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課題をこなす。見たことのない式を教科書から探して、その一文字一文字の意味を理解して、文章に直していく。
身が入らない。ふと振り返った先に壁。彼女が向こう側にいる。僕と彼女を絶望的に遮る。壁。それは実際の厚さよりも僕と彼女を隔てる。
どうして彼女が隣に住んでいたことに、昨日まで気付かなかったのだろう。それはそれだけ僕が彼女と無関係だから。隣に住んでいる彼女は、どうしようもなく、他人だ。例え壁一枚を隔てた、たった数メートル先で彼女が僕と似たような生活を送っていても、僕と彼女の生は交わらない。それはつまり、僕と彼女が同じ学校に通い、同じ教室で同じ授業を受け、同じ場所で生活をしていることにだって意味は無いということだと思う。もっと決定的な何かがない限り、僕は彼女と関わりを持つことはありえない。
話しかけてみる。昨日は簡単に乗り越えられると思えたその一線が今ではあまりに遠い。
他人が他人でなくなるというのは、この時代のこの街ではとても怖いことだと思う。隣に誰が住んでいるのかだってわからない。友人を名乗る彼らが何を考えているかわからない。表面だけの付き合いばかりで、深入りすることは特別な相手にしかしない。当たり前に色々なものが遮断されて、見えなくなって、その見えない先でたった今どんな歪みが生まれていたとしても見えない。それが今僕らの生きる社会だ。
そして僕の容姿や話し方はお世辞にも好青年とは言いにくい。きっと彼女は警戒するだろう。そんな僕が同じ学校で同じ授業を受けていて、今まで隣に住んでいたことに、お互い気づかなかった。そんな偶然、気味が悪い。万が一にも僕のような人間に一緒に学校に行こうなんて誘われたら、と僕に玄関口で話しかけられた彼女は想像するかもしれない。そして困ってしまうかもしれない。柳美里を読むんですねなんて尋ねられたら。迷惑かもしれない。
もし仮にそうじゃないとしても、もう僕は自分のことをそう思っているから。思ってしまっているから。彼女に積極的に関わることができない。
だから、僕は彼女に話しかけたところで、きっとお隣さんという名前の、表面だけの付き合いにしかなれなくて、それに意味はないと思う。
言い訳かもしれない。けど、それでいい。僕は今までそうやって諦めてきた。僕はこれまでもこれからも何も持たない。そう言い聞かせるように。嗚咽を押し殺す。
※
僕は電気の消えた実験室で標本ビンの中のラットを見つめていた。その赤い目をした生き物は、しかしまだ標本ではなく、生きている。やがて、動きは鈍くなり、眠り。死んだ。その標本ビンの底にはエーテルが溜まっていた。麻酔としても使われたエーテルは、吸い過ぎると目の前のこの鼠のように安らかに死ぬ。実験動物の安楽死として一般的な方法。
教授に頼まれた、不要になった実験動物の処理作業だった。僕は手早く死体を片付ける。新聞紙に包み、冷凍保管庫に突っ込む。死体の廃棄は教授がやってくれることになっている。使った器具を洗浄し、元の場所に戻す。エーテルを戻そうとして、手を止める。その時、すでに何かの目的があったわけじゃない。だけど、僕は何となく。自分の鞄を引き寄せ、力任せに開ける。中に偶然入ってた空のペットボトルを取り出して蓋を外し机の上に。エーテルの大瓶から少し移して。蓋を戻して仕舞った。
誰も見ていない窃盗だった。
心臓が吐き出してしまいたくなるほど、胸の内側を渾身の力で叩く。頭が割れそうに心音で染まる。汗で滑る手でエーテルを戻し、実験室の鍵を閉め、研究室に寄って震える表情を力尽くで抑え、教授に何事もなかったかのように鍵を返し、誰の視線からも逃げるように、帰った。鞄を不自然に強く抱えたまま。
