している気がするから。
一話一話独立しているから、短編集なのか、エッセイなのか、どう括ればいいのだろう。
ふと、「私小説」という言葉が、何処からともなく降って来た時、なんとなく近付きたいような気持になったので、ここをそう呼ぶことにしてみよう。
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私小説、わたくし小説の作家で真っ先に思いつくのは、椎名誠さんだ。
通称、シーナ。 シーナマコト。
彼の「あやしい探検隊」のファンで、息子の岳くんのお話 「岳物語」 が、だいすきだった。
あやしい探検隊はシーナさんの友人たちで構成されていて、筆頭にシーナさんの本の挿絵をたくさん担当されている、イラストレーターの沢野ひとしさん。カヌーで旅する冒険家の野田知佑さんと犬のガク。弁護士の木村晋介さん。チャーハンのリン(林)さん、等々たくさん。
それぞれキャラが立ちつつ、集まるとただの酔狂な人たち。一緒に焚火を囲んで酒を飲む、男たちならではの冒険活劇が興味深い。
そして、シーナさんの ご家族。奥さまは、チベットという渾名の渡辺一枝さん。彼女は、椎名さんの理解者でありながら独立した人。
結婚は契約であって、制約であってはならないと私は想う。そう、心はいつでも自由に、人はそうやって生きていくべきだ。そういう意味で、シーナさんと一枝さんは理想だ。
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椎名さんのエッセイ「菜の花物語」は、日焼けしたごつい男が書いたとは到底思えない、繊細な優しい随筆だ。
ここでも家族や実在の人たちがやはり登場する。こんなことまで書いちゃっていいのかな。シーナさんの私小説を読んでいると、素直な気持ちがまるごと書かれていて、まるで現場を覗き見してしまったような気になったものだ。
彼は、ほのかな恋心のような気持ちも、隠さない。
しかし、私は後々、びっくりする事実を知る。
椎名家のこどもは岳くん一人だと思っていたのだが、なんと葉さんという、岳くんのお姉ちゃんがいたのだ。椎名さんは「葉ちゃんのことは書かないでね」と小さい頃から娘に言われていて、ずっとその約束を守っていたんだって。
今はオープンになって、葉さんも登場してくるようになった。「春画」などの作品に、大人になった葉さんや岳くんとの再会の話が出てくる。もう解禁されたんだな。
私小説というは、別に隠し事がない訳ではないのだと知った。嘘ではなく、秘密だっただけなのだ。それからは、私小説には奥行きがあって、クローゼットや扉に隠れたものがいることがわかったような気がした。見えている本棚やチェロだけでは、君の生活の全ては見えてこないように。
そうだ。私小説には秘密があっても別段いいんだ。というわけで、私も肝心なことは語らないかもしれないまま、ここを続けてみようと思う。誰かのことを書くから、できるだけ嘘をつかず、でも言わないことも存在する。
シーナさんの写真展を見にいったことがある。映画 「白い馬」の舞台、モンゴルの草原が広がる写真。ご本人がいらして雑誌のインタビューを受けていた。写真通りに目がやさしくて、白い歯と顔の皺が魅力的な人だった。私はこういう時、遠巻きに見ているだけで声を掛けられない。握手してもらっている人を見ながら、その場を去った。
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「菜の花物語」は、穏やかな風の吹く午後に読むのが似合う。そう、ちょうど今日のような日に。
彼が雑木林を迷って出逢った、ぽっかりと空いた円い菜の花畑のような風景が、実は私の中にもある。
私の場合は、神社の奥の林の中を探検して見つけたもので、円形にくり抜かれた草原に、そこだけ不自然に木がなく、見上げると空がぽっかり明るく見えている場所だった。
私は、ここはきっと未確認飛行物体の着陸する地点だと断定した。今考えると、ミステリーサークルっぽい気配を秘めていたような気がするんだ。草がなぎ倒されて、街から見えないようにちかちか光るサーチライト。
本当にあったことなのか、夢だったのか、もう一度そこに行った記憶はない。 夢なら夢でいいから探さなかったのかもしれない。だが、私にとってその場所は、シーナさんにとっての菜の花畑と同じだった。
そこで摘んだ木苺の黄色い実の、甘酸っぱさの記憶と共に。
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