3
授業に出席する。彼女のいる教室へ。今週も名前の思い出せない彼が隣に座った。
「そういえばお前、川口のこと知りたがってたよな」
彼女は教室の反対側で家族シネマを読んでいた。柳美里の代表作だ。戯画のような、されど本質を噛み締めようとする家族の話。
彼は尋ねてもないのに話し始める。彼女がサークルで先輩のひとりに執着して、別の女と付き合っていたその先輩を別れさせようとしたこと。合鍵を勝手に作って、週に一回先輩のいない部屋で夕飯を作っていたこと。終いには弁護士を雇う事態になりかけて、彼女の両親が先輩に謝罪して彼女にはサークルもやめて先輩に近づかないと誓約書を書かせて。それで何とか収まったこと。
彼は本当に嬉しそうに語る。たぶん僕の彼女への憧れのようなものが崩れる様を想像しているのだろう。でも、僕は彼の話になんとも思うことはなかった。だってそうだろう?僕はすでに彼女を手に入れた。今晩も僕は彼女の隣にいられる。僕は彼女と繋がれる。それは僕だけの彼女であって、彼女そのものがどんな人間であろうと僕だけの彼女とは関係ない。彼女と彼の話す彼女はまったくの別物だ。僕はもう言い聞かせなくても、そう思うことができた。だから、笑顔で彼の話を受け流す。彼は少し気味悪そうに眉をしかめた。授業が始まる。彼女が家族シネマを閉じる。
※
僕はそれから週に数回、彼女の元を訪ねた。幸せだった。彼女は相変わらず眠ったまま僕を迎えてくれたし、部屋の鍵はいつも開け放してあった。毎回、ただ隣に座って少し話をするだけだったけれど、それが彼女と僕の関係で、僕はそれで満足だった。
ある日のこと。
僕はその夜も彼女の部屋にお邪魔した。そして違和感を覚えた。少し寒い。見ると、僕が毎回エーテルを換気するために開ける窓が、僕が開ける前から少し開いていた。驚いて彼女を見る、しかし確かに眠っている。部屋の中は微かにエーテルの、化粧品のような匂いがした。大丈夫。窓は開いていたようだけど換気はうまくいかなくて、彼女はちゃんとエーテルで眠っている。
僕はほっとして彼女の隣に座る。向こうの化粧台に蓋の開いた除光剤が見えた。僕はいつも通りに語りかけた。返事のない彼女に。この部屋にはマグカップが二つある。僕はそれらを借りて、ココアを二つ作って、僕と彼女の前に置いた。これも寒くなってきた最近ではいつものこと。彼女は飲まないし、僕だけが啜る。そして帰るときにはマグカップも洗って、ぜんぶ元通りにして、彼女が気付かないようにする。でもその日は妙な味がした。エーテルの香りがやけに強く残っているせいかもしれない。
話の途中でお腹が痛くなった。僕は彼女に断ってトイレを借りた。初めてのことだったけれど、急だったので彼女も許してくれるだろうと思った。トイレは清潔に保たれていて、微かに人工的な甘い香りがした。僕は少し緊張しながら腰を下ろす。トイレから出たら彼女に何を話そう、と考える。考えている。
その時、目の前のドアが鈍い音を立てた。
ドアノブが壊れそうな衝撃で揺れた。僕は息が止まるほど驚いて、震えさえする鳥肌の立った手で着衣や用を足すのもそこそこに立ち上がる。
そして、躊躇う。
今の音は何だったのだろう。まともな理由が何一つ思いつかない。この部屋には彼女と僕しかいないはずなのに。そして彼女は眠っている。はず。
ありえないことばかりが想像を駆動させ、僕はそして静寂に包まれていることを自覚する。あの大きな衝撃は一度きりだった。続く音はなく、再び換気扇が頭上で回る音だけがする。ドアに耳を当ててみた。空気の通る音。それ以外聞こえない。ゆっくりとドアノブに手をかける。回らない。いや、重い。
僕は訝しく思いながら押し開けようとして、ドアが向こうから誰かに押さえつけられていることを知る。押しても、ほとんど動かない。
「誰か、いるんですか?」
僕は震える声で尋ねた。あるいは彼女が目覚めたのだろうか。別の誰かがあの部屋にはいたのだろうか。終わりだ。僕はきっと警察に捕まる。僕は二度と彼女に会うことはできなくなる。怖い。たまらなく怖い。
「ごめんなさい、あの、理由を。そうだ、理由を聞いてください」
