張禧嬪

@ringonohana

第1話 王妃崩御

「―――王妃様が御危篤だそうよ」

 ひそひそと聞こえる女官の声。これで何度目だろうか。

 ユ尚宮は足をぴたりと止め、声をした方を見やった。

 女官が二人、こちらに気づかない様子で立っている。一人は聞き耳を立て、一人は早足でここに来たのか、息が上がっていた。


 ユ尚宮はため息をつく。

「(迂闊な・・・)」

 噂というものは時に政にも利用される。宮殿の中で広まり、都で広まり、それは最終的に民心としてまた宮殿に――――王室に戻ってくるのだ。


 そして女官というものは噂が好きだ。女官は『王の女』であるから色恋沙汰はご法度、ただ自分や実家のため仕事に明け暮れる日々の中で、噂話程度で鬱積を晴らすことが出来るなら・・・と普段はユ尚宮も寛容な姿勢を示している。

 ただ、今回だけは状況が違った。

「(このようなところまで、話が広がっていようとは)」

 この国の中殿のただならぬ噂―――いや、真実であることを

理解しているからこそ、このように噂好きの女官から広まっていくことを

危惧していた。


「それは確かなの?熱病で倒れられていたのでは?」

「詳しくは分からないわ。ただ―――」

 突然ぱあん、と手を叩く音がし、驚いた女官達は音のほうへ振り返る。

「大王大妃様にお茶のご用意をと言ったであろう」

 ユ尚宮は女官達を睨み付けた。

「も、申し訳ございません。只今・・・」

 その場から足早に去る女官二人の背中を交互に見ながら、ユ尚宮はもう一度ため息をついた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「女官達の間で、すでに噂が広まっております」

 ユ尚宮は言いながら、少し顔を俯けている目の前の女性の顔色を伺う。

 どのような反応が返ってくるかは、おおかた予想がついた。

「愚かな。王妃の心情も知らず…」

 静かに、そしてゆっくりとその落胆の言葉を口にしながら、その人物は顔を上げる。

 一瞬、その眼光がぎらりと光り自分の目を捉えた気がして、今度はユ尚宮が下を俯く。ろうそくの灯火に照らされ、王家の証である龍の簪がぎらりと鈍く光った。


 壮烈大王大妃・趙氏。第16代仁祖の継妃にして、現19代国王・粛宗の曾祖母である。

 南人派であり王室の最長老でもある彼女は、西人派の猛勢と王室の混乱を憂えていた。

「この様子では、西人の間にも伝わっておりましょう」

 ユ尚宮の言葉に、と大王大妃が高笑いする。

「やつらにとっては王妃の病でさえ王室につけいる絶好に機会だからな」

「王妃様が不憫でなりませぬ」

「王妃が崩御すれば、明聖大妃が真っ先に動くのは目に見えておる。いやもう動いているのやも知れぬ。新たな妃候補を西人から選出するために」

「大王大妃様…」

「決してそうはさせぬ。大妃ごときに、朝廷を思うがままにさせておくものか」




 時は1680年、第19代王・粛宗が在位する李氏朝鮮。

 朝廷は南人派と西人派に分かれ、覇権争いの絶えぬ時代であった。

 派閥抗争の発端は、建国の功臣・王族の外戚の後ろ盾などで勢力をつけた派閥「勲旧派」。

その後、対抗勢力として第9代国王・成宗の時代に士林派が誕生する。その士林派から波及したのが東人派、そして「西人派」であった。そして東人派も内部抗争により、北人派、南人派と分裂していき、南人派・西人派は朝廷での権力争いを繰り広げ、王権をも揺るがさんとする勢いを持っている。


 仁敬王妃は粛宗の中殿であった。

 1672年、世子嬪として冊封され、その後仁敬王妃となり二人の子を授かる。

 しかしいずれも王女であり、元々病弱であった仁敬王妃は床に臥すことが多かったうえ、熱病を患い、8年の歳月ではついに王子を授かることなく意識が戻らぬ状態となる。


「大王大妃様。その妃選びの件ですが・・・明聖大妃はミン・ユジュンと結託し事を進めているようです」

 ユ尚宮の言葉に、大王大妃は眉をぴくりと動かす。

「ミン・ユジュンだと?は、西人をまとめる重臣が自ら動くとは」

「なにやら、ミン・ユジュンの娘を継妃として推薦するようなのですが・・・」

「・・・・ほう。名門・閔氏の娘であれば、誰も文句は言うまい。そしてミン・ユジュンは国舅となり、西人は今以上に権威を振るうことだろう。それだけなんとしても阻止せねばならぬ」

「はい」

「ミン・ユジュンの動きを封じるか、あるいは、こちらも・・・・」

 大王大妃は、ユ尚宮をちらりと見やる。

「・・・継妃候補、でございますか」

「そうだ」

 大王大妃の笑みがすっ、と消えた。

「密かに行え。西人にこちらの手の内を知られてはならぬ。私は、王妃の看病に当たる」

「承知致しました」


 ユ尚宮は、振り向きざまに、隣に控えている女官をちらりと見た。

 女官は一礼する。

 歩みを進めながら、頭の中では今まで出会った名門の娘・女官・

様々な女の顔を浮かばせ、

 浮かんでは、消えていく。

「(ミン・ユジュンの娘にも引けをとらぬ、美しさと賢さを兼ね備えた女子・・・・)」

 大王大妃の命とあらば、どのような手段を使ってでも果たさねばならない。南人の命運も懸かっているのだ。

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