二年生(5)

 塚原のよく眠る努力も、きちんと起きる努力も、大した成果につながらないまま日々は過ぎ、文化祭開催日二日前となった。ここまでくれば部活動も休みだ。授業も午前中までとなり、後はひたすら準備に追われることとなる。

「店の配置はこれで決定な。めんどくさいから特別な理由がない限り変更は認めん」

 寮長が黒板に書いた配置図を示す。塚原のクラスでも、教室内であちこち輪を作って準備を進めていた。縁日なので店ごとの班に分かれる。お面、わたあめ、かき氷、たこ焼き、ラムネ、金魚すくい(折り紙で作った魚だ)、射的(割り箸と輪ゴムで作る鉄砲だ)……食べ物については材料と容器さえ揃えば後は試作するくらいで十分だけれど、お面の作成や射的用の鉄砲作り、店の設営には時間がかかる。当然、店の配置から看板まで全て自分たちで考えて作るのだ。

 塚原はわたあめ班だ。クラスメイトの実家にあるというわたあめ機が届くまでできることはないので、看板のデザインを数人と考えていた。

「おい寮組ー」

豆電球をつなげている輪の中の一人が、振り向いて尋ねた。

「なに」と代表して寮長が応じる。彼はそれぞれの商品の価格を考えていた。

「寮にクーラーボックスとかねえの? ラムネ、冷やした状態で置いときたいじゃん。かき氷の氷と一緒に入れれば冷えるし」

「あー、たこ焼きのタコとか卵も冷やしたいでーす」

別の輪で作業していたたこ焼き班のクラスメイトが口を挟む。それを聞き咎めた塚原ははっとして寮長を見ると、彼もこっちを見ていた。二人とも同じ表情をしていた。

「やばい、クーラーボックス押さえてない……!」

同時に叫ぶ。塚原は鉛筆を放り出して駆け出した。「陸上部、頼む!」と寮長の声が追いかける。

 寮にある様々な備品や家庭用品は文化祭では重宝するものばかりだ。調理器具は家庭科調理室から借りることができるけれど、ドライヤー、クーラーボックス、給水器、バーベーキューセット、ホットプレートなどは寮にしかない。その昔、ラウンジにあるソファを借り出そうとした強者もいたらしい。ただし、当然ながら数は限られる。その際は早い者勝ちだ。暗黙の了解で、文化祭二日前の最終授業終了後から確保可能とされている。もう二時間も前だ。

 寮に駆け込む。靴を脱ぎ捨てスリッパも履かず物置部屋へ急いだ。数人の寮生が入り口をのぞき込んでいる。そこへ見知った顔を見つけて塚原は叫んだ。

「おい、クーラーボックス、クーラーボックスあるか!」

「塚原先輩」

 例の打たれ強い陸上部の後輩だった。体を折り曲げて息を整える塚原をきょとんとした顔で見下ろし、意外そうな声をあげた。

「え、クーラーボックスとかあるんすか」

「……二つあるはずなんだけどな」

「それらしいのはなかったですけど……」

近くにいた彼のクラスメイトらしき寮生がおずおずと教えてくれる。ありがとう、と礼を言い、物置部屋の中を物色してみる。

 文化祭の準備は、大掛かりな制作物などでない限り、基本的にこの二日間(正確には一日半)のうちに行うのが通常だ。それまでは部活も授業もきっちりあり、話し合いの回数も高が知れている。どこも消極的な姿勢のクラスメイトを巻き込んで出し物を決め、その規模、スケール感をまとめるくらいがせいぜいなのだ。必要な備品などは今日からピックアップするクラスが大半だろう。しかし文化祭に積極的な生徒が多く抜け目のない寮生がいるクラスなどは、あらかじめ寮の備品で押さえるべきものを先に考えておき、最終授業終了と同時に動いたのだ。クーラーボックスなんて人気の品は、真っ先に借り出されたに違いない。

 寮長の悔しがる顔が容易に想像された。「俺としたことが」と歯ぎしりして呻くことだろう。保管されている備品に埋もれながら棚の奥まで物色するが、他にめぼしいものは見つからない。小さなビニールプールくらいだ。一体いつ誰が持ち込んだものかわからないけれど、とりあえずこれは金魚すくいに使えるだろう。

「クーラーボックス、いいなあ。俺んとこも欲しかったっす」

塚原の背後で、後輩が残念そうに言った。

「お前んとこ何やんの」

「巨大壁画です。卵の殻に色塗って貼ってくの」

「……使わねえだろクーラーボックスなんか」

ペットボトル冷やしとくんすよ、外でやってるから結構過酷なんすよ、とぼやく彼に適当に返事を返し、塚原は畳まれたビニールプールを手に物置部屋を出た。急いで寮長に報告し、手配しなければ。

