二年生(6)

 ――俺、前みたいに朝はきちんと自分で起きられるようにしたいんだ。

 ――きっと恩田に頼りたくないって思ってんだよ。恋人だからねえ。


 納得したわけではなかったけれど、言いたいことはわかった。わかった上で「そのままのお前が好きだよ」と言った。けれど、それは塚原の望みとは違っていた。

 ――お前がおはようって言うのにおはようって返せるくらいにはなりたい。


 だから恩田は、いつもより遅い時間に塚原の部屋を訪ねた。そして、目覚まし時計を二つ抱えてカーペットで眠る彼の姿を認めたのだった。

 いつもと同じ、あどけなく、いとしい寝顔。恩田にとっては侵し難い。けれどそれを許されているのは自分だけだという優越感もある。傍に膝をついて、彼の髪を撫でる。じわじわと胸の中に広がる思いがあった。

 本当に、お前のことを情けないなんて思ったことは一度もないよ。

 世間の人々にとっては大した話ではない。どうでもいい、取るに足らないこと。けれどそれは塚原にとっては無視できない問題だった。自分の力で解決しなければならない問題だった。恩田の隣にいたいと思うなら。

 馬鹿だな。

 自分の恋人は、真面目で一途。そんなところも、好きだから。



 文化祭はまずまず盛況だった。近隣住民や、同じ街にある女子校の生徒、生徒の父兄、卒業生などが毎年やってくる。昨日聞いたところでは、甲斐の恋人も遊びに来るらしい。昨日夕食のときにうれしそうに語っていた。

「俺も挨拶行っときたいな」

塚原がそう言うと、甲斐は大きく頷いた。

「午前中は二人で校内回って、俺がシフト入る時間はずっとうちのクラスにいるって言ってたから、いつでもおいでよ。塚原たちは一緒に回るんだっけ」

「お互いシフト合わせて、昼一時から」恩田が口を挟む。

「じゃあ大丈夫だね」

「そういや、松谷はどうすんの」

何気なく訊いたところ、本人は携帯電話を操作しながら「んー」と気の無い返事をしただけだった。放っておいてほしいのだろうと解釈し、それ以上は訊かないでおいた。

 十一時くらいから少しずつ人がやってくるようになる。初めはわたあめもそれなりに買ってくれる人がいたけれど、十二時を過ぎた辺りから客足は途切れ始めた。たこ焼きを買いにくる人が大半だ。時折クラスメイトが小さな子供の手を引いて「この子わたあめ欲しいってー!」とやってくることもあったけれど。

 そろそろシフト交代の時間だな、と塚原が教室の時計に目をやったとき。

「おい」

聞き慣れた声に顔を戻すと、そこには松谷がいた。いつも通り愛想のない表情だったけれど、塚原は何か一瞬違和感を覚えた。――何だろう。

「おう。あ、わたあめ買ってく? 昼飯だったらたこ焼きがいいか。ちょっと時間かかるけど」

とりあえずいつも通り話をする。松谷のことだ、誰かと自由時間に校内を回るなんてこともせず、甲斐のクラスの喫茶店辺りでのんびり携帯ゲームでもしているのかと思っていたけれど。

「――あー、わたあめでいい。二つ」

居心地悪そうに首の後ろをかきつつ、そう言う。先ほどの違和感がさらに強まる。戸惑っている? あの松谷が?

 不審に思いながらも代金を受け取る。手早くざらめを用意しわたあめを二つ作り上げ、手渡す。その間、松谷は無言だった。表情も変わらない。

「……誰かと回ってんの」

「うん、まあ」

とりあえず話しかけると、それだけを言ってさっさと教室のドアから出て行こうとする。塚原は慌てて追いかけた。あの松谷が、わたあめ……甘いものを買ってやるような相手と文化祭を回っているなんて!

「おい、松谷!」

 ドアから顔を出した塚原の目に飛び込んできたのは、柔らかなショートカットの髪をした女性の姿だった。爽やかな白いシャツに、マスタード色のワイドパンツ。華やかさはないけれど整った顔立ちが洗練さを感じさせる。透き通った茶色の目に見つめられて、心臓が跳ねた。頰が熱くなる。

「まつっ……」

隣の松谷を見上げる。彼は鋭い眼光でこちらを睨んだかと思うと、半ば呆れたような顔でため息をついた。

「……だから嫌だっつったんだよ」

「いいじゃん。一回会ってみたかったし」

松谷からわたあめを受け取り、その女性はくすっと笑った。それだけで周囲に爽やかな風が吹くようだった。松谷は早々に何かを諦めたらしく、肩をすくめて紹介した。

「こいつが塚原。同じ寮生で、陸上部。で、こっちは定家(さだいえ)。俺の中学の同級生」

「へ……え……」

 色々な驚きで塚原はろくに返事もできなかった。松谷が文化祭に女子を連れてくることにも驚いたけれど、定家という子の美しさにも驚かされていた。同級生とは思えない。ただそういう意味で言えば、松谷と並んでいても全く違和感がなかった。二人揃って大人っぽく、背も高い。どうかすると、彼女の身長は塚原と同じくらいかもしれない。

