二年生(1)

 静まり返った学生寮のラウンジに、多くの寮生が集まっている。音を発しているのはそこに置かれているテレビだけだ。寮生たちは揃って口をつぐみ、気象情報番組を観ていた。

『大型で強い台風八号は、なお強い勢力を保ちながら日本列島にかなり接近しております。このままの速度で行きますと、数時間後には沖縄、九州、さらに今夜から明日にかけて本州に上陸、北上していくものと思われます。大雨や強い風に警戒してください――』

 画面に現れた天気図には、台風とその予報円がぐるりと描かれている。つかはらゆうは口の中で「うわ」とつぶやいた。

「こりゃ直撃だな」

 別の寮生が間の抜けた声でつぶやくと、ソファの傍に立っていた二年の寮長がうなずく。すっと息を吸い込んで、声を出した。

「えーっと、テレビでも言われている通り、台風が近づいています」さらにバインダーに挟まれた紙を確認しながら続ける。「なので今日の夜から明日いっぱいまでは外出は控えるようお願いします。この後門を閉めます。それからまず、どの部屋も窓とカーテンをきちんとしめておいてください。あと各部屋非常用品がきちんと揃ってるか確認もお願いします。懐中電灯がちゃんと点くかも見てください。

 それと庭の物干し竿の片付け。これは今日洗濯機を使う担当だった人たちで協力してやってください。プランターとかバケツ、ホースは全部玄関に運び入れてもらいます。自転車置き場にある自転車は一カ所にまとめてロープで縛ってください。これは一年が手分けして早めに終わらせて。三年生はやり方を教えてやってください。あと明日食堂のおばちゃんが寮まで来れない可能性が高いので、台風が来る前に二年で食料の買い出しをします。寮母さんが車を出します」

 はーいとか、へーいとか間延びした返事が集団の中から聞こえる。新聞を片手に壁に寄りかかっていた先生が一際大きな声を出す。

「あー、そういうわけで、今日は特別に先生も泊まり込みで宿直します。何かあったらすぐ連絡するように。間違っても暴風雨の中外に出るなよ」

三十代後半かと思われる、がっしりとした体つきの先生だった。黒いポロシャツからのぞく腕は太い。非日常に浮き立つ高校生男子たちをまとめられるようにと、腕っ節を買われて選ばれたのが一目でわかった。

 塚原の記憶にはない先生だった。三年生の受け持ちなのかもしれない。

 解散、の声とともに寮生たちは決められた仕事に向かうため、ラウンジから出て行った。

 残ったのは二年だけである。

「寮長ー」

「寮長言うな」

塚原が声をかけると即座に注意される。この四月から寮長となった彼と塚原とは同じクラスだ。しっかり者であるばかりに、学校でも寮でも色々とまとめ役に駆り出されている。昨日は文化祭の話し合いで委員を引き受けていた。

 大きめの眼鏡を指で押さえる。少々顔色が青白いが、これは台風のためではなく、彼の顔色はこれが普通なのである。

 塚原に言わせれば、「寮長」という呼び名は彼の「田中」という名字よりかはいくらか個性もあるし(だって同じ名字の生徒が同学年で既に三人、寮生の中でも二人いるのだ)、「寮長」と呼ぶ方が何よりわかりやすく、覚えやすい。彼の方も一応注意はするけれど、次には素直に呼びかけに応じてしまうため、もはや定番の挨拶と化しているようだった。塚原は続ける。

「二年全員で買い出しっつっても、車に乗らねえよな」

「まあな。だから選抜メンバーで行かないといけないんだけど」

「俺の車に六人、寮母さんの車は四人乗れる」

先生が口を挟む。

「じゃあ、行きたいやつ!」

勢いよくそう言って寮長が手を挙げるが、続く者はいない。ええ、めんどくさい、じゃんけんで決めようぜー、などと誰かがぼやけば、先生が声を出した。

「バカヤロー、どうでもいいことに時間かけてどうする。さっさと行ってさっさと帰んだぞ。寮長以外の、部屋番号の若いやつから十人だ」

二年生は揃って首を縮めた後、お互いの顔を見合った。面倒くさそうにため息をついて声を出したのは、意外にもまつたにだった。

「一○一から一○五号室までの十人」

「……俺、一〇〇号室なんだけど」

塚原の言葉に、松谷は平然と応じる。

「お前は一人部屋だから入れると端数が出ちまうんだよ」

「余り一、だもんなあお前」

寮長がおかしそうに言う。「うるせえ」ととりあえず投げ返しておく。

「後のやつらは一年の作業を手伝え。戻ったら買い込んだ食料の整理に加わってもらう」

はい、と先程よりは緊張感のある返事をして、二年の寮生も解散した。



 塚原はそのままプランターの運び込みなどの作業を手伝った。とはいえ数は大したこともない。十数分くらいで終わらせると、自分の部屋に向かった。懐中電灯の確認くらいはしておこうと思ったのだ。すると一〇〇号室に至る前に、隣の物置から声をかけられた。

