僕だけのヒロイン
言無人夢
1
『空から少女は降ってこなかった』
僕は今日も一人で夕飯をつまむ。テレビでは作られた物語が淡々と綴られた。頭に靄がかかったように思考がはっきりとしない。きっと授業で扱ったジエチルエーテルのせいだ。
夕飯を終えたら、明日が期限のレポートを仕上げる。お湯を沸かして珈琲を淹れる。なるたけ激しい音楽をヘッドホンから頭に流し込む。ノートと教科書を手元にレポートを完成させる。求められているだろう考察を書き込む。メールに添付して提出。深夜二時過ぎ。少しでも寝ないと。
珈琲を飲み干して歯を磨く。ふと見渡すといつのまにか部屋が汚れていた。最後に掃除したのはいつだろう。年末に試験が集まっていて、休日がまともに取れない。放課後も課題を片すのに忙しくて、バイトも出来ないし遊びにもいけない。慣れてしまえば苦ではないのだけど、ふとした拍子に、今みたいに色々なものに閉じ込められているような気になる。それ以上考えないようにして電気を消す。
※
一限が行われる教室で授業の開始を待つ。隣にサークルの友人が座ってきた。名前は思い出せない。
「週末の試合は?」
「ごめん、行けない」
僕はひたすらに謝った。本音を言えば彼の試合を見に行くためだけに休日は潰せない。休日を潰せば、平日の睡眠がなくなる。一年の時の気まぐれで入った、レギュラーになれるはずもないテニスサークル。抜けるのもめんどうで毎年無駄な会費を払っている。
彼は肩をすくめて来週末の忘年会の話をし始めた。遮るように訪ねてみる。
「そういえば彼女は?」
「沢田?別れたよ」
事も無げに言って、彼は出会いがないんだよね出会いがと笑った。
「サークルの子はやっぱダメなの」
「当たり前じゃん、一女ならともかく。もう数年一緒にいて付き合わないってことは恋愛対象外ってことでしょ。そもそもこじれたらめんどくさいし」
彼に悪気はないのだろうけど、
「そういうお前は?」
問い返されて僕は困った。
「僕?」
彼は期待していないような顔だったけど実際、僕はそういう話を期待されるような容姿でもない。言ってしまえば、タイプが違う。僕はそういう人種じゃない。
「気になってる女の子とかいないの?」
「いないね」
「何で?」
やけに突っかかってくる。早く授業が始まって欲しい。教員は遅れているらしい。
「紹介しようか?好みとか?」
苦笑いで誤魔化そうとした僕の視界の隅に、『彼女』が写った。
「ん?」
僕の視線の先を追って彼が振り向く。彼女は気付いた様子もなく、文庫本の栞紐をいじっている。
「もしかしてあれが良いのか?」
彼の指摘は正しかった。僕は少し前から彼女が気になっていた。たぶん同じ学年の、別の学部の子。この授業だけ被ってるらしくて、他の授業で見たことはない。
初めて見た時から彼女は柳美里を読んでいる。女性的で自分の感性に深く踏み込まれるような文章を描く作家だ。毎週彼女は違う文庫を読んでいて、今日はゴールドラッシュだった。
「あれはやめとけよ」
「え?」
彼は半笑いのまま肩をすくめる。教授が教室に入ってきた。
「川口って言うらしいんだけど、ダンスサーで男と拗れたって」
「あぁ、そう」
授業が始まってしまったのでそれ以上のことは尋ねられなかった。
でも彼はどうしてそんな彼女の過去が、僕が彼女への興味を失う理由になると思ったんだろう。彼女がどんな人でも関係ない。誰と寝ようと関係ない。ただ気になるだけなんだ。
それだけなんだ、と言い聞かせるようにして。
※
帰り道。電車が来た。乗り込み、自宅へと動き出す列車の中で彼女を見かける。同じ方向に住んでいたらしい。朝の彼の言葉を思い出す。
『だけど彼女はゴールドラッシュを読んでいた』
それは僕も読んだことがあった。救いのない父親殺しの物語。僕はそのタイトルが彼女の手元に収まる日をずっと待っていた。本の内容について話しかける口実になるから。電車の窓の外側。空の片隅にだけ微かに夕陽の欠片が息づいてる。街灯が尾を残して一方通行に過ぎ去る。彼女の手の内側で、その物語は今日が終わるのに合わせるように、終盤に近づいていた。
彼女が今、目の前でその本を読み終わったら。きっと僕は話しかける。柳美里、いつも読んでますよね。好きなんですか。彼女は驚くだろうし不審げに眉をひそめるかもしれない。でも、それでも。
そう、変わらないのだ。僕が話しかけない限り、彼女が僕と接することは一度もない。季節が移ったら時間割は変わって。名前と顔しか知らない彼女を僕は失ってしまう。変えるには、変わらないといけない。単純なことだ。それは単純なことだ。
緊張に喉をやられる。いくら唾液を送っても息苦しく空気が通らない。何気ない声が出せるか不安だ。彼女の文庫の残りページ数が減っていく。縦に往復する目線が滑らかに僕を追い詰める。されど彼女の僕に与える手の震えは、芯の部分に微かな希望を孕んでいて僕を惹きつけてやまない。
彼女は僕に話しかけられて不快に思うだろうか。僕がいくら傷付くよりも彼女を傷付けてしまうことが怖い。なるたけ上手くやらないといけない。当たり障りなく器用に、不意に何気なく話しかけてしまったかのように。
そして彼女は文庫を閉じて。
立ち上がった。
ガラス越しにページの中身を追っていたからわかる。確かにまだ彼女は読み終わっていなかった。読み終わるより先に、駅に着いてしまったらしい。僕の脇をすり抜けて電車を降りる。
こんなのってありだろうか。運命は残酷だなんて陳腐な事実が聞きたいわけでもなく、僕はただ悲しかった。振り向く気にもならなかった。彼女が降りた駅が何処であろうと。
扉が閉まる、アナウンスにはっとする。
繰り返される駅の名前は僕の降りるべき駅だった。
僕は慌てて人を押しのけ、閉じかけた扉から無理やり電車を抜ける。人混みの少し先を彼女は歩いていた。つまり、彼女の駅は僕の駅と同じだった。
信じられない思いで、彼女の跡をふらふらと。改札を抜ける。
どうして今まで気付かなかったんだろう。きっと僕の家とも近い場所に住んでいるに違いない。商店街を抜ける、話しかけることなんて頭から抜け落ちて、ただ着いて行く。何かの無料配布をしていた女性に不審げな視線を向ける。自分が他人から見ていかに奇妙なことをしているかに気付いて、少し先を歩く彼女からなるべく視線を外してさり気なく歩くようにした。彼女は手渡された除光液の試作品を鞄にしまった。
そして。そう、そして。
僕の住んでいる小さなアパートにたどり着く。
「え」
彼女はオートロックを外し、中へ。
郵便受けを見る。それぞれのポストと一緒に列ぶ八つの名前の中に川口の二文字があった。彼が今日教えてくれた彼女の名前。そしてその一階の部屋は僕の隣だった。
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