「初めまして。定家すみれです」

「あ、はい……塚原由太といいます」

真っ赤な顔のまま、応じて頭を下げる。彼女がこの学校の近くの女子校の生徒であることとか、このクラスは縁日なんだね、などと二言三言塚原と会話を交わし、彼女は柔らかく笑った。

「鉢巻、いいね。縁日らしい」

「あっ、ありがとう」そう言われて思わず頭に手が伸びる。かえって恥ずかしい思いは増した。

 松谷が彼女を促し、二人は人が行き交う廊下を去って行った。いつの間にか後ろに集まっていたクラスメイトたちが、遅ればせながらほおお、と声を出した。

「あれ誰? どこの誰? 松谷の彼女?」

「いや……俺もわかんねえ」

 彼らの質問に塚原は上の空で答えた。視線はまだ二人の背中を追っている。

 ――松谷と定家さんは恋人なの?

 そう訊くのは躊躇われたのだ。あんな風に洗練された女性に対して不躾な質問をするのは気が引けた。それに訊いてしまったら何となく、二人の間の何かに水を差すような気がして。

 付き合ってんのかなあ。それともこれから告白とかすんのかなあ。

 とりあえず今夜寮に戻ったら問い詰めようと塚原は誓った。思い切りからかってやろう。どんな言い訳をするのか見物だ。ばっさり一言で切り捨てられるかもしれないけれど。



 クラスメイトたちと松谷の件で色々と盛り上がっているうちに、気がついたら昼の一時をとっくに過ぎていた。塚原は慌てて係を交代し、人通りの多い校内をすり抜けて約束の昇降口へ向かった。


 ――なんと今日は驚くことばかりだ。


 階段を駆け下り、廊下を曲がって。たどり着いた昇降口には、約束通り恩田が待っていたのだけれど、その隣によく知った女性の姿があったのだ。

「由太!」

「母さん?」

 生徒や外来者が多く行き交う下駄箱の向こう側。塚原の母親が立っていた。

 余所行きのワンピースに、かかとの高い靴を履いている。ややぎこちない笑顔を浮かべる恩田の横で、母はいつもと変わらない声と表情で息子を呼んだ。

 今年の正月に実家に帰って以来、ちょうど半年ぶりに見る母親の姿。あまりに驚いたので、塚原は二人をそれぞれ凝視してその場で固まってしまった。見慣れた場に、見慣れた人物が立っているはずなのに、あまりにもちぐはぐだ。見かねた恩田が近寄ってきて、小声で説明する。

「さっき、すぐそこで偶然会ったんだよ。由太のクラスの企画がどこかわからなかったみたいで、俺、声かけられて。本当偶然で俺もびっくりしたんだけどさ」

「は? 声?」

眉根を寄せて視線を恩田へ移す。彼はこくりとうなずいた。

「たまたま声かけられたの。二年四組の教室に行きたいっていうから」

「え、で、連れてったのかよ」

数メートル離れた先の母親を指差してそう訊くと、恩田は即座にその指を下ろさせた。「こら。いや、もうお前と待ち合わせだったから、そのこと話して、一緒に本人を待っときましょうって」

「はあぁ?」

驚きの声を上げた塚原に、恩田はさらに声を低め、両手を合わせて拝むように顔の前に持ってきた。

「あとごめん。俺、知らなかったんだけど、お前に謝らなきゃいけないことが――」

「もう、そんな迷惑そうな顔しなくったっていいじゃないの」

 恩田の言葉がまだ終わらないうちに、母の方が歩み寄ってきた。途端に彼は背筋を伸ばして言葉を切る。ようやく驚きから這い上がった塚原は、頭をかいた。

「いや、別に迷惑ってわけじゃないけど。来るなら言ってよ」

「行くって言ったら来なくていいって言うじゃない」

 その通りだ。思わず塚原は目を逸らした。

「……そんなすごいもんとかないからさ」

「すごいすごくないの問題じゃないの。息子の姿を見に来るの。だいたい、文化祭の日程も何も教えてくれないんだから。去年、後から聞いてお母さんびっくりしたのよ」ふう、と大きなため息をついた後、母は急に弾かれたように顔を上げた。「……あ、違う! そうじゃないのよ。それより由太、あなた寮で一人部屋なんですって?」

