ビタースイート(1)

 高校に上がるまでに、まつたにともたかは二度、同じ言葉で恋人から別れを告げられたことがある。もちろん二人は別人で、付き合っていた期間も重なってはいない。ついでに言えば性別も異なっていた。

「あなたは何考えているかわからない」

「お前のこと、俺にはわからん。ごめん」

 どうも、自分は他人にとって理解しがたい人間らしい。どちらの恋人も松谷にとってはそれなりに大切な人だったけれど、彼らからすれば、松谷がそう思っているとは思えなかったようだった。もちろんそれを理由としてなすりつけただけ、という可能性もある。しかし二度も同じことを言われれば、自分に欠陥があるのだと妥当な考えに辿り着く。

 俺は本気で人を好きになったことがないのかもしれない。

 それを松谷は淋しいことだとは思わなかった。まだ自分は十代で、死ぬまで先は長い。自分と同じ遺伝子を持つ両親でさえ人生の伴侶を得たのだから、松谷が愛するべき人間もいつか現れるだろう、となんとなく考えていた。

 そうやって楽観的に考えることができたのも、当時同じ境遇にあった友人がいたからだった。それでもなんとなく興味のある相手と恋人関係を結んだ松谷とは違い、彼女は一人の恋人も作らなかったけれど。



 高校二年生に進級して間もない四月のこと。寮の食堂にて、松谷と甲斐かいは向かい合わせで夕食をとっていた。

「恩田と塚原は順調みたいだね」

「まあ、見た感じはな」

 さっきまでこの場には同じ寮生であるつかはらゆうおんりゅうせいも揃っていた。しかし二人は商店街に新しくできたラーメン店へ行くということで、出掛けたのだ。

 授業や部活が終わったこの時間帯、制御しがたい空腹を満たすため食事に没頭する者、食欲を満たしてゆったりとした時間を過ごす者とで、食堂はいつものように混沌としている。


「松谷は恋人作らないの」

 いつもの柔和な表情で甲斐が訊いてきた。思えば今まで彼とそういう話をしたことがなかった。お互いすぐ傍にいる友人の恋愛関係にばかり目を向けていたせいかもしれない。松谷は気怠げに首を傾けた。

「うーん……今のところ好きな男も女もいねえからなあ」

「へえ、そうなの」

そう言って微笑する甲斐の瞳は、興味の色というには優しい。正直な気持ちを打ち明けるのに抵抗はなかった。

「付き合ってもいいなってやついたけど、ふられたし」

「えっマジ」

甲斐が驚いて身を乗り出す。その様子が珍しく、少しおかしくなる。

「うん」

「お前をふるなんて、なかなかいないと思うけど。男?」

「……塚原だよ」

さらに甲斐は驚いたようでまばたきを繰り返した。驚くだろうな、と松谷は思う。自分でもそんなこと、考えてもみなかったのだから。甲斐は数秒視線をさまよわせた後、天井を見上げ、小さく息をつく。

「あー……そういうこと」

「ちょうどあいつが恩田にふられた後にさ。好きじゃないけど、キスでもセックスでもできると思うから付き合うかって言って」

それを聞いて甲斐の表情がわかりやすく引きつる。その視線を松谷は余裕を持って受けた。自分の行いが時として人に理解されにくいものだということは自覚している。だから普段はあまり正直に話をすることは少ないのだけれど……甲斐なら、理解できなくても切り捨てることなく受け入れてくれそうな気がした。


