将来に不安
さわだ
将来に不安
夏の盛りの午後、外の暑さとは違い古い調度品に囲まれた喫茶店の中は時間が止まっているかのように音が無く、今ではすっかり珍しくなった静寂という言葉がそのまま適用できる空間だった。
様々なフランチャイズのチェーン店や個人がやっている飲食店内によく流れている当たり障りのない音楽もなければ、店長の趣味で固められたCDやレコードを一方的に聞かされることもなく、天井近くの片隅によくある流しっぱなしのテレビもない店内には物音が殆どなかった。
では店内は閑古鳥が鳴く音だけかというとそうではなく、窓際の壁に備え付けられた三つのファミレスなどでよく見かける備え付けのボックス席、その店の一番奥の席には夏服の学生服姿の高校生らしい若者が三人が座っていた。
ファーストフード店でもなく、古い喫茶店に入る学生達はやはり変わっていて、静かに会話無く出された飲み物を口にしていた。
そんな三人組の中でも奥の席に座り窓からの自然光を浴びているから輝いているのか、それともただ整った顔の造形、艶やかな光沢の黒髪を肩に掛けて物憂げな表情で窓の外を見ているその姿が薄暗い喫茶店の中でも輝いて見えた。
若く美しい女性だけが持つオーラのようなものを持っているから美少女と呼ばれるのか?
夏服のシャツも、そこからスラリと伸びる手足の白い肌も光に輝いているように眩しい美しい少女だった。
そんな美しい女の子と同い年だと思われる夏服のシャツを着た対面に座る男の子は強烈な影であった。
何も付けてないボサボサの髪に黒い黒縁眼鏡を掛けた少し小太りだが、しっかりとした肩幅と半袖の夏服のシャツから出た太い腕で小さな文庫本を読み込んでいた。
その隣にはシャツの男と比べて二回り程小さい女の子が座っていた。
本来であれば三人組の中で一番特徴的な、白髪に近い色素の薄い髪と青い眼はまるで人形のようで、まっすぐと前を向いて微笑んでいる。
青い瞳を見れば一目で日本人でない事は分かった。
白い肌は北欧系の血筋を感じさせるのだが、着ている服が典型的な日本の女子高生の姿、夏服の半袖シャツにネクタイ姿に違和感が無いのは肩口で綺麗に切り揃えられた髪型と合わさった可愛らしい外見だからだろうか?
そんな変わった三人組の一人が沈黙を破る。
「ねえ私達の将来って不安じゃない?」
席の奥に座る紛う事なき美少女、甘粕 姫(あまかすひめ)が、ボソリと呟いた。
目の前に座る何をしても不機嫌そうな男の子は何も聞こえてないのか文庫本のページを捲る。
「ちょっとショウ、聞いてるの?」
声を掛けられた白木 正治(しらきしょうじ)が不機嫌そうに姫を一瞥する。
「なんだよじゃますんな」
すぐに正治は本に視線を落とした。
「私の話聞いてるの?」
「聞いてねえよ、俺は本を読んでるんだ」
「ショージは本を読んでるときは滅多な事では反応しないですよ?」
隣に座っていた北欧系の外人の子供、サーシャ・白木は外見とは掛け離れた
流暢な日本語で答えた。
「知ってる」
同意してくれたことが嬉しいのか、サーシャは無邪気に笑った。
孤児として白木家に拾われたサーシャより幼馴染の姫の方が正治よりつき合いは長かった。
正治はいつも本を読んで、目の前の人間とは話しもしょうともしない。
歳を重ねて姫が美しくなって人目を引くようになっても、正治はますます本の世界にのめり込んでいるようだった。