 知らせを聞いた寮長は、塚原の想像通り歯ぎしりして悔しがり……はしなかった。苦笑いで塚原の肩をぽんと叩く。

「悪い、塚原。走らせたな。つーかそれなに」

「え、ああ、ビニールプール。金魚すくいに使えるかなって」

「でかした」

にやりと満足そうに歯を見せて笑う。「金魚班ー! ビニールプール使うだろー」と早速係の生徒を集め、引き渡した。塚原は慌てて寮長を呼び止める。

「寮長、ビニ……じゃなくてクーラーボックスは」

「家持ちが三人いた。ラムネ用、氷用、たこ焼き用で分けてばっちりだ。保冷剤も入れてきてもらう」

家持ち、とは自宅で持っている生徒、ということだろう。得意げに鼻の下を指でこする寮長が輝いて見えた瞬間である。

「寮長、さすが!」

「いった! 痛えよ馬鹿」

「おい塚原、すげえのは寮長じゃなくて俺たちだから」

「そっか、間違った。寮長が自分のおかげみたいな空気出すから」

「うるせえ。俺の会心の一言だったんだよ!」

 翌日は主に買い出しと、いよいよ開店準備に入った。冷蔵保存が必要な食材は当日朝に買いに行く予定にして、それ以外のものは早めに購入しておく。

「台風ん時の買い出しみたいに車使えたら一発なんだけどな」

必要な食材や材料をまとめた紙を見ながら、塚原は肩をすくめた。

「仕方ないよ。五、六人で行けば大丈夫だろ」

 自転車を持って来た寮生の一人がそう受けた。さすがに寮母さんを借り出すわけにもいかない

 その後届いたわたあめ機で作ったわたあめは想像以上に美味しくて、塚原は同じ班のメンバーと飛び上がって喜んだ。作り方もそう難しくはなく、それなりにきれいな形ができたので一安心だ。わたあめ屋の準備が一通り終わったところで、全員の鉢巻(古新聞を縒り合わせたものだ)や、はっぴ(の衿だけを紙で作ったものだ)作りに加わった。衿には太いマジックで「二年四組 縁日」「校舎二階突き当たりから四番目」と書く。当日は持ち場を離れる際も鉢巻とはっぴ(の衿)は外さない決まりだ。もちろん宣伝効果を狙ってのことである。



 明日、文化祭本番こそ起きてやる。意気込んだ塚原は、食事と風呂を済ませた後、「よく眠る努力」であるストレッチを済ませ、すぐにベッドに入った。夜九時半だ。いつもより随分早かったけれど、昼間走り回り文化祭の準備に追われていたせいか、すぐに眠気が下りてきた。

 そうして少しずつうとうとし始めた頃。

 ノックの音が聞こえた。続いてドアを引く音。無論鍵をかけているため、引っかかるだけで開かない。せっかく眠りかけた身体を引きずって、塚原はドアを開けた。

「もう寝てたのか」

「……どったの」

 恩田だった。風呂を済ませたのかTシャツにジャージ姿だ。

 けれど確か今日は「お泊まり」の日ではなかったはず。部活も休みなので夕食は一緒だったけれど、その後会う約束などはしていない。とはいえ約束がなくても恩田が訪ねて来ることはよくあることだった。塚原の方こそ、早く寝ることを伝えていなかったのだ。甲斐と松谷が一緒にいたこともあったけれど……それ以上に数日前のことが頭に残っていたせいで、なんとなく言いそびれてしまったのかもしれない。

「いや、ちょっと会いに来ただけ」

恩田は少し驚いたように視線を逸らしながら言った。それで自分が今しかめ面をしていることに塚原は気づいた。廊下の明かりの眩しさ。片手で顔をこする。

「……入れよ」

部屋の電気をつけ、恩田を招き入れた。けれど彼はそのスイッチへ手を伸ばし、また電気を消した。身を引く。

「ごめん。起こしちゃったな。今日はやめとくから」

「いや……」

 別にいいよ。入れよ。ゆっくりしてけよ。

 そんな言葉が頭に浮かぶのに、声となって出てこない。再び部屋の電気をつけようとスイッチに手が伸びるのに、指が動かない。いらだちに似た煙のような感情が胸に広がっているのを感じた。

 なんか俺今、恩田のこと遠ざけたいと思ってるのか。

 まさか。

 自分の感情に自分で驚いていた。目の前にいる男は、誰よりも何よりも大好きな自分の恋人ではないか。それを、俺は今、一瞬でもわずらわしいと思ったのか。

「じゃあ、おやすみ」

 動かない塚原を見て何かを察したか、恩田は小さく笑ってドアを閉めた。それで部屋は再び暗闇を取り戻す。しんと静まり返った中で、ぱたぱたと響くスリッパの音が遠ざかってゆく。その音を聞きながら、確かに心のどこかでほっと息をついている自分がいることを自覚した。