しかし返事はない。今頃、ドアの向こうで押さえている誰かは携帯で警察に連絡をしているのかもしれない。僕は観念した。座り込む。僕は待つ。ドアが開かれて、裁かれるその瞬間を。
※
だけど。ドアは開かれなかった。小一時間経つ。ドアの向こうの誰かはずっと立ち続けているようだった。押してみても、ドアはすぐに元の閉まった状態に戻る。
いや。
ずるずると音がして、向こうの何かが押された。ドアは閉まらない。
ようやく理解する。ドアの向こうにいたのは人じゃなくて何か重い物だったのだと。きっと僕を閉じ込めた人間が、何かを置いて自分で押さえる代わりにしたのだと。だけどそれにしてはあまりに軽い。僕が体重をかけて押し開くだけで、僕は出られてしまう。
慎重に少しだけ開けて、様子を伺う。トイレの前には誰もいないようだった。しばらく耳を澄ませても、誰の声も聞こえない。ドアの向こう側、僕がトイレから出るのを拒んでいた物を見る。
そして僕は首を吊っている彼女を見つける。
彼女はトイレのドアノブに首を吊って死んでいた。理解できない。現実を疑い目を疑い。頭がパンクしてただ恐怖だけがじりじりと顔の表面を這い登ってくる。つまり、僕がドア越しに押していたのは彼女の死体だった。
悲鳴を上げながら僕はリビングに転げ込む。彼女がいたはずのコタツ。手の付けられていないココア。そのカップの下に何かあった。
手紙だ。
僕の頭は勝手に現実を整理してしまう。僕は侵入者だ。でも彼女は死んだ。ここで今、僕が自室に逃げ帰ったとしたら、彼女の死体は見つかって、証拠を残している僕はすぐに捕まってしまうに違いない。彼女が死んでしまったことで色んなもののバランスは崩れた。僕は今とてつもない危険の中にいる。頭が白く歪む。
僕は彼女の死体のほかにこの部屋に誰もいないことを知って、手紙を開かざるを得ないことに気付く。僕は逸る心音をやけに遠くに感じながら、手紙をもどかしく開いた。
※
初めまして。というのも変ですよね。ずっとお会いしてきたのですから。でも私からすれば、言葉を交わすのは初めてなので。だから。
初めまして。
きっと驚いてらっしゃるだろうなと思います。
この手紙が読まれる頃には、すでにあなたは死んだ私を目の当たりにしているに違いないのですから。
でも安心して下さい。泣いたり怒ったりしないで下さい。私があなたのいるこの部屋で自殺したのは、決してあなたを窮地に追いやろうだなんてためではありません。決して、私があなたのいるこの部屋で首を吊ることで、あなたの手から逃れようと、あなたの行動を世間に告発しようと、そういったことを考えたのではありません。むしろあなたへの贈り物として、あなたのためを思って、私は首を吊りました。
おそらくご混乱を招くことになってしまったのではないでしょうか。詳しく説明します。
あなたと出会う少し前の話です。あなたがいらっしゃる少し前。私はある人に恋をして、でもその人にはその気がなくて、その結果、色々なものが上手くいかなくなりました。細々と書くことは控えますが、恐らくぜんぶ私が悪かったのだと思います。好きになりすぎたのだと。
それ以来私は居場所をなくして、授業の他に外へ出ることもなくなって、自室に篭っていました。驚きました。本当に私には何もなかったんだなって。色んな物を、居場所をなくしただけで、私はもうどうしたらいいのか、何をしたらいいのかわからなくて、途方に暮れるのです。そんな女に誰かが興味を持つはずもない。そんな私が必要とされることはない。そんな思いが喉の奥に少しずつ溜まっていきました。
そんな頃、あなたが来てくれたのです。
最初はもちろん気付きませんでしたよ?あなたはまるで煙のように跡を残さなかったから。けれど、私は少しおかしいから。私はあらゆるものにあらゆる約束を持っています。こだわりと言ったほうがいいかもしれませんね。例えば、水道の蛇口を締めるとき、いつも少しだけ緩めておくし、カーテンは絶対に隙間なく閉めます。玄関のドアノブは、そのままにしてると少し下がってしまうので、閉めたあと持ち上げて直すようにしています。
