ビタースイート(2)
そうして少しずつ事態が収束してきた二月半ばになって、携帯電話がいくらか懐かしい名前を表示させた。春に咲く可憐な花と同じその名前は、持ち主の容姿には相応しいものだったけれど、中身はイメージとまったくそぐわなかったことも同時に思い出す。
『久しぶり。てか寮って電話していいんだっけ?』
サバサバとした口調で名乗ることもなくそう言ったのは、松谷の中学時代の友人だった。三年間ずっと同じクラスで、同い年の女性の友人といえば彼女くらいしかいない。
食事も入浴も済ませ、部屋でのんびり過ごしていたときだった。松谷は携帯電話を耳に当てながら廊下に出た。ひんやりとした空気があっという間に身体にしみ込んでくる。
「そういう制限はないな。けっこう自由」
その後ひとしきり卒業以来のお互いの近況などを話す。彼女が松谷の通う男子校と同じ街にある女子校に進学したことは前の年の春に聞いていた。
『でさ、明日、昼休み暇?』
「明日?」
『そう』
「昼休みはメシ食ってる」
『そらそうだけど。その前とか後とか』
「何かあんの」
『友達がどうしてもあんたに会って伝えたいことがあるってさ』
松谷は一瞬虚をつかれた。数回まばたきをして声を出す。
「ああ、バレンタインデー」
『そう、バレンタインデー』
電話の相手はくすりと笑った。一瞬でも松谷を驚かせたことを楽しんでいるようだった。松谷の方は別に腹も立たない。自分よりも色々な面で上だと思っている相手に小馬鹿にされたところで、その通りですとうなずくしかないのだ。
『まあ、あんまり邪険にはしないでやってよ。いい子だからさ。昔のあんたのファンなんかよりずっとまともで、素敵な子だよ』
「……そう」
頭の中へなだれ込むように当時の記憶がよみがえってくる。体育祭などの学校行事や陸上部の活動中、大会のときなど、集団を作っては松谷の名前を叫んでいた子たち。その熱意と執念を見るに、本当の目的は自分なのではなく、ただ女同士集まって叫んだり騒いだりすることだったのではないかとすら思っていた。勇気を振り絞って松谷へ好意を打ち明けた子が、数日すると浮かない顔でその集団の後方に加わっているのに気づいたこともあった。そのときどきにおいて自分へ声援を送ってくれたのであり、別に不快さや嫌な思いはなかったけれど、何度となく松谷の平穏な日常を騒がせたのも事実だ。あまり積極的には思い出したくない記憶である。
そして、当時その存在を松谷へ知らせたのが電話の相手だった。彼女は今と変わらないサバサバとした物言いで忠告したのだった。
――彼女作るなら気をつけた方がいいよ。
中学一年で初めて話をしたときからずっと変わらなかった、柔らかなショートカットの髪。華やかさはないけれど整ったその顔立ちと、女子としては少々高い身長。元々同性の羨望の的だったけれど、松谷の「ファン」たちからは毛嫌いされていた。松谷と彼女が付き合っているのではないかという噂が学校内で尽きなかったからだ。
――俺たちが付き合ってるんじゃないかってさ。
――勘弁してよ。そんな度胸ないって。
鼻にしわを寄せて彼女は顔をしかめてみせた。当時松谷に学校外の恋人がいたことを知っていてそう言うのだった。今思い出してみると、その情景は色褪せてはいるけれど、どこか柔らかい。
『どう?』
「うん、まあ、話なら聞く」
『ありがと。悪いけどよろしくね』
そして翌日の昼休み。その女子生徒に交際を申し込まれ、松谷は断った。電話で彼女が言う通りだった。きっと例のファンの子たちよりずっとまともで、素敵なのだろう。けれどだからこそ松谷とは合わないのだった。そのこともわかっていたのだろう、彼女が電話で最後に言った「悪いけど」というのはそういう意味だったのだ。
あんたと付き合っても、俺はつまらないし、あんたは不安になるだけだろう。
根拠もないけれどおそらく正しいであろう思い。もちろん言葉にはしなかったそれを、女子生徒は松谷の目を見て了解したようだった。聡い子だ。他にいくらでも恋人のなり手はあるはずだ。
『例の子、告白された。悪いけど断ったから』
予鈴が響く廊下を歩きながら、携帯電話で報告のメールを送る。
『了解。ありがとね』
すぐに返事が返ってきた。かわいらしい絵文字の一つも添えられていないメッセージが、いかにも彼女らしかった。