溜息をついて姫はシロップとミルクを沢山入れたアイスコーヒーを口元に運ぶ。
サーシャも吊られるようにアイスの溶け切ったクリームソーダーに口を付けた。
正治の手元のホットコーヒーはとっくに空だった。
「で、何が不安なんだよ?」
「なによ聞こえてたんじゃない……」
「聞きたくなかったけど聞こえたんだ」
不愉快そうに正治は本を机に置いて腕を組む。
見解の相違を訴えているというよりは、ただ面倒臭そうな顔をしていた。
「別に、なんでもないわよ」
正治はフンっと鼻を鳴らしてから再び本を取ろうと手を伸ばして本を掴んだ。
「ちょっとどうして本を読むの?」
本の上に置いた正治の手の上に自分の手を重ねて姫は抗議する。
「なんでもないっていま言ったろ?」
太くて丸い正治の手と細く繊細な姫の手が重なる。
姫に手を重ねられて正治は真っ直ぐ姫の顔を見る。
姫は咄嗟に手を重ねてしまった事に内心慌てて手を引っ込みたかったのだが、なんだか照れているところを正治に見られるのだけは嫌だったので、少しだけ頬を赤くしながら手を退けなかった。
さらにその上に姫よりも小さな手が重ねられる。
「なんだサーシャ?」
「サーシャもです」
三人とも重ねた手をそのままにお互いの顔を覗き込む。
正治はサーシャをサーシャは姫を、姫は正治と顔を見ていた。
「どうするのよ?」
重なった手を見ながら姫は抗議の声を上げる。
「何が?」
「なんだかこういうの見た事ありますね」
「宣誓か?」
「センセイ?」
正治が本に載せている右手とは逆の左手を小さく挙げる。
「こうやって本の上に手を乗せて神に誓う行事だよ」
正治はアメリカの大統領が就任式の時に行う行事だと説明しようと思った。
「ああ結婚式で見ます」
「結婚!?」
慌てて姫が手を引っ込める。
「違いました?」
「ちがわないけど・・・・・・」
手を大事そうに胸元に当てて、姫は少しだけ正治の方を見た。
「結婚式は神父だけじゃなかったか?」
「そうですか?」
「いや、この前の親戚のおばさんの時にサーシャは見たんだろ? 俺は興味ないから覚えてねえけど」
「おばさん綺麗でした」
「まあ二回目の結婚式だったからな、どうに入ってた」
サーシャと正治はついこの前、親に連れられて態々年に一回あうかどうかの親戚の結婚式に行ったのは再婚の結婚式で見栄を張るために大きな式場を借りたので人数合わせのように呼ばれたからだった。
正治は行かないつもりだったが、サーシャが興味があるというので仕方なく付き合った。
「女は結婚式とか好きだよな」
正治は殆どの女性を敵に回す言葉を吐いた。
「別に私は結婚なんて興味無いわよ」
「私もです」
「なんだよサーシャは熱心に見てただろ?」
「ウェディングドレスは綺麗でした」
「サーシャのウェデングドレス姿ってきっと綺麗だろうね」
「そうです?」
「うん、その髪と白いベールがとても似合と思うな」
姫は柔らかい織物のようなサーシャの髪を褒めた。
「ありがとう姫」
「私もサーシャみたいに可愛かったらなあ」
姫は小さいころから大人びていて、小学生の頃はいつも殆どの男子より背が高かった。だから可愛いという風には言われたことが殆ど無かった。
「私は姫みたいな綺麗な人になりたいです」
「ありがとうサーシャ」
窓の外を覗き込んでいた時の大人の女性のような、他人との壁を設けている冷たい表情は子供のように無邪気なサーシャとの会話では流石に表情を崩して年相応の屈託の無い笑顔を見せる。だが姫は微笑んだ後、すぐに眉間に皺を寄せて正治を睨み付け、正治がまた読もうとした本を取り上げた。
「だからなんで本を読むのよ」
「うるせえなあ、俺はここに本を読みに来たんだよ」
本当は喫茶店に入ったのはバイトまでヒマな姫に付き合わされたからだったが、どうしても正治は自分の意思で来たということにしたかったらしい。
「じゃあサーシャは何しに来たの?」
「本を読みに来たショージに付いてきました」
「隣でショウが本読んでるだけなんて面白くないでしょ?」
「面白いです」
「何が面白いの?」
「ショージが本読んでると何だか安心します」
「安心?」
「はい」
「なにが安心するの?」
「私がです」
サーシャは鳶色の瞳を輝かせて答える。
何もおためごかしのようなものは無い、本当に正治が本を読んでいるのを見るのが嬉しいのだろう。
サーシャが白木の家に来てからは、ほとんど毎日親鴨に付いていく子鴨のように健気に正治に付いて行った。
あまりにサーシャが純真すぎるので姫もそれ以上安心する理由は聞けなかった。
サーシャは中央アジアの某国に生まれて、戦争で荒廃した国から難民として正治の父親の手で日本に連れてこられて養子になった。
どんな方法を使えばそんな事が出来るのか姫も、同じ家族になった正治も知らないが、外見はどうみてもヨーロッパ人の、白系ロシア人に見えるのだが、幼くして連れてこられたためか言葉の話し方は完全に日本人で声だけ聞いていたら完全に日本人だ。
「でっなんだって?」
正治がやっと諦めて本を閉じる。
「なにがなんなんだよ?」
「なにってなによ?」
「ッチ」
正治は不機嫌そうに舌打ちする。
特に姫が不快に思わないのは、いつも正治は不機嫌そうに受け答えするからだ。
この時の姫は舌打ちされたことよりも、話しが伝わったことの嬉しさが勝ったくらいだった。
「不安ってなにがだよ?」
姫は背もたれに身体を預け直して腕を組んだ。
「ショウは不安じゃ無いの?」
「何が?」
「将来の事」
「ずいぶんとぼんやりとした不安だな」
将来という未来のとらえ方は人によって様々だが、明日、明後日の事ではないことは正治にも分かっている。
「ショウは不安になった事無いの?」
「無い」
正治はハッキリと言い切った。
「本当に?」
「なるようにしかならないだろ将来の事なんか?」
「そうかも知れないけど」
少し口を尖らして姫は足を振った。
「ほらテレビで色々なニュースいってるじゃない? 地球温暖化とかで将来大変な事になるとか……」
「地球は昔からしょっちゅう気候変動してるから、今に始まったことじゃねえ。人間が排出する温暖化ガスがどうこうよりも、地軸の傾き、後は太平洋海底の熱が貯まり過ぎて大型台風が発生しやすくなってる問題の方が大きいしな。海面上昇なんか人がどうこう出来る問題は沿岸に防波堤を立てるか住まないかどっちかを選択するだけだな」
「結局どういうこと?」
「人がどうこう出来る問題じゃ無い諦めろ」
正治はロジカル(論理的)というよりはラディカル(過激な)に環境問題を切り捨てた。
「じゃあ国の借金が増えすぎて私達の国がダメになるって話しは?」
「確かに赤字国債の乱費は酷いが、まあ殆ど自国民に売ってる国債だから倒れるときは一連託生だから今すぐどうこうは無いだろう、周りが騒ぐけどすぐにどうこうする問題じゃない。それよりも赤字国債を解消しようとすることで止まる医療サービスとかで周りが騒ぎ始めちまうほうが問題だ」
「じゃあ隣の国と戦争するかもって・・・・・・」
「ふん」
今ままでで正治は一番大きく鼻を鳴らした。
「そんな戦争して誰も得しない戦争なんてするかよ、全部言葉遊びじゃねえか! まあ、最後の直接的な戦争から七十年も立てば戦争が始まるって事を言いたくなるヤツは増える」
「本当に戦争は無いの?」
姫はニュースで流れる戦争の準備をしている様に見える世の中の流れを見て不安になっていたのだ。
「昔みたいに国家と国家がメンツで張り合っていた時代なら絶滅戦争もあったかも知れないけど、今の経済優先の時代では国家同士が殴り合うリアルな戦争なんて、地球上でやるには狭すぎる」
「私にはショウが何言ってるか分からないんだけど?」
「ようはヒメが言っているような不安は扶養者が考えたってどうこう出来る話しじゃ無いから気にしてもしょうがねえから気にするなって事だよ」
「今のショウの説明で私が納得すると思う?」
随分と偏った正治の説明にヒメは納得がいかなかった。
「別に納得しろとは言ってねえ」
「もう、すぐにショウは私の事バカにするんだから」
正治の不遜な態度に姫は腹を立てる。
「してねえ」
「今してたでしょ?」
「俺が知っていて、お前が知らないだけだろ?」
「ほら馬鹿にしてる!」
「別にしてねえ」
「私が本読まないからって馬鹿にしてる!」
「別に俺はお前に本を読めなんて言ってねえ」
「どうせ私は頭が悪いわよ」
「そんな事は無いだろう?」
姫は学校の成績も優秀で、テストの点だったら正治よりは全然上だった。
サーシャは特に出来の悪い科目が無く平均点で、国語は優秀だったが英語は苦手だった。
正治は数学と歴史以外は壊滅的な成績だった。
「成績も良いし、顔もいい、胸もデカいお前が将来不安だったら他の人間はどうなるんだよ」
「胸の事は言わなくてもいいでしょ!」
姫は胸元を抑えながら正治に抗議する。
サーシャは自分の胸と姫の胸元を何度も見て比べていた。
「まあお前みたいに周りから自然に好意を寄せられる人間が不安だなんだって言ったって誰も白けるだけだぞ?」
「別にそんな事ないわよ、めんどくさい事ばっかりよ」
姫は抗議のために前に身を乗り出して机に片肘を付いて不満を露わにする。
「でもお前の周りには自然に人が寄ってくるだろう? それは誰もが出来る事じゃ無い。そういうチヤホヤされる事に縁の無い人間が最後のカルマ(業)である承認欲求を満たそうとして奇功に走るんだぞ?」
「なによまるで私が悪いみたいじゃない?」
姫ほど美人であることを非難されている人間はそう居ないだろうと思わせるくらい正治の指摘は辛辣だった。
「恵まれている事を悪いとは言ってないだろ?」
「そういう風に聞こえる」
「じゃあ嫉妬してると思ってくれれば結構だ」
「ショウは人に嫉妬したことあったの?」
腕を組んで正治は考えた。
「無いな」
「どうしてそこまで他人に無関心で居られるのよ!」
「いいじゃねえかその方がメンドクサイ事がなくていいだろ?」
「人との係わりをメンドクサイで済ませるなんて寂しくないの?」
「なんで怒ってるんだよ?」
「怒ってないわよ!」
姫の美しい顔は薄く赤味を帯びていて、さっきまで窓を覗いていた物憂げな表情とは別人のようだった、もちろん正治の馬鹿にした話し方に煽られている部分は勿論あるが、女子高生の年代に見られる抑圧する事の無い剥き出しの感情を示していた。
「ショージはめんどくさがりですから、人に何かやって貰おうと思った事ないんです」
サーシャがゆっくりと口を開いた。
「他人に期待しない生き方は楽で良いぞ?」
「やだ、そんなの寂しい」
ヒメは上目遣いで正治の方を見る。
姫は少し泣きそうにも見えた。
その時サーシャが左手の肘で姫に見えないように正治の脇を突いた。
「なんだよ?」
サーシャは正治の方は向かずに姫の方を見ていた。
正治の目の前にはすっかり子供っぽく拗ねる姫が居た。いつもは学校では大人びた姿から遠巻きに見られることが多いのに、正治の前では年相応の女の子らしく感情を起伏させる。こんな姿を姫が見せるのは正治しか居ない事に正治も本人も気がついてはいなかった。
正治はめんどくさそうに口を開いた。
「お前、芥川龍之介って知ってるか?」
「知ってるわよ、賞の人でしょ?」
「別に芥川龍之介が作った賞じゃねえけど、まあそうだあの芥川賞の名前になってる明治の文豪芥川龍之介が自殺の動機に残した言葉が「僕の将来に対するただぼんやりした不安」って言葉がある」
「ぼんやりとした不安?」
ぼんやりという言葉は文豪と呼ばれる人の言葉とは思えない軽い言葉だと姫は思った。
「ぼんやりっていう言葉の意味は対象の物体がはっきりと識別できない。カメラで言うところのピントが合ってないって事だ。そんなハッキリとしないものが周りに溢れているように、厭世的な不安に囚われた芥川が残した「ぼんやりとした不安」って言うのは確かに誰にでもあるんだ、それは凄い文学者でも凄くない高校生でもきっとな」
「じゃあどうするの?」
「だから道は二つだろ?」
正治は出来の悪い生徒に答えを教える先生のような哀れみの表情で姫を見つめる。
「自殺するか生きるかだ」
「なんでそんな極端なの……」
「違うか? 生きてるウチに使えるのは命だけだ、命だけはスポーツや勉強に才能があるヤツ、顔が綺麗な奴、親が金持ちな奴、貧乏な奴も命は一つだけだ。その一つしか無い命を使ってみんなこの地球上で生存ゲームをしている。それがこの世界で誰もが逃げられない事実だ」
正治の言うこの世界にある平等は命は一人に一つしかないと言う部分だった、それ以外は不平等すぎると言った。
「命を大事にするのも、捨てるのも自由さ」
「ショウは私に死んで欲しいの?」
「なんでそう解釈するんだよ?」
「だってそんな話しをしなくても良いじゃない・・・・・・」
「ショージの話しはいつも極端で結論だけしかないですから」
「だって相談って事は結論を聞きたいんだろ?」
正治は不思議そうにサーシャの顔を覗いた。
「ショージは本当に面倒くさがりやさんです」
「そうよ本当に相談しがいがないんだから・・・・・・」
二人の女の子に避難され正治はこれだから女の回りくどい話は分からないと腹が立った。
「じゃあ、俺じゃなくて将来の不安に押しつぶされることもなく、現実をしっかり生きてる人に聞けよ」
「誰よそんな人?」
「そこに居るじゃねえか」
正治がサーシャの前に腕を出して喫茶店のバーカウンターを指さす。
そこには下を向いて手を動かしてない、一人の女性が厨房の奥に座っていた。
「高咲さん?」
座っている女性は若く、姫やサーシャと違って薄いながらも赤い唇、濃い睫毛と化粧していて大人な女性だった。
俯く姿はどこか思慮深さを思わせるのは顔が良いからだろうか?
だが彼女は何も考えて無かった。この喫茶店の店主である高咲香織(たかさきかおり)は下を向いて寝ていた。
「高咲さん」
「えっ?」
「寝てたの?」
「寝てないわよ?」
高咲さんは姫の問いに手を振って応えた。
「寝てただろ?」
「白木くん寝てないわ」
正治の問いに今度は高咲さんは首を振った。
「寝てました」
「御免なさい、ちょっと昨日夜遅くまでテレビ見てたから今日は眠たくて」
高咲さんはサーシャの問いにはあっさり仕事中に寝ていた事実を認めた。
「御免なさい」
客である高校生達より大人である筈の高咲さんは深く頭を垂れた。
「高咲さんがしっかり現実を生きてるの?」
「まあな」
明らかに正治は間違ったと後悔しているようで、肘を付いて頭を抱えた。
「どうしたの?」
「高咲さんって将来が不安だなあって考えた事あります?」
「えっ将来?」
「そうです」
寝ていた高咲さんには姫の唐突な質問に意図を捉えられていなかった。ただ正治にサーシャまでもが期待を込めた目を向けていて答えを待っているようだった。
なぜそんなに期待されているのか寝ていた高咲さんはまったく分からない。
「そうね将来不安だなあって思った事は・・・・・・」
長い睫毛が重そうな瞳、高咲さんはいつも何か物憂げな瞳をしている。
「うーん、あったような無かったような・・・・・・」
頬に指を当てる姿が子供っぽく見えたのだが誰も不思議に思わない。
「あっ」
何か嬉しいことがあった様に高咲さんは顔の前で手を叩いた。
「大概の不安は夜にお酒飲むと忘れるわね」
子供のような笑顔で高咲さんが大人の不安の解決方法を言うのでまだ未成年の三人には言葉は響かなかった。
「じゃあ、お酒飲む前はどうしてたんですか?」
「うーん早く寝てたかしら?」
「ちょっとショウ、この生き方は参考にならないじゃないの?」
「まあ未成年にはな」
顔を近づけてきた姫に正治は無愛想に応えた。
「だが流石だ、不安に対する最高の答えを持ってる」
「お酒飲んで寝ることが不安解消ってそれが正しいの?」
「解決できない問題から目を反らすって言うのは正しい方法だ。人間は手の届かないものを掴むために道具を使うが、道具がなくても届くのかどうかを永遠と悩んでしまう動物なんだよ、だから諦められる奴の方が生きるのに向いてるんだ」
「そんなだらしない態度で良いワケ?」
「努力を否定してる分けじゃない。ただ努力できるのも結局才能なんだよ、誰でも努力できるっていうのは幻想じゃなければ努力してみんなが立派に暮らしていけるだろ?」
「白木くん私のこと誉めてくれてるのかしら?」
「誉めてますよ、裸一貫でお金を稼ぎ店を構えるまでになったんだから立派な産業資本家じゃないですか」
「別に裸じゃないわ、水着は着てたわね」
高咲さんは若い頃はグラビアアイドルとしてそこそこ名の知れたタレントだった。
だが二十代後半で引退すると貯めたお金でこの喫茶店を始めた。
今でも偶に当時の事を知る人間が訪れては高咲さんの出す普通のコーヒーを飲みながら感動して泣いていく客を見ることがある。
「高咲さんって本当に将来不安になったりしないんですか?」
姫は不思議そうに高咲さんを見る。
「そうねえ、まあ、今までなんとかなったから、明日もなんとかなるのかなって思ってるけど?」
高咲さんの考え方は楽天的というか退廃的というか、酷く曖昧な考え方だった。
「私、昔から考えるのが苦手なのよね。昔お母さんに「あんたは考えてるように見えて何も考えて無いのがばれるから、適当に笑いながら返事してたら顔が良いから大抵の人はそれで優しくしてくれるわよ」って言われた事があるわ」
「だから姫も見てくれは良いんだから、適当に笑ってれば高咲さんの様なりっぱな大人になれるぞ」
「ああ、もう皆で私の事馬鹿にして!」
「私もですか?」
「サーシャちゃんは私の味方よね」
「はい」
サーシャの無邪気な笑顔に心を癒された姫は両手を伸ばしてサーシャに握手を求める。
「サーシャちゃんは将来の不安とかってないの?」
「はい、ありません」