そんな小さな約束がいくつも破られていました。たぶんあなたが初めて私の部屋に来た日です。そんな細かな不自然に気付いた私は、今考えても恥ずかしいのですが、彼が来たのだと思いました。そう。少し前に失恋した相手です。彼には私の部屋の合鍵を渡していました。送り返されたけど、こっそり複製して持っていたのかもしれない。それで私を心配して見に来てくれたのかもしれない。そんなことあるはずないと思いつつも、期待が捨てられなくて、どうしても確かめたくなりました。
先に謝っておきます、実はそれからしばらくして、私はこの部屋にカメラを仕掛けました。毎日ドキドキしながらその中身を確認しました。毎日が興奮で彩られた日々でした。そしてとうとう、私のカメラは部屋に誰かが侵入する姿を写しました。それは彼ではなく、あなたでした。
私は唖然としました。だって、そこに映るあなたは見たこともない、誰でもない男の人だったから。それでも唖然としながら、あなたの所作を一部始終見守りました。あなたは私に乱暴をするでも、不快なことをするでもなく、ただ話しかけて帰って行きました。ただそれだけでした。きっと本当ならここで警察にでも連絡するところなのでしょうけれど、私はあんまりといえばあんまりな展開にどうすることも思いつきませんでした。というより、正直に言いましょう。
あなたがどうしてそんなことをするのか気になって仕方なくなりました。だから、そのまま私はカメラを置き続け、あなたを盗撮し続けました。ごめんなさい。
それでもわかってほしいのは、私があなたのことを知っていると教えなかったのも、ただあなたが二度と私の部屋に来なくなるのを怖がったためで、あなたを騙そうと思ったわけではないということです。
だからこそ、初めは不気味だと思っていたカメラ越しのあなたに、私は親しみを覚え始めました。自分が誰かに必要とされているということが何よりも嬉しかったのです。たとえその方法が普通でないとしても、あなたにはきっとあなたなりの理由があったのでしょう?だから。だから。
私はあなたの語りかけてくれる言葉を聞いていました。あなたはたぶん私が聞いているとは知らずに語りかけたのでしょうけど、でも、ぜんぶきちんと録画して、一言も漏らさずに聞いていました。受け止めていました。そして私は勝手にあなたを支えているつもりになって。
でもごめんなさい。
私はこれ以上生き続けることができそうにありません。もちろんあなたのせいじゃありません。きっと誰のせいでもないんです。ただ私が弱かっただけで。私が誰にもなれなかっただけで。
でももし迷惑じゃなかったら。
私をもらってくれませんか?
そのために今度あなたが来た時は薬で眠ったふりをして、あなたが隣に座ってもそれをやめないで、あなたが席を立った隙に(ココアの粉に薬を混ぜました。ごめんなさい。あとココアの粉は処分していただけるとありがたいです)自殺をしようと思います。私は死んでしまうけど、これからも隣に置いて語りかけてくれますか。必要としてくれませんか。それだけできっと私は救われる。
でも仮にあなたにとって私が邪魔なら、この手紙と一緒に遺書も用意しています。あなたのことについて一切触れていない遺書です。この手紙を処分して、遺書だけ私と一緒に残してくれれば、きっと誰もあなたのことを疑う人はいなくて、私はただの自殺として片付けられると思います。
でもやっぱり私はあなたのそばに置いてほしい。あなたに必要とされたい。勝手なことを言っているし勝手なことをしたのはわかっていますけれど、どうか私のお願いを叶えて下さい。
最後に。もしあなたが私を捨てるとしても、これだけは言わせて。
今までありがとう。
嬉しかった。
※
僕は手紙を閉じ、彼女を見る。眠るように死んでいた。あふれるような幸せに堪え切れないかのように口元が緩む。捨てる?とんでもない。そう思った。
彼女の隣に肩を寄せて、座る。
「ありがとう」
僕はそうつぶやいて、目を閉じて、彼女の手を握った。初めて握る小さな冷たい手。きっとずっとこれからも僕のそばにあり続ける手。
微かに彼女が握り返してくれた気がした。
そんなはずもないのに。
『それでも空から少女は降ってこなかった』
僕だけのヒロイン 言無人夢 @nidosina
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