バレンタインデー。別にどうということもない、どうでもいいイベント事。
――話を聞いてくれて、ありがとう。
大きな目にあふれんばかりの涙をたたえ、肩を震わせてそう言った女子生徒。彼女の願いを迷うことなく蹴った松谷だったけれど、何も感じなかったといえば嘘になる。
……それが、尾を引いていたのか。
その日の放課後、部活を終えて部室でいつものように塚原と並んだ松谷は、ロッカーから荷物を取り出そうとして落としてしまった。その中に押し込んでいた深緑色の紙袋を見て、塚原が何のかのと問うてくる。
そんな彼を見て、ふいになんとも言い難い使命感のようなものに駆られた。目の前の男と、つい数時間前に真摯に自分へ好意を伝えてくれた例の女子生徒が重なっているように思えたのかもしれない。罪悪感、というほど苦い心地を感じているわけではなかったけれど、やりきれない気持ちを覚えて切なくなったのだ。
隣に呼んで甘いチョコレートを食べさせる。できるだけ優しく触れ、声をかけてやる。そんなことを塚原相手にするのは初めてだったけれど、不思議と照れくさくはなかった。改めて見直してみれば、彼は確かに寮生たちが言うように目鼻立ちのはっきりした愛嬌のある顔をしていたし、恩田にふられたと打ち明けた泣き顔、少し前まで見せていた憂いをたたえた表情や、今それを飲み込んで今まで通りに振る舞おうとする健気な姿は庇護欲をそそられなくもない。強がる子犬。自分で思う以上に松谷も塚原にほだされていたのかもしれなかった。
抱きしめれば抵抗されるかもしれないと思ったけれど、塚原は案外大人しくされるがままだった。
「誰でもいいから抱きしめてほしいとか思わない?」
「っ……」
彼もどこかで、自分が抱える思いがいかに不毛か自覚していたのだろう。
「なんかお前、淋しそうだし。その割に頑なだし。そういうお前見てるとまあ、そういうのもいいかなって。夜眠れないなら寝かしつけてやるし、朝起こしに行ってもいーよ。俺は別にお前と噂になろうが気にならねえし。泣きたくなったら気が済むまで泣かせてやる」
塚原の頭を撫でると、緊張で固まった身体がぴくりと反応を見せる。
「……意味わからん」
「まあお前のこと好きってわけじゃないけど、恋人にはなれると思う」
「好きでもないやつと付き合うのかよ」
「キスでもセックスでも、たぶんいけるだろ」
わざわざそう言ったのは、一応そういうことを念頭において塚原を見ていることを、最初に伝えるのがフェアだと思ったのだ。相手は大混乱するとわかっていたけれど、構わなかった。むしろその方が、塚原の心の中にいる恩田を一時的にでも追い出せる気がした。
試しに彼の頬にそっと唇の端を触れさせたとき、初めて塚原は抵抗らしい抵抗を見せた。それでも普段のやりとりよりもずっと弱々しい。きっと口で言うほどに身体は毅然とした態度が取れないのだろう。単純な身体の触れ合いが心を多少なりとも満たすことくらいは、松谷も知っていた。
たぶん、ここで松谷が熱心に愛をささやき塚原をかき抱けば、彼も本気で拒否することはないような気がした。何しろ彼は自分の中に持て余すほど強い恋心を抱いているのだから。松谷が同じだとわかれば、簡単に拒否できるわけがない。
けれどそれは頭の中をよぎっただけのもので、現実ではなかった。松谷の思いはあまりにも掴みどころがなく曖昧で、ささやくべきものが愛なのか恋なのか同情なのかもよくわからない、淡いものだ。
「恩田だけだもん」
はっきりとそう言う塚原が小憎らしく思えたとしても。
そう思っていたところに、あの事件が起こった。
塚原が人違いで暴行を受け、それを知った恩田がよりによって昼休みに学校の廊下で彼に詰め寄ったのだ。まるで恋人気取りの自分勝手な言葉を、たくさんの生徒がいる中で喚く。
「頼むから、俺のいないところで痛いとか辛いとか苦しいとか、そんな目に遭うなよ! そういうときは俺に言えよ!」
「塚原には笑っていてほしいんだ。何も言わないから、俺のために笑って」
それがどれだけ塚原の心をえぐったか、松谷には一目でわかった。彼の心を知らない他の生徒には、ただ驚いているようにしか見えないだろう。制御しがたい感情をほとばしらせる恩田と、同じくそれを感じながら必死に理性を働かせる塚原。
――ガキが。