何も迷わずにサーシャは不安は無いと言った。
「本当に?」
「はい、本当です」
流石の姫もサーシャの眩しさに目が眩みそうだった。
「嘘くせえけど本当なんだろうな」
隣で正治がフンと鼻を鳴らす。
「コイツには不安はないんだろうな」
「どうしてそう言い切れるの?」
「サーシャはなにも持ってないからな」
ゆっくりとサーシャは正治の方を向く。
もちろん正治はサーシャの方を向いて話さないし、姫とも目線を合わせない。
「不安っていうのは今持ってるモノが失われるかもしれないと考えるから不安になるんだ、だから何も持ってないサーシャが不安になる筈がないさ」
姫はサーシャの手を握りながらこの外国から来た女の子の事を考えた。
サーシャは言ってしまえば戦争孤児だ。
国境紛争地帯で白系ロシア人の入植した村が「消滅」した事件の唯一の生き残りだ。
取材中だったジャーナリストの白木の父親が保護を申し出て日本にやって来た。
どんな手を使ったかは白木の父は一言も喋らないが、サーシャには日本国籍もあり、白木の家の子供として暮らしている。
父も母も故郷と呼べるモノは何一つサーシャには無かった。
それを今同じ家で家族として暮らしてる白木が何も無いというのは冷たいと姫は思いながらも、同じ家に住んでるからサーシャが親も家も居ない環境で過ごしてきたのを見てきてるからそんな事を言えるのだろうか。
「どうしたんですか姫?」
「えっ、ううん何でもない・・・・・・ごめんなさい」
「謝ってもしょうがないだろう?」
「だってなんだか・・・・・・いや、私が悪いわよね」
「なにがですか?」
サーシャはキョトンとしながら、正治と姫の顔を見る。
「私も不安になる事あります」
「あるのか?」
正治が振り向くとサーシャは待っていたように瞳を輝かせる。
「日本の将来とか?」
「違います」
「戦争か?」
「うーんそういうのは不安ではないです、どうしようもない事です」
姫や正治の質問にもサーシャはハッキリと答えた。
この喫茶店の中でサーシャが外見的には一番「子供」に近いのだが、断言する力に満ちた声はどこか大人の雰囲気を漂わせた。
「じゃあ何が不安なんだ?」
姫が机に乗り出してサーシャの顔を覗き込む。
正治も腕を組みながら、指でシャツの袖を忙しなく叩いているのは彼にしては珍しく動揺しているのかだろうか?
サーシャは再び笑う。
「秘密です」
「なんだそれ」
「えー気になるよサーシャが不安になる事ってー」
「ダメです、これだけは姫にもショージにも秘密です」
「どうして?」
「うーん、多分私にしかない不安なので、だから、秘密です」
悪戯っぽく笑うサーシャの顔を見た後、姫と正治は顔を合わせて小さく溜息をつく。
「じゃあそろそろバイトの時間だから行くね」
「勝手に行けば良いだろ?」
「ショウに言ったんじゃないの、サーシャに言ったの」
机を軽く叩いて姫は席を立った。
「姫さん、行ってらっしゃいです」
「ありがとうサーシャ、またお話しようね」
「はい!」
姫には少しサーシャが無理して元気に振る舞っているようにも見えたが、何か声を掛けるような事はしなかった。
そう、また話せば良いのだ。
まだ時間はあるのだから、自分の不安、サーシャの不安も、隣に座るいつも不機嫌そうな男にも不安はあるのだろう。
姫は席を立つ時、一瞬名残惜しい感じがした。
「ヒメ」
正治に呼び止められるとは思わなかったので姫は返事が出来なかった。
「お前は頭も顔も良いから考え過ぎなんだよ、気楽にやれ」
「顔は関係ないでしょ?」
姫は言葉尻に少し語気を強めたが、正治の反論はなかった。
もしかしたら正治が気を使ったのかも知れないが、普段使い慣れてない気を使ったものだから言葉が続かなかった。
その事に気がついた姫は思わず噴き出して笑いそうになったが、気分が良くなったので我慢した。
「はい高咲さん」
「ありがとう姫ちゃん」
カウンターの奥の高咲さんに姫はコーヒー代を渡した。
「じゃあね付き合ってくれてありがと」
「別に俺はコーヒーが飲みたかっただけだ」