 けれど次にはすぐに、それがたまらなく嫌だと思った。

 ――違う。

「隆生っ」

 塚原はドアを開けて廊下に出、数メートル先の恩田に追いすがった。驚く彼の腕を引き自室へ連れ込む。ドアを閉め、そこに彼の身体を押しつけて抱きしめた。

「由太?」

恩田の声はすぐに暗闇に吸い込まれる。

「ごめん、俺ちゃんと言ってなかった」

「え、」

少し身体を引いて、相手の顔を正面から見つめる。

「俺、前みたいに朝はきちんと自分で起きられるようにしたいんだ。お前に引っ張ってもらわなくても、せめて、お前がおはようっていうのにおはようって返せるくらいにはなりたいって」

「由太」

「だから隆生にもちょっとだけ協力してほしい。わがまま言って、悪いけど」

いつの間にか唇を噛み締めていた。抱きかかえる腕にも力がこもる。塚原の真摯な眼差しに恩田は少々面食らったようだった。

「……何度も言ってるけど、そんな頑張んなくていいって。別に大したことじゃないだろ。俺が起こしてやるからさ」

「人に起こしてもらわないと起きられないなんて、そんなのだらしないじゃん。お前はそんなやつが恋人でもいいわけ」

「由太はだらしなくない」

「……いや、お前がそう言ってくれてうれしいけどさ。赤の他人から見たらどうだよ? 恩田の恋人はだらしないってみんながみんな思うって」

「言わせとけばいいだろ。赤の他人にはいくらでも言わせとけって前にお前が言ってたじゃん」

「そんときと今じゃ違うだろ。俺はお前の恋人なんだ」

 恩田は瞬きを繰り返して口をつぐむ。

「将来の話、こないだしたろ。正直、俺は先のことなんてわかんないし今までお前みたいに具体的なことだって考えたことなかった。びっくりした……ていうか、びびった。確かに、俺だってお前とはずっと一緒にいたいと思ってはいるけどさ」

こくり、と相手がうなずいたのを確認して塚原は続けた。

「……だ、だったら、朝ろくに起きれもしない俺でいいのかよ。お前の、その親とかはそんなやつを認めてくれんのかよ。つーかお前自身、そんな俺のこと情けないと思わないのかよ」

 数日前聞いた彼の突拍子もない将来の話。それを引用するのはかなり恥ずかしい気持ちがあったけれど、結局突き詰めて考えればそういうことなのだ。彼にふさわしい自分になりたい。彼にかっこいいと思われるような……そこまではいかなくても、だらしない、情けないと思われないような自分に。

 恩田は答えなかった。うつむいて顔を隠してしまう。

 かなり長い沈黙の後に、ため息交じりに彼がつぶやいた。

「……そもそも、由太のこと情けないとか思ったことないから」

薄暗い中では表情はよく見えないけれど、笑ってはいなかった。唇を尖らせ、目を伏せている。

「無理して頑張らなくたって、俺はそのままのお前が好きだよ」

彼の手が動いて、塚原の頰をそっと包んだ。ようやく目が合う。誘われるままにキスを交わした。

「全部」

「うん」

「全部好きだ」

「ありがとう」

恩田はもう一度額にキスをして、塚原の腕をほどく。

「……わかったよ。また明日来るから」

「うん。ごめん」

「おやすみ」

「おやすみ」

ドアが閉まる。最後まで、恩田の表情は晴れなかった。



 翌朝、文化祭当日。恩田に揺り起こされて、塚原は目を覚ました。ぼんやりした意識の中で、おかしいな、と思う。もう着替えて部屋を出ようと思っていたのに。

「おはよう」

「……あれ」

けれど視界がはっきりしてくれば、それは都合のいい夢だったのだとわかった。自分は寝巻きのジャージ姿のまま、二つの目覚まし時計を手にカーペットに寝転がっていたのだから。

「俺におはようって言ってくれるんじゃなかったの」

「……おはよう、」

「昨日から進歩したじゃん」

「…………」

嫌味のない柔らかな口調だった。それでも昨日の今日だったから、塚原としては気まずい思いが頭をかすめる。反対に恩田はいつも通りの笑顔だ。昨日見せた陰りは見受けられない。意外だった。けれどそれを口にする間もなく、身支度、朝食もそこそこに、塚原の身柄は寮長へ引き渡された。

「りゅうせい」

「じゃあ、昼一時に昇降口で。寮長、塚原よろしく」

「おう、設営頑張れよー、恩田」

「ああ」

恩田のクラスは最後、出入り口付近の布貼りや、暗幕の隙間の修復が残っているのだった。文化祭の外来者入場は十時からだ。完璧を求めれば切りがないけれど、時間が許す限り仕上げておきたいのだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る