自分でも気がつかないうちに人垣を押しのけて拳を振り上げようとした松谷を制したのは、甲斐だった。そのまま何も言わず、二人の元へ向かう。
どくん、と心臓が動いた。
握りしめていた右手をほどく。手のひらに爪の跡がくっきり残っていた。甲斐の声が耳に届く。何か場の空気を和ませるような声。この事態を冗談に紛らわそうとしているのだろう。そうでもしなければ塚原の渾身の努力が無駄になってしまうから。それは松谷が恩田を殴ったとしても同じことだったろう。そうなれば冗談に紛らわすことすらできなくなっていたはずだ。大きく息をつく。
俺らしくもない。頭に血が上った。
そういう経験は、覚えている限り初めてだった。持て余した感情をようやく飼い馴らせるようになった塚原に対して、自分の方が持て余すような感情を抱くなんて。ああ、胸くそ悪い。
きっと例の彼女がこのことを知れば、松谷の方をこそ「ガキ」と言ったかもしれない。苦笑いが広がる。
この胸くそ悪い気持ちは、その元凶へぶつけてやるのが正しいと思った。安易に殴ってやったりせず、正しいやり方でぶつけて、突きつけてやるべきだ。何と言って言い訳するつもりかこの目で見てやる。意地悪くそう思った。
案の定、恩田は言い訳すら作り上げられず、ただ反射的に文句を返すだけだった。
「んなわけないだろ。何言ってんだ」
お粗末過ぎる返答。こんな男に塚原は未だに好意を寄せているなんて、馬鹿らしい。
食堂から出て自分の部屋へ戻る途中、けれど松谷は諦めに近い気持ちが胸に広がるのを感じた。
時間の問題かもしれないな。
その思いは塚原の言葉を聞くとさらに強まった。
「ごめん。付き合うって言ってた話、やっぱなしで」
苦笑いをしてそういう塚原の瞳は、寮の門の照明を小さく反射させていた。
「恩田のことはとっくに諦めてるよ。そういうことじゃなくて、恩田のことは好きだから、そういう自分の気持ちを諦めたってこと」
結局この期に及んでも、塚原と恩田は惹かれ合っているのだ。それが松谷にはわかった。相手に対する自分の感情や思いを捨てもせず、胸にしまい込んで大切に抱いている。馬鹿馬鹿しい。
さっさとくっついてしまえばいいのだ。
そして結局、その後二人はくっついた。そして、今に至る。
「まあ、結局塚原が恩田とどうにかなったから意味なかったんだけどな」
松谷は食堂の椅子にだらしなくもたれてそう言った。
「俺としてはハッピーエンドでうれしいけど……」
「めでたしめでたし、なんじゃないの」
思いがけず放り投げるような口調になってしまった。甲斐が意外そうな顔をして松谷を見る。
「なに」
「お前、恩田に怒ってたんじゃないの」
「今でも気に入らねえよ」
間髪入れずに答える松谷に、甲斐は苦笑する。
「だよね」
「けど、塚原は恩田のこと本気で好きみたいだからさ。失恋した塚原にふられて、それでもへこんだ塚原を見続けなきゃいけないよりはいいだろ」
「なるほどねえ……」
「そもそも、塚原って思い始めたらこう、だろ」
松谷が両手の指を伸ばし、顔の幅にさっと振ってみせる。
「うん」
「たぶん恩田を好きになったのも、生まれたばっかの雛鳥が最初に見たものを親だと思うようなもんじゃん」
「あー、それわかるかも。塚原元々ノンケだし」
「恋愛経験ほとんどないしさ。恩田がそれわかってるかどうか」
「薄々はわかってると思うけどねえ……」
「こないだみたいに、わかってるつもりでわかってないとかじゃなければいいけどな」
「松谷厳しいねえ」
「恩田嫌いだもん、俺」
洗いざらいに、とまでは言えないけれど、自分としては珍しく、正直な気持ちを甲斐には打ち明けたと思う。それでもどこか、何か落ち着かない心地を抱えていた。手持ち無沙汰に表示させた携帯電話の着信履歴。ふと、彼女だったらどんな反応を見せるのだろうかと興味がわいた。食堂を出た後スリッパを履き替え、玄関を出た。冷えた風が髪の毛を舞わせる。柔らかな土の匂いがした。片方だけ閉められた門を見ながら、電話をかける。
五回コールしたところでようやくつながった。
『はい』
「こんばんは」
松谷も名乗らず、彼女もまた同じだ。
『何、珍しい』
「あのさ」
『うん?』
「俺、ふられた」
『ザマーミロ』
唐突に切り出した話に、軽い笑い混じりの返答があった。打てば響くとはこのことだ。予想通りだった。
『冗談』
「別に何て思ったりしてない」