「……えーっと。塚原相手にその言い方、仮に両思いでも一番ダメだと思う」

「まあな。けど好きだ、って嘘つくのも嫌だったしさ」

「お前も変わってるなあ……」

「やっぱ、わかんねえか」

「いや、確かに恩田にふられた後の塚原見てられなかったもんなあ。俺、恋人いなかったらお前と同じ気持ちになったかもしんない」

「だろ?」

「けど付き合おうとか自分からは言えない。しかもそんな言葉で」

「ふーん?」

「向こうが寄りかかってくるならがっつり受け入れるけど。役得だし」

肩をすくめて苦笑する。まあ確かに、普通はそうなのだろうと思う。



 こんな自分にさえ、予期しない心の動きというものがあるとは思わなかった。

 数ヶ月前の塚原とのことを振り返ると、松谷は不思議な気持ちになる。基本的にいつも冷静で、物事を客観的に見ることが容易にでき、感覚よりも理性を働かせるのが得意だと自覚していたのに。塚原はそれを簡単にひっくり返して、松谷を柔らかく転ばせてみせた。もちろん本人は自覚していないところで。

 確かに痛かった。ささやかな痛みだったけれど。だからそれは自分の心の中での本当だったのだろう。頭に降り積もる何かを振り払うように首を振れば、今は簡単に霧散してしまうものだとしても。



 塚原とは、同じ陸上部に入ったその日から行動を共にすることが多かった。別に意図したわけではない。二人とも同じ部で寮生であれば、他の同級生のように生活リズムにずれが生じる余地もない。というよりほとんど同じなのだ。同じ時間に授業が終わり、部活が終わり、部活が終われば腹が減る。まずは寮へ帰ってご飯を食べ、満足したところで風呂へ行くという決まりきったスケジュールである。二人ともそれを嫌だと思わなかった上に、松谷の同室の生徒が帰宅部であったことも大きかった。


 初めは同年の男の壊滅的な「起きられなさ」に驚き、呆れもしたのだけれど、三ヶ月も経てば慣れた。陸上部の先輩部員たちもそうだった。部内には目くじらを立てて怒るような激しい気性の人物はいなかったし、塚原の方も、学校の授業と違い、寝坊はしても活動開始時間に遅れることはこれまで一度もなかったからだ。


 塚原という男は、リードが外れた無邪気な飼い犬のようなのだ。よく食べよく眠り(起きられはしないが)、あまり物怖じしない。楽しければ笑い、嫌味を投げれば文句を返し、何をするにも一生懸命に取り組む。わかりやすくてあけっぴろげな性格だった。犬と違うのは、たまに自分を省みて、こちらが驚くほど静かになる点くらいだ。

 当然松谷の恋愛対象にはならなかった。まったくそそられない。だからただ、単なる好奇心と、同じ陸上部員のよしみで彼と仲良くしていただけだった。



 けれど、周りはそうではなかったようで。

 ある日の消灯前の時間。ベッドに寝転んで漫画を読んでいた松谷に、同室の生徒が改まった声をかけてきた。

「なに」

漫画を下ろして応えると、相手はどこか楽しげな表情を見せた。この同室の生徒は、松谷に対しても屈託がない。

 あまり人に対して無条件に愛想を振りまくこともなく、個人的な話もしない松谷である。口調の冷たさや外見も相まってか、彼に怯みを感じる人間はどこでも一定数いた。

 とはいえ、同じ部屋で数ヶ月も過ごしていれば、怯みも感じなくなるものかもしれない。明るい声をかけてくる。

「なあ、塚原由太ってさ、松谷と同じ長距離陸上部なんだろ」

「ああ、うん」

松谷は素直にうなずいた。

「友達がさ、気になってるみたいで」

「気になってる?」

思わず怪訝な顔をして問い返すと、相手はにやりと笑って続ける。

「けっこうかわいい顔してんじゃん? あいつ。恋人いるのかなって」

へえ、と思った。意外……とまでは言わないけれど、塚原はこんな風にあからさまに話題に出される人物ではないだろうと勝手に思っていた。

「……たぶんいないだろ。訊いたことないけど」

「マジか! そっか!」

「つっても絶対じゃないぜ」

「まあなあ。俺もそう思うよ。けど気になるのは仕方ねえしさ」

「ふーん」


 その後も似たような話をいくつか松谷は耳にすることになった。塚原の「かわいらしい」外見や邪気のない言動、風呂場で見せる謎の色気(これは松谷にはよくわからなかった。塚原に対してやや同情の思いがある)などが同年の寮生の一部を魅了してしまったらしい。さらに最近になって入学当初から「イケメン」と噂される恩田と親しくしている様子で、ますます注目されるようになっていった。