「塚原」

「あ、恩田」

おんりゅうせいがにっこり笑って廊下に出てきた。手が土に汚れている。その後ろでは数人の寮生が話しながら物音を立てていた。

「物干し竿、全部オッケー?」

「うん。大した手間でもないな。そっちは?」

「買い出し組からあぶれたんだよ。植木はちょっと手伝ったけど。あいつら戻ってくるまで待機」

「そっか」

「甲斐もだから、部屋にいると思うよ。松谷は買い出し組」

恩田が物置部屋に残っている寮生(おそらく一年生だろう)にひと声かけて、二人は自然と一〇〇号室のドアへと歩いた。鍵を開け、恩田を招き入れる。彼は応じて入ろうとしたけれど、ふいに広げた両手を掲げた。

「あ、ごめん。ちょっと手洗ってくるな」

「うん」

二人は目を合わせてくすりと笑い合った。



 塚原は高校二年生に進級した。相変わらず毎日は授業と部活に費やされているけれど、今年はもうひとつそれに加わったものがある。

 恋人と過ごす時間だ。

 去年から色々あって、春先にようやく付き合うことになった恩田とは、毎日顔を合わせて話をしている。朝の食事のときはもちろん、寝る前や朝起きたときもだ。甲斐や松谷がその場に加わることも多いけれど、おそらく授業と昼食と部活以外の時間はほぼすべて彼と共に過ごしていると言ってよかった。そうしよう、とどちらから希望したわけでもなく、自然にそうなった。

 一つには二年に進級して二人が別のクラスになったことが原因かもしれなかった。これまでは少し視線を動かせば相手の姿は目に入っていたのが、今は廊下に出て、二つの教室をまたがなければいけない。これにがっかりしたのは恩田の方で、塚原は申し訳ない気分になった。二年のクラス替えは成績順で行われたらしいことが生徒のあいだでも知られていたからである。

 塚原は二年四組。恩田は二年一組。一組は特別クラスだ。



 塚原が懐中電灯のスイッチを確認していると、手を洗った恩田が部屋に戻ってきた。「窓、鍵閉めたか」と抜かりないチェックが入る。

「大丈夫だって」

唇を尖らせて塚原は答え、懐中電灯をしまい、カーテンをしめた。どうも、恩田は以前よりずっと細かく塚原の世話を焼くようになった気がする。

 ベッドを背にカーペットに座る恩田の元へ駆け寄る。彼は腕を伸ばして塚原を抱きしめた。頭を撫で、指先で優しく髪をすく。いつもの彼の匂い。

「隆生」

「ん?」

「それダメだ。眠くなりそう」

身体の力が抜けて、恩田に寄りかかってしまいたくなるのを、かろうじて我慢する。恩田はくすっと笑った。

「まだ九時だろ」

「気持ちいいんだもん」

「いいよ寝ても。買い出し組が戻ったら起こしてやる」

「そんなん、お前が暇じゃん」

恩田の腕がゆるんだ隙に少しだけ身体を離す。すると今度は恩田が顔を近づけてきた。

「じゃあ、ちょっとだけ……」

 唇が重なる。柔らかく触れた瞬間に、心臓にささやかな痛みが走った。恩田と付き合うことになってから今まで、キスは数えきれないほど交わしてきたけれど、未だにその行為は塚原にとって特別だった。誰よりも大好きな男の唇。眠気なんて一瞬でどこかに消えていってしまう。

 お互いに乾いた表面を舐め合って、口を開く。恩田の舌がするりと入ってきて、塚原の舌を絡め取る。今日は穏やかに確かめるようなゆっくりとした動きだった。顔が熱くなっていく。塚原も夢中で応じようとするけれど、なかなか上手くいかない。彼の動きにいつも酔わされて、自分が何をどうしているのかわからなくなってしまうのだ。ただただ翻弄されている。けれどそれはキスのときにだけ得られる特別な快感であって、正直なところ、塚原はこうして恩田にかき回されて翻弄されるのが実は好きだった。もっと激しくしてくれてもいいな、と思うことさえある。男のくせに、柄ではないと思うけれど……。彼にはもちろん、言えたものではない。