『……好きな人いたんなら、こないだはなおさら悪かったね』
こないだ、というのはバレンタインデーのことだろう。
「いいや。俺も言ってなかったしな」
そもそもその時点で恋をしていたどうかも判然としないのだ。ふられたのは事実だけれど。そう思うと我ながらなんだか妙なものだと内心自嘲する。
『それを私に言うっていうことは、中学時代の子なの?』
「いや、高校の同級生」
『高校?』
「そう。同じ寮にいる、犬っころみたいなやつ」
相手の返答が途絶える。受話器の向こうで息をのむのがわかった。
『……ちょっとどういうことか説明してくれる?』
彼女には自分の恋愛指向について話したことなどなかったから、当然の反応だった。笑いの衝動がこみ上げてくる。どうしてこれまで彼女に打ち明けてこなかったのだろう。よくわからない。当時は当たり前のように黙っていた。毎日のように顔を合わせ、距離が近かったせいか、屈託なく自分に接してくれた彼女の反応を知ることを恐れていたのか。
「俺さ、男とも女とも恋愛できる質なの」
『初耳なんだけど』
「今初めて言ったからな」
軽く息を吸い込む気配がして、声がした。驚くほど優しい声。
『……あんたって、やっぱりどっか変わってるね』
言われ慣れている言葉だった。さっき甲斐にも言われたばかりだ。けれど、彼女の声の柔らかさに不思議と安堵していた。
「知ってる」
『そういうとこがモテるのかな』
「さあ。モテてもしょうがないけどな」
たくさんの人に好かれることより、何があっても好きだと自分が思える相手に出会うことの方が難しいと思う。今回塚原に対する思いは、それに近かったのだろうか。今となっては比べようもないし、比べても仕方ない。頭の中から放り出した。
『あんた今世界中の男を敵に回したね』
「誰に何を言われようが、俺は俺だし。勝手にやってろ」
『……そうだね』
松谷の声に何か察したらしい。彼女は静かに言った。
『落ち込んでんの』
「落ち込んではない」
『お姉さんが慰めてあげようか』
それは会話の最後の合図だ。いつもお互いにただ話をして、それを聞いて、最後は冗談にして笑って終わりにしていた。他愛ない話と同じようにそれなりに差し迫った話も、そうと悟らせずに笑って終わらせる。たぶん、それは相手の領域に踏み込みすぎないためのお互いの暗黙の了解。一つのわきまえのようなものだったのかもしれない。だから松谷にはそれが冗談だとわかったけれど、今、笑って終わりにするのはなんとなく嫌だった。
「友達の好きな人にそんなこと言っていいわけ?」
『ああ、そうだったね』
「また『あの女、松谷クンに近づいて調子乗ってる』って」
『そんなに性格ねじ曲がった子じゃなかったでしょ』
彼女が声を上げて笑った。まだそう遠くない過去のことなのに、もうそれだけ笑えるのかと感心した。尤も、当時もこたえた様子は見せなかったけれど。
「そっちもモテてるんじゃないの。女子校で」
『どうして』
「昔からそうだったじゃん。引退試合も後輩の女子が群がったんだろ」
『ああ、そういうことならそうかもね』
そんな他愛ない応酬をしながら頭の中で色々と言葉を探してみる。でもどれも場にそぐわないものしか浮かばなかったので、結局思ったままの言葉を松谷は口にした。
「あのさ、」
『うん?』
「……また電話していい?」
言ってすぐ、内心で舌打ちした。自分らしくない声。頼りなく不安定にかすれている。
『いいよ』
けれど返答はいつもの調子だった。電話の向こうで、彼女はふっと微笑んだように感じた。
その後少し話をして電話を切った。寮の建物の壁に背を預けて遠くを見やる。もうすっかり暗くなった空と街。目を細めると建物の明かりやネオンサインの輝きが重なり合って見える。
ふと門の向こうに、人影が見えた。街灯に照らされる二人の姿。塚原と恩田が帰ってきたのだった。二人ともお互いしか見えていない様子で、心から楽しそうな笑顔を浮かべて熱心に話をしている。そんな調子でよくもここまでまっすぐ帰ってこられたな、と皮肉の一つでも投げてやりたくなる。
「……風呂行くか」
さて二人に見咎められる前にと、松谷はドアを開けて寮へ戻った。
(終)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます