春休み

 短い春休みもあと一日となった夜のこと。夕食と風呂を済ませたつかはらゆうの部屋へ、おんりゅうせいがやってきた。二人が恋人同士になってから、こうして消灯の時間までの間に塚原の部屋で過ごすことは日課になっていた。そのまま塚原のベッドで共に眠ることもあるし、恩田が自分の部屋へ帰ることもある。春休みも連日陸上部の部活に明け暮れている塚原にとっては、二人きりで過ごすこの時間は貴重なものだった。


「やっぱ、夜はまだ寒いな」

そう言いながら、恩田は既にベッドに入って座っている塚原の隣に腰掛ける。

「廊下は空調あんま効かないから。消灯過ぎたら切られるし」

 ほら、と肩に掛けた布団を塚原が持ち上げる。恩田はうれしそうに笑って中に入ってきた。触れ合う腕が少し冷えている。塚原は自然に恩田に身を寄せ、彼の冷えた腕を自分の腕で抱く。いつもの彼の匂いを感じて、胸が温かくなる。

「あったかい」

くすくすと恩田は笑う。その表情が優しくて、塚原も笑った。

「……だから真冬にラウンジで寝るなんて、無謀だったんだよ」

「そうだな」笑い混じりに恩田がうなずく。「お前が来てくれてよかったって、今でも本当に思ってるよ」

 恩田が反対側の腕を伸ばし、塚原の頬を包む。それを合図にお互いに顔を近づけ、相手の顔を見ながら唇を重ねた。乾いた唇。恩田の瞳の中に自分の姿が映っていて、塚原は少し照れくさくなる。けれどキスの感触は淡く心地良く身体をしびれさせ、たった一度では到底物足りない。目を閉じ、何度も角度を変えて優しくついばみ続けた。ちゅ、という音を聞く。


 春が過ぎて、夏が来れば、暑くなる。こうして布団に二人でくるまるなんてこともなくなるだろう。暑くなれば、今のように相手に触れたいとか、相手の温度を感じたいと思うことも少なくなるのだろうか。あまり想像がつかない。そのときまで恩田と恋人関係を続けられていたら、の話だけれど。


 めくれた袖からのぞく恩田の白い手首。日に焼けて小麦色になっている自分の手首が並んでいるのを見ていると、その色味の違いを改めて感じる。

「恩田って、色白いよなあ」

「うん?」

「日本人って、だいたい黄色人種じゃん。恩田はなんか、白人みたいに白い。日焼けとかしないだろ」

「夏は多少するよ。けどまあ、確かに白いってよく言われる」

恩田も塚原と同じように二つの手首を見比べる。

「塚原は焼けてんなあ」

「ずっと外にいるからな」

「でも今の時期ジャージ着て走ってるだろ」

「夏に日焼けして、それが冬になってもあんまり戻らないんだよな、俺」


 恩田の手が塚原の腕をゆっくりとなぞって、手のひらを優しく掴む。指を絡ませて手をつないだ。どきりとする。その手つきがなまめかしく感じて、頬が熱くなる。恩田はそのまま白い指と小麦色の指が絡まる二つの手を持ち上げて、小麦色の肌に口づけた。唇で触れ合うよりもそれは柔らかい。

「……由太」

 塚原の耳元で恩田がささやく。その声は先ほどの手つきと同じく、甘く誘う色があった。話をするのもいいけれど、今はもっと触れたい、というような。二人きりのときはお互い名前で呼び合おうと決めたのはつい昨日のことだ。

「なに」

 本当はその誘いを心待ちにしていたから、塚原は少し気恥ずかしかった。けれどうれしいことに違いはない。恩田の方を振り向き、乾いた鼻先をすりあわせた。そのまま唇をとらえる。


 空いている方の腕でお互いの身体を抱きしめると、掛け布団が音もなくずれ落ちた。キスを続けながら、恩田が器用に掛け直す。

「ゆうた、」

「なに」

「口開けて」

「くち?」

意図が読めないまま開いた唇に自分のそれを沿わせて、恩田はその中にそっと舌を滑り込ませた。塚原の舌に触れると、抱きしめていた身体が身じろぎした。

 もしかして、こういうのは初めてだったりするのかな。

 相手の様子にそう思い至ると、単純にうれしくなる。煽られる。恩田は心の中で苦笑した。塚原の初めてをすべて独占したい、自分のことだけを心に刻ませたい、と普段は抑えている欲望が鎌首をもたげてくる。


 反射的に身を引こうとする背中を軽く叩いてなだめてやり、動けないでいる彼の舌をゆっくりと絡めとる。上から下まで歯列をなぞり、唾液を飲み込む。鼓動が早まり、ひとつひとつの感触が快感を生み、恩田の身体中に熱を起こす。