 元々塚原は、寮内に友人と呼べる人間がいないようだった。出身中学が同じ生徒もおらず、放課後も休日も部活に明け暮れていて作る機会がない、というのが一番の理由だろう。クラスにはもちろんいるようだが、寮は生活の場だ。一人で行動することを恐れる性格でもない。唯一松谷だけが同じ陸上部という接点で共に食事をしたりしているだけだった。

 そういうわけで、そんな塚原が恩田と親しくしているという事実は、塚原に好意を抱く彼らにとって良くも悪くも衝撃だったらしい。



 松谷が初めてその様子を寮内で見たのは、朝、洗面所の傍を通ったときだ。

 大きな鏡といくつかの洗面台が並んでいる一角に二人はいた。ドライヤーを手に塚原の髪を整える恩田。にっこり笑って礼を言う塚原。ちょうど人の少ない時間帯のせいか、その姿を見た者はそう多くなかったようだけれど……もう外は明るいし、日の光が窓からたっぷり入ってくる。はっきり言って丸見えである。

 おい。マジかよ。

 それには流石に松谷も目のやり場に困った。飼い犬と飼い主……いやそれ以上にもう、恋人同士としか見えず、こちらの方が気恥ずかしくなってくる。驚きに言葉を失い、声をかけることすらできない松谷に気づかず、二人はそのまま洗面所を出て、一階の奥(おそらく塚原の部屋だろう)へ揃って向かう。

 あけっぴろげな性格、と言っても限度があるだろう。これではそういう性質を持つ同室らの話題に上るのも無理はなかった。



 塚原に忠告をしたのは、単純にそんな彼が心配だったためと、彼がどの程度に免疫があるのか確認しておきたかったからである。

「……はあ?」

 案の定、塚原は驚いて買い出しのコンビニの袋を取り落とさんばかりだった。免疫あるなしどころか、青天の霹靂だったようだ。

「要は告白されてもちゃんと断れってことだろ? 大丈夫だよ! 全力で断るよ! キモいじゃん!」

それでもその一言がちくりと胸に刺さる。顔も知らない同室の友人を思いやって、松谷は内心肩をすくめた。


 どうも望みはなさそうだぞ。残念だけど相手が悪かったな。

 同情半分、けれどその一方で奇妙に安心している自分がいた。いつも朗らかで闊達な彼には、愛だの恋だのという艶っぽい顔など似合わないと思っていたからだ。性欲とはまた違う、何ともいいがたいねっとりしたもの。もしそんな別の顔を塚原が持っていて、これまで松谷に気づかせないほど器用であったなら、それこそ恐ろしいことだ。だって、彼が女に目を奪われる様子ですら想像つかないのだから。けれど、そんな心配は杞憂だったようだ。



 十二月も中旬に入り、部活も試験休みとなった頃、松谷はその噂を聞いた。

「恩田が塚原の部屋へ夜這いに行っているらしい。付き合っているかどうかはわからないが、とりあえず身体の関係はあるらしい。塚原の部屋のドア付近で二人が抱き合うのを見たという寮生がいる」

 驚きよりもやはりか、という気持ちが強かった。洗面所のあの光景を見れば誰でも考えることだ。夜這いというのは初耳だったけれど、それも松谷には容易に想像がつく。きっと何か用があって、夜に恩田が塚原の部屋を訪れたのだろう。塚原には同室はいない。本人たちにその気があるかどうかは関係ない。