 やがて深く絡め合ううちに気持ちが高ぶってきて、キスだけでは足りなくなってくる。恩田の背中を撫でさすってかき抱くと、息が詰まるほど強く抱き返された。

 舌の根が痛い。息が苦しい。けれどそれも全部気持ちいい――。

「あーもう……由太、大好き」

恩田がいらだったような声を出す。耳元で響くその言葉が、うれしいけれど照れくさい。

「うん……俺も好き」

 そう応じた後、突然理性が頭に戻ってきて、塚原は恥ずかしさに、恩田の肩に顔を埋めた。

 俺は今キスをしながら何を考えた? 翻弄されるのが好き? もっと激しくしてくれていい? 何だそれ。恥っず!

 最近日に日にそういう欲望が膨れ上がっている気がする。塚原も男であるし、性欲は人並みにあると思っているけれど、何か違う。今まで触れられたことのない神経を刺激されるような感覚。したい、より、されたい、というような――

「由太?」

「いや……」

 何だろう、急にやたらエロくなったかも。

 恩田に抱きしめられながら、塚原は一人顔を赤くした。



 その後三十分ほどして、買い出し組が戻ってきた。慌ただしく部屋を出て食堂へ向かう途中、ふと隣を歩く恩田に目をやる。

「ん?」

彼は穏やかな表情でこちらを見る。塚原は笑っていや、と答えた。

 隆生と付き合って、もう三ヶ月なんだよな。

 毎日当たり前のように相手に触れて、好きだと伝え合っている。正直なところ、こちらがうろたえてしまうほど恩田はまっすぐ塚原に対して好意を示すのだ。あんなに大人びていたはずの彼が、塚原の前では幼い子供のように目を輝かせる。その目を見ると、うれしくもあるけれど、気恥ずかしいような気持ちにもなる。

 あのきれいな人と付き合ってたときもそうだったのかな。

 埒もないことを考えて、慌てて打ち消す。戻れない過去のことを考えても仕方ないのだ。



 気象予報の通り、その夜は少しずつ風が分厚い雲を運んできて、日付が変わる頃には激しい雨風がひっきりなしに窓を叩いた。めったなことでは割れない頑丈なものだとわかっていても、妙に落ち着かない。塚原は自室のベッドで一人、天井を見上げていた。今夜は当直の先生もいるので、流石に恩田を部屋に呼ぶわけにはいかなかったのだ。

 ――これからは、毎朝俺が起こしてやるから。

 三ヶ月前、付き合うことになった日の翌日、恩田からそう言われた。そのときの彼の笑顔があまりにも優しくて、幸せそうで、塚原は咄嗟にわかった、ありがとうと答えてしまった。けれど最近になって、そのことを少し後悔している。

 結局、俺はまだ、恩田に世話を焼かれてるんだよなあ。

 正真正銘恋人となった今では、寮内で噂が流れることはない。もう噂ではないのだ。すべては事実であり、二人でラウンジにいるとそっとその場を離れていく寮生すらいた。どんなに恩田が塚原の世話を焼いていようが――寝癖直しをしようが、手を引いて学校に向かおうが、廊下でネクタイを結び直そうが、むくんだまぶたに触れようが――事情を知る他人の目には恋人同士のスキンシップとしか映らないのだ。けれどやっていることは以前と同じ、過保護な母親と大差ない。いや、よくよく思い返してみれば以前よりずっとひどくなったと思う。

 前に恩田には宣言したのだ。「朝自分で起きられるように頑張る」と。それはつまるところ朝起きることだけに限った話ではなかった。言葉の上ではそう言ったけれど、要するに恩田に母親のような真似をさせずに済むようにとの意味もあったのだ。彼にもそれを言って、自立しようと自分なりに色々と取り組み始めたのだった。

 なのに、結局元に戻っている。

 恩田はとても楽しそうに塚原の世話を焼くけれど、塚原自身は落ち着かない。

 結局俺は恩田に甘やかされてるじゃないか。それって、なんだかすごく情けない。不甲斐ない。格好悪い。

 そんな状態では恩田の方も、自分への気持ちが変わってくるのではないかと塚原は思い始めていた。男女間でもテレビ等で度々言われることだ。恋人同士が同棲を始めるが、男性は一切家事をせず、女性ばかりが男性の世話を焼く。いつしか負担に耐えきれなくなり、女性はうんざりして言うのだ――「私はあなたの母親じゃない」と。

 恩田のうんざりした顔を想像しようとして果たせず(何しろ塚原の前で彼がそんな状態になったことがない)、塚原は小さな不安を覚えた。

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