態々コーヒー飲みたいからって、駅前のスタバに行かずにこんな古い喫茶店に来るのかしら?っと高咲さんは思ったが、流石に口にしなかった。
「だからショウには言ってない」
「俺もお前に言ってない」
子供っぽく言い合ってから、フンっと姫も鼻を鳴らして腹を立てながら扉を開けると、備え付けたベルが鳴ったあと乱暴にバタンと扉が閉まった。
「サーシャ俺たちも出るか?」
「はい」
脇に置いてあった鞄を取って二人とも席を立つ。
「高咲さんお代」
正治は学生服の黒いズボンのポケットからそのままお代を出す。
「はいどうも」
「ご馳走様でした」
サーシャは鞄の中から財布を取り出して小銭を高咲さんに渡した。
「ありがとうサーシャちゃん」
「晩ご飯買いに行くか?」
「はい」
正治の母親はサーシャが家に来る前に亡くなっていた。
それまではお婆ちゃんが面倒を見てくれたが、去年の夏に亡くなったので今は仕事で家を空けている時間が多い父親を覗いてサーシャと正治の二人で生活をしている。
「あっ高咲さん」
「なあに正治くん?」
「この店どうして開こうと思ったんですか?」
「あー私は誰かと一緒に仕事するの苦手だし、でも一人で居るのも好きじゃないからこの一人でできて、いろんな人と会えるこの仕事が良いのかなって思っただけよ?」
「それでこんなボロ臭いお店を?」
古い喫茶店は老夫婦がやっていた店だったが、体を壊したので高咲さんが引き取ってやっている。
だから店内の内装は古いままだった。
高咲さんはそれを気に入っていたし、改装代も勿体ないと思ったので丁度よかった。
「私はあまり最近の白っぽいお店好きじゃないのよ、掃除大変そうだしね」
フフっと笑う高咲さんはどこか艶っぽく、そういう事には鈍感な正治も動揺した。
高咲さんだったら夜お酒を出す店をやった方が流行る様な気がしたが、確か前に来たときには夜は眠くなると言っていた。
折角の美人が勿体ないが、美人には美人の悩みがあるのは姫を見ていて知っている。
正治には一生理解できない類の悩みだった。
「じゃあ帰ります」
「また来てね」
「来ます」
手を振る高咲さんにサーシャも手を振り返す。
二人とも店の入り口の前に立つ、正治がドアに手を掛けると後を振り返ってサーシャの顔を見た。
サーシャは笑ってなかった。
「どうした?」
「なんでもないです」
「そうか」
正治は何も聞かずにドアを開けた。
外は眩しくて夏の光に満ちていた。
少しくらかった喫茶店の中とは大違いの世界で、車も人も忙しなく動いていた。
サーシャの不安。
それは扉を開けるときの一瞬だった。
サーシャは時々扉を開けるのが怖かった。
扉を開けた瞬間、目の前の景色が自分が安らかに過ごせる世界が無くなっているのかも知れないと。
サーシャは扉やドアが怖いなんて、酷く妄想染みた考えだと思ったので正治にも姫にも言わなかったのだ。
だが戦争孤児のサーシャは知っていた。扉を開けるとそこには昨日の日常が破壊された世界が広がっている可能性があること。
そんな事を考えているなんて誰にも言えなかった。
それは今、自分が住んでいる日本では全く有り得ない話しだからだ。
「なあサーシャ?」
「はい」
「今日はカレーか?」
「肉じゃがです」
ああそうかと特に喜ぶわけでも悲しむ分けでもなく、スタスタと正治が歩いて行くのでサーシャもその後に続いた。
「将来の不安・・・・・・」
誰も居なくなった店内で高咲さんは独り言を呟いた。
まだ未来がたくさん残っている子供達の不安は勿論高咲さん自身が「子供」だった頃にもあったものだ。
いつしか無くした純粋な不安、それは経済的にも身体的にも根付かない、ぼんやりとした不安。
「まあこの状況は将来が不安になるわよね」
昼下がりとはいえ、客一人居ない店内を見渡して高咲さんはふと不安になった。
けど高咲さんは大人なのですぐに考えるのを止めて、三人分のコップを洗う手を動かした。
END
将来に不安 さわだ @sawada
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