 すぐに本人に真偽を問うたが、その反応もやはり予想通り。

「本当に寝てただけで、何もないって」

「だってあんな寒いラウンジで一晩過ごしたら、凍え死ぬと思って」

 松谷はてっきり恩田が塚原に惚れたのかと思っていたけれど、違ったらしい。だとすれば彼の行為は軽率すぎる。そう説明しても彼を庇おうとする塚原の態度に、何ともいいがたい淡い感情の色を見て、松谷は少し嫌な予感がした。


 知らない方が楽なのかもしれないけれど、周りはもう放っておかないだろう。

 苦味が口の中に広がっていく心地。何色かもわかっていないその感情を塚原はきっと持て余すに決まっている。そしてその正体がわかったら最後、苦しむしかない。好きな人がいるのだと恩田が彼に告げた以上は。



 それから坂道を転がり落ちるように塚原は元気を失くしていった。年末のお笑い番組もうわの空、三学期が始まってからはほとんど口をきかない。

 やっぱりか。

 じり、と胸のうちで何かが焦げつく音を聞いた気がした。


 そもそも好きな男がいながら平気で他の男と同じベッドで眠り(何もしなかったにせよ)、翌朝あんなに仲睦まじく髪を整えることまでやってのける男の一体何がいいのか。不誠実なだけではないか。松谷からすれば恩田に抱く印象はそんなものだ。塚原が毎日辛い気持ちを抱えて顔を合わせるほどのものでもない。


 そうはいっても恋をしていては論理的思考はまったく無意味だ。日を追うごとに少しずつ携帯電話に入る塚原からの着信が途切れ始める。食事を取らないという日もある。話しかけても返事がない。

 松谷の目には、塚原が里親と引き離されてペットショップへ売られてしまった子犬にも見える。恩田が唯一の存在と思って疑わず、不在を嘆き悲しんで黙々とケージの中をうろつく子犬。当の里親の方は順調に恋を叶えて幸せを満喫しているというのに。

 胸くそ悪い。恩田もそうだが悲しむ塚原も。


「うぜえんだよお前の最近の態度」

叩けば何かしら反応を見せるだろうという思いも半分、本音半分で言葉を放てば、やはり強がりな反応が返ってくる。けれど、もう彼も限界のようだった。

「……おれが恩田にふられただけだ」


 ――こいつ、恩田に、告白したのか。


 さすがに松谷も少々驚いた。それほどに恋しく思っていたとは予想外だった。思いを告げるということは、自分の気持ちを理解して、尚且つ相手へそれを乞うたということだ。叶わないとわかっていても、言わずにいられなかったということか。馬鹿なことを。

 驚きから覚めた後は、胸くそ悪い気持ちがさらに増した。泣きたくもないだろうに、涙をこぼしながらそう告げた塚原を見たとき、松谷は決めた。彼を引き寄せ、その頭を胸に抱き寄せる。

 里親が手放したなら、あとはご自由にってことだよな。それなら自由にすることにしよう。



 里親に売られた子犬を、松谷は引き取ることにした。部活はもちろん、寮での食事や風呂にも付き合う。これまで塚原がどこで何をしようと気にしなかったところを、積極的に干渉することにした。塚原も初めは反発したが、そのうち受け入れることにしたらしい。こちらにしっぽを振ってくれるわけではないけれど、手ずから与えるえさは食べてくれるようになった。


 五回寝坊した罰ゲームとして「陳餃子」でたらふく食べた帰り。ようやく塚原は笑った。商店街の安っぽい照明に照らされ、安心したような、けれど少し困ったような笑顔。

 ――ああ、やっぱりこいつは笑ってた方がいいな。

 当たり前のことを当たり前に理解する。松谷の頭の中で、笑顔の彼を引き寄せて抱きしめ、優しく頭を撫でてやる想像が浮かんだ。笑いがこみ上げてくる。塚原や甲斐に見られないように前を向いて、松谷はひっそり笑った。

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