そしていつもの机の上に、昼間に飲んだ紅茶のペットボトルがある。底の方に十数センチの、褐色の液体。油のような比重の色具合。振れば、重たく揺れる。
僕はどうして持ち帰ってしまったのだろう。そんな。そう。他人の自由を奪う、薬を。どうして?尋ねるふりをするのもきっと欺瞞。わかっている。そのままの理由だ。僕は時計を見る。
二十三時二十五分。ペットボトルの中身をピタミン剤の空容器に少し移して上着のポケットに隠して、羽織る。靴を玄関から持ってきて、開け放した窓枠に腰掛けて履く。その窓は隣の事務所に面していて、誰からも見えない。そして、奥側には隣室の窓と、暖房の空気流入口。
震える足でコンクリートの塀に足をかけて、登る。手を伸ばして、彼女の部屋の空気流入口に手を伸ばす。触ってみると、確かに風の流れを感じた。音を立てて、僕の指をすり抜けるそれに。蓋を開けたエーテルの溜まる容器をかざす。くるくると手元で揺らす。石油のような、甘くない香水のような香りが口の中で溶ける。
遠くでサイレンの音が聞こえ始めた頃。僕はエーテルの蓋を閉めた。そして窓から自室に戻り、靴を玄関で履き直し廊下へ。それは確信に近い何かだった。僕は彼女の部屋のドアノブを押し下げる。
開いた。
きっと偶然。このアパートは玄関がオートロックだから、部屋ごとの玄関の鍵をよくかけ忘れる。だけど、僕には彼女に受け入れられた証のように感じられた。僕の部屋と同じ間取りの、家具が違う空間。色合いが柔らかい。その中央で。
彼女は死んだように眠っていた。
コタツに寄りかかって、腕を組んだ上に頭をもたれかけて寝息を立てている。僕は部屋を見渡す。本棚。机、ベッド。アロマキャンドル。微かなエーテルの匂い。換気がてらに窓を少しだけ開ける。
彼女の隣に腰を下ろして、彼女の寝顔を眺める。美人ではないけれど整っていて見飽きない。微かに呼吸に合わせてまつげが揺れる。恐る恐るコタツに入ると彼女の足が僕の足に触れた。
まるで友人のような距離感。
「この前のゴールドラッシュは読み終わったのかな」
返事はない。僕は続ける。
「いいよね、あれ。追い詰められるような、初めから終わってしまっているような悲しさが」
それは言ってみたかった言葉だ。話しかけてみたかったセリフだ。もう産まれるはずのなかったその声を、僕は彼女に届ける。彼女は眠りながら聞いてくれる。
いくらでも語りかけたいことはあった。
「ずっと気になってたんだ」
「そういえばどの学部なんだろうね、こんなに近くに住んでて気付かなかったって、もしかして学年も違うのかもね」
「他の人と違うよね、君はさ。なんていうか、浮いてる。もちろんいい意味で」
他人とこれだけ話したいと思ったことはなかった。口は滑らかに淀みなく、溢れる思いはそのまま言葉に変えられた。
でも、すぐに時間が来てしまった。
「じゃあ、またね」
僕は彼女に別れを告げる。そろそろ彼女が目覚める。夢から、覚める時間だ。僕がいた痕跡をできるだけ消す。僕が座った箇所のカーペットの皺を伸ばす。窓を閉める。靴を履いて、出て、ドアを閉める。
そして僕は自室に戻る。微かな緊張と大きな充足感が胸から零れ落ちそうだった。頭が焼けるように幸福だ。僕は彼女の側にいた。誰よりも彼女の本質に触れたとすら思えた。今頃彼女は目を覚まして、居眠りしてしまったかとばつが悪い思いをするだろう。そしてふいに夢の中で誰かと話したような気がするに違いない。そして少しだけはにかむように微笑んで、今度こそ本当に眠る。幸福な夢に戻ろうとするように。きっとそうに違いない。きっと。彼女に寄り添うような気持ちで僕も一人でベッドに潜り込む。
おやすみ。
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