「え」

 塚原は目を剥いた。それは入学以来、両親に黙っていたことだった。はっとして隣を見ると、恩田の申し訳なさそうな顔があった。口の動きだけでごめんと言っている。

「ここにいる恩田くんが教えてくれたのよ。基本二人一部屋って聞いてたから恩田くんがルームメイトなのかと思って。そしたら一人部屋って……。あなた、そんなんで大丈夫なの?」

母親に詰め寄られ、塚原は思わずのけぞった。

「いや、それはたまたま人数の関係で……」

「毎朝ちゃんと起きれてるの? 学校遅刻したりしてないわよね?」

塚原の返事も聞かず、まくし立てる母に対していらだちを覚える。日々自分が感じている引け目を、こうも容赦なくあげつらわれて愉快な気分になれるわけがない。相手が自分を心配しているのだとしても。

「ちょっと待って、」

「いくら成績が良くったって、大学入試のときは内申だって大切なんでしょう。起きられないならお母さんが朝電話かけてあげるから! それかもっときちんと起きられるような……」

「いや、いいってそんなの」

母の声が強くなるにつれ、塚原の声は小さくなった。人前で親と口論をしている自分に気づいたのだ。人が多く行き交う昇降口で、尖った母の口調は人目を引く。これではまるきり親を煙たがる反抗期の子供だ。恩田の手前もある。塚原は募るいらだちを抑えながら、どうしたら母が黙ってくれるかといらいらと考えた。

「いいってあなたは言うけどね。そういうわけにはいかないのよ。由太、あなたまさか、恩田くんとか他の子たちに迷惑かけてるんじゃないでしょうね?」

 その一言が、塚原の思考にひびを入れた。

「いい加減に――」

「あの」

 叫び声になる寸前の塚原を、恩田が遮った。固く握り締めたこぶしを押さえる手を感じる。

「あの、由太くんは大丈夫です」

恩田の声は、かなりぎこちなかった。塚原の母親が驚いて彼を見直した。

「えっと……?」

「確かに朝起きるのが遅くなるときもあります。けど今、色々頑張ってて。目覚まし二つかけたり、寝る時間早めたり。ストレッチしたり……色々。ちょっとずつですけど、起きられるようになってきてます」

 そこで言葉が途切れる。塚原の母親は心から申し訳なさそうに眉根を寄せて恩田を見つめた。

「……やっぱりご迷惑をおかけしてるのね」

恩田は首を左右に振った。

「いえ、あの……。俺も由太くんに色々助けてもらうことがありますし、迷惑だなんて思ったことないです。寮母さんからも、みんな誰でもお互い様だっていつも言われてますし」

ごくりと唾を飲み下して、恩田は続けた。

「だから大丈夫です。……大丈夫、だと思います。由太、真面目だし。だらしないやつじゃないって、俺もみんなも、わかってますから」

「はあ……」

母親は目を丸くして恩田を凝視する。思わぬ人物からの思わぬ言葉に調子を狂わされた様子だった。けれど、次第に表情が和らいでゆく。

 塚原から見た恩田の横顔は、赤くなっていた。それでも、彼の表情はただ真剣で。それを見ているうちに、塚原の胸の内に何かわからない新しい感情がじわじわと沁みてゆくのを感じた。

「……そうなのね」

校内のざわめきが耳によみがえるようになったころ。やがて、母はふっと笑った。

「毎日一緒にいる恩田くんがそう言うのなら、きっと……大丈夫なのね」

微かな笑みが、少しずつ優しく広がっていくようだった。

「…………」

「ありがとう。由太を気にかけてくれて。色々手間をかけさせてしまっていてごめんなさい。こんな子だけど、よかったらこれからも仲良くしてくれるとうれしいわ」

「はい。こちらこそ」

柔らかな笑みをたたえた母が頭を下げると、恩田もうれしそうに笑って同じように頭を下げる。塚原はよくわからない新たな心地に戸惑いながら、何も言えずに二人を見守るしかなかった。



 文化祭は夕方四時に終了した。すぐに片付け作業ののち、下校時間となる。あっという間の一日だ。塚原と恩田は、その後塚原の母親を連れて校内を回った。最初にあのような会話があったせいなのかどうか、塚原の母親は恩田を気に入ったようで、自分の息子を余所に恩田とばかり話をしていた。

「恩田くんみたいに立派なお友達、大事にしなきゃだめよ」

「わかってるよ」

口を尖らせて塚原は答えた。どう頑張っても母相手では常に劣勢となるので、せめて言葉数を少なくするしかない。

「そういえば恩田くん、ご両親はいらしてるの」

「父が出張中なので今年は来ないみたいです。去年は二人で来てましたけど」

「そう。お忙しいのね」

母は帰り際、恩田へ丁寧に別れの挨拶をし、塚原へは小言を残すのを忘れなかった。

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