第19話 Laugh Story
現実は、いつだって理不尽で残酷で、いつだってフィクションを上回る驚きに満ちている。
「ふざけんじゃないわよ!」
ブリギッドの強烈なビンタが、俺の頬を捉えた。腰の入った見事な一撃に膝を付く。
悶絶する俺の襟首を引っつかみ、女の細腕とは思えない力で引っ張り上げられる。
「どういうこと、ねえ。一体どういうことなの!?」
「ど、どういうこと、と申されましても・・・」
美女の凄まじい剣幕に、謂れ無き理由で左の頬をぶたれた俺は右の頬を差し出して許しを請いたい。自分にはまったく罪は無いはずなのに反射的に謝らなければと思うのは、日本人特有のとりあえず謝っとけ的な癖か、下手な反論でこれ以上彼女を怒らせたくない恐怖心からか。
「いい? 私はね、これでもアクラクセインで十本の指に入る医者なの。それだけの経験と実績を積み重ねてきたの。特に診察眼に関しては誰にも負けない自信があるわ。これまで数百件の患者と向き合ってきて、自分の診断を間違えたことなんか一度もない。なのに、なんで、なんで・・・」
わなわなと震えながら、ブリギッドが指差す。
「何でまだ生きてんの!」
彼女の人差し指が示す先には、肩をすくめて苦笑するアトリがいた。
「何でて言われても困るんやけどな。むしろこっちが聞きたいわ」
ちなみに現時点で、余命マイナス一週間。ブリギッドが宣告した日にちから一週間が無事経過している。日に日に弱っていくどころか、病気の進行は完全停止し、順調に快方へと向かっていた。飯ももりもり食べて、華奢だった体も少しふっくらしてきた。本人に言ったら怒るから言わないけど。でも、今の肉付きの方が健康的で俺は好きだけどな。
「アカシャ家の病は、徐々に身体機能や免疫機能が低下していくものよ。症状だけなら似た例がいくつかあるけど、彼女の場合は原因がまったくわからなかった。まるで呪いのように、毎日容態が少しずつ悪化していく。一年前に検査した時は、間違いなく余命一年だった」
俺を突き放し、今度は自分の親指の爪をイライラしながら噛み、診察室内をうろつく。
「それがなに? 定期検査を行う度に数値が回復して、今では常人と何一つ変わらない体調ってどういうことなの!?」
「おお、そういや最近力もついてきたんや。そろそろ歩くためのリハビリしたいんやけど」
「二度と立てないまでに弱った筋力が回復するって何なの!?」
のんきなアトリのリハビリ開始宣言にヒステリックにわめく。
友人から送られてきた、俺達のことを題材にした漫画ではアトリは最後に病気で死ぬ。
リアルではブリギッドが嘆いた通りだ。アトリは確かに原因不明の不治の病に侵されていた。けれど、これまた原因不明だが、半年くらい前、俺の芸が安定し始めた頃くらいから比例して容態が安定し始めた。結果、ブリギッドの自信やプライドはずたずたにされた。
「一体、あなたはアトリに何をしたの!」
そしてこの有様である。怒りの矛先は俺に向いた。
「何をした・・・強いて言うなら、笑いと・・・その、愛を提供した、かな?」
「大の大人が照れながら恥ずかしいこと言ってるんじゃないわよ!」
「聞かれたから答えたのに!」
結局両方の頬をぶたれた。なんて日だ。
「百歩、いえ、千歩譲って、アトリの病気があなたの芸と愛(笑)で治癒したとしましょう。四六時中毎日一緒にいたんだから、何らかの影響を与えたのは間違いないでしょうから。けどね、それならうちの患者、いや、アクラクセイン中の患者の容態が改善したのはなぜ!?」
とうとうブリギッドが天を仰いだ。彼女の話によれば、入院中の患者の八割以上が、容態が回復・改善した、予定日よりも早く完治し退院した、宣告された余命よりも長く生きたなどの報告が上がっているらしい。近々それらの患者のデータを集めて緊急の会合が催されるようだ。患者が回復するのは良い事だと思うのだが、そうもいかないみたいだ。彼女達のこれまで積み重ねてきた実績とそこから導き出していた理論が覆されたのだから、古い理論に変わる新しい学説や理論を早急に作らなければならないのだという。
「あなたたちのせいでこの数ヶ月、家になかなか帰ることもできなきゃ満足に眠ることもできてないのよ。怒るでしょう、普通。怒らずにはいられないでしょう!」
「ちょ、苦しい、苦しいから・・・」
襟首を持たれてガックンガックンされる。彼女が俺を揺さぶるたびに目の前でたわわに実った二つの果実も大暴走しているのだが、鑑賞する余裕が無い。鼻息荒いブリギッドを何とか落ち着かせ、その拘束から逃れた。
これ以上あなたたちの顔を見てたら怒りで狂ってしまうと診察室を追い出された。
「うう、酷い目に遭った」
「災難やったなあ」
アトリの車椅子を押しながら、病院の廊下を歩く。そこかしこから笑い声が漏れ聞こえる。病室では誰かがテレビを見ているのだろう。この時間帯なら、以前収録した漫才がやっているかもしれない。
「まあ、アレでもうちが生き延びて喜んでくれてるみたいやで。泣いとったし。ただちょっと、納得できてへんだけや。折り合いつけたら落ち着くと思うわ」
「早く折り合いがつくことを祈ってるよ」
言いつつも、俺だって納得いってないことがある。
「なんや、自分、まだぶーたれとんかいな」
表情から読み取られてしまったようだ。伊達に一年間傍にいない。
「当たり前だろうが」
「別にええやん。評価されてるは、されてるんよ?」
エレベーターで一階へ。そのまま待合室を通過する。待合室にある巨大テレビでは、バラエティの生放送が流れていた。
「評価されてるのは素直に嬉しい。けど、ブリギッドじゃないけど、それでも譲れないものってのがあるんだよ」
テレビ画面に視線を向ける。そこでは、本日のゲストが巧みなトークを繰り広げ、どっかんどっかん会場を笑わせていた。
『スタンリーさん、そんなの、おかしいじゃないですか。きつねうどんを注文しておいて揚げを抜けだなんて』
話を振っている司会は我慢しながら、自分の腹筋を破壊しようとしている老執事に話を振った。それが自分の首を絞めるとわかっていても振らずにはいられない。どこからどういう話が展開して遠い異国の地できつねうどんが話題に上がったのか。これも彼の話術のなせる業か。
『ええ、そうなんです。だから私、言ってやったんですよ。それはただの素うどんだ! ってね』
とうとう司会が体をくの字に折り曲げた。会場も拍手と爆笑の渦に飲まれていく。テレビを見ている待合室も大爆笑だ。受付も、通りすがりの看護師も医師も真面目な顔を崩してしまっている。
そう、いまや飛ぶ鳥どころかスペースシャトルすら打ち落とす勢いの、人気絶頂の芸人スタンリーが、大画面で一人涼しい顔をしている。
「どうして俺じゃなくてスタンリーの方が人気出ちゃってんだよ!」
「しゃあないやん。スタンリーの万能性は自分がよく知っとるやろ」
「それにしたって不公平すぎる! 俺があそこまで笑ってもらえるのに何年かけて、どれだけの苦労を重ねてきたと思ってんだよ!」
「重ねた年月と成果が比例せえへん良え例やな。本人も驚いとったで。『よもや、自分の中にこんな才能が眠っていようとは』て」
俺が尊敬している最高の天才芸人が、こんな言葉を残している。
―笑いで大切なのは言葉じゃない。『間』だ―
そして、スタンリーはその間の取り方が絶妙なのだ。チョイスする言葉はこれまでの経験から得た洗練された物で気品や知性を感じさせ、武芸で培われた反射神経は切れ味鋭い返しやリアクションを可能にする。悔しいが、嫌というほど才能の差を実感した。
「まあでも、ネタ書いとん自分やし。スタンリーがウケるいうことは、自分のネタがおもろいいう証明やろ。役割分担言うん? それでよしとしいや」
「出来るか! 芸人はな、どいつもこいつも自分の力で目の前の人間笑わせることに快感覚えたお笑い
叫んだ瞬間、医者と看護師に取り囲まれた。
「すぐに処置室の準備を!」
「君、アカシャ伯爵から離れなさい!」
「警備員を呼べ! 警察もだ!」
「鎮静剤もってこい!」
中毒者が暴れていると勘違いされたようだ。平謝りして、何とか誤解を解く。迷惑そうな顔して医者や看護師が去っていく。「病院内で騒ぐんじゃない」と釘も刺された。自分達だってスタンリーのネタ見て笑ってたくせに。職務怠慢じゃないか。そして、アトリに気付いて俺に気付かないってどういうことだ。
「くそ!」
「怒りな。・・・せや!」
名案、とアトリが手を叩く。
「そないに欲求不満なんやったら、うちが解消したろか」
・・・・・・・・・・え?
そ、それはもしかして、あれか? 十八歳未満お断りの? 確かにこの一年は、そっち方面は悶々とした日々を過ごしていた。だって一つ屋根の下に好み弩ストライクの美女が一緒に暮らしてんだぜ? しかもたまにパジャマで現れたりするんだぜ? 意外と寝起きの悪い彼女を起こしにいったりもしたんだぜ? たまに寝ぼけて抱きつかれたりもしたんだぜ? どうにかなりそうになったのは一度や二度、ううん、十回や二十回じゃきかない。色々と察しの良いスタンリーが関連書籍ならびに資料DVDを用意してくれてなんとかアトリに襲い掛からずにすんでいた、という背景がある。
それを、解消していただけると!!?
「うちが自分のネタ見たるよ。ほんで死ぬほど笑たる。これで欲求不満も解消やろ?」
あ、そっち・・・ね。
「なんや、その不満そうな、当てが外れたみたいな顔は。嬉しないんか?」
「ソンナコトナイヨ~トテモウレシイネ~」
「・・・あ、もしかして自分、あれか。エロいことの方考えたんか」
察しいいな相変わらず! 察しなくてもいいことまで察するんだから、この女は新人類か何かだ。相手の考えを読む系の。
「やらしいなぁ」
にたにた彼女が笑って茶化す。黙秘だ。ポーカーフェイスだ。これ以上は何を喋っても墓穴になる。
「構へんけどな、うちは」
「・・・・・・マジで?」
後日、アクラクセインに招待した友人が苦笑交じりにこう言った。
「やっぱり、喜劇の方がおもろいやないか」
ただ、妻と関西弁の件で大喧嘩になったことは言うまでもなかった。
Laugh Story 叶 遼太郎 @20_kano_16
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