「ん、ん、」

 塚原は必死になって恩田にしがみついていたけれど、とてもその行為に応じられる余裕がなかった。想像以上の生々しい感触に、頭の中が侵されそうになる。唇を合わせるだけの快感とは比べものにならなかった。恩田の舌が口の中をゆっくりとかき回す。自分の舌を絡めとられて丁寧に舐められる。熱い感触。身体も心も彼に一気に塗り替えられ、芯から熱く高ぶり始めるようだった。早い鼓動は耳の奥にまで響き、つないだ右手も抱きしめる左手もおぼつかない。ただ口の中の感触だけに翻弄されていく。


 いつの間にかベッドに横たわる形になっていた。覆い被さる恩田の顔が離れて、ようやく息をつく。恩田の口から糸が引いていて、それがお互いの唾液だとわかった瞬間にまた一段と腰がずきりとうずいた。恩田がすぐに口づけてそれを絡めとる。

 仰向けになって部屋の天井を見上げる塚原の耳元で、深い呼吸の音がする。恩田が自分を抱きしめて、その傍に顔を埋めているのだ。背中に回ったその指先までもうすっかり温かくなっている。たぶん、自分の呼吸の音も恩田に聞こえているだろう。それを恥ずかしいと思う余裕すら塚原にはなかった。

「……おんだ、」

 身体を仰向けたまま首だけを動かすと、彼は抱きしめる腕をそのままに、塚原の横に寝転んだ。透き通った瞳でじっと塚原を見つめる。

「……えと、りゅうせい」

言い直すと、恩田はにっこりと笑って塚原の額に口づけた。

「こういうキスは、初めて?」

「……やったことない。こういうエロいの」

こういうキスの仕方は知っていたし、映画やテレビドラマで観たことはあったけれど、実際にやったことはなかった。中学のときに付き合っていた彼女にさえ、仕掛けたことはない。一気に頭が沸騰して、全身の欲望が引きずり出されるようだった。

「エロい?」

「え、エロくない?」

「……まあ確かに」

恩田はおかしそうにくすりと笑った。そのあとで少し眉根を寄せる。

「ごめん。やっぱりきつかった?」

「いや、全っ然うれしい」

赤い顔のまま、塚原はにっと笑った。恩田も安心したような笑顔になったのがまたうれしくて、そっと唇を合わせる。

「好きだよ、隆生」

「俺も、由太が好きだ」

温かい気持ちが胸いっぱいに広がる。塚原は腕を伸ばして、恩田の身体を引き寄せた。まだ落ち着かない鼓動が心地良い。ぴったりとくっついた相手の匂いを感じて、甘い気持ちがどっと胸にあふれ出してくる。恩田の匂い。

 ああなんか、ものすごく気持ちいい。何だろうこれ。ずっとこうしてたい。

 日を追うごとに自分が欲張りになっていく気がする。それが少し塚原には気恥ずかしい。ほんの数週間前には、恋人になることすら望めなかったのに。


「あさってから新学期か」

 恩田は彼の頭にあごを乗せてつぶやいた。

「たぶんクラス別れるよなあ。ちぇっ」

「俺たち?」

恩田が訊くと、塚原がうなずく。

「だってどうせクラス替えなんて成績順だろ」

「……そうかなあ」

と恩田は受けた。心の中ではおそらくそうだとわかっている。わかってはいても今それを口に出して同意すると、つまらない現実が確定してしまう。塚原相手であっても抗いたい気持ちがあった。

「わかんないじゃん。そういうの三年からかもしれない」

「ええ、そうかあ?」

「それよりさ」と考えたくないことは都合良く頭から追い出し、ついでに目の前の彼にキスを一つ。「寮にも後輩入ってくるな」

「隆生の後輩も来る?」

キスよりも話の内容に興味を持ったらしい。塚原は照れる様子もなく訊き返してきた。

「何人か受けるってのは聞いたけど結果は知らない。由太の方は?」

「あー無理無理。俺レベルの秀才が現れない限りは」

「ほう」

そう言うと、塚原ははっとした様子で慌てた声を出す。

「あ! いやあの、うちの中学ではって意味だから! 別に俺が秀才って言ってるわけじゃなくて、」

「わかってるわかってる」

顔を赤くしてまくしたてる彼がかわいくてたまらない。指を伸ばして髪を梳くように撫でてやる。塚原はなんともいえない複雑な表情を浮かべて口をへの字に曲げた。


 ああ、困るなあ。

 目の前の恋人の表情を見ながら恩田は思う。

 彼と話をするのは楽しい。色々なことを話したいし、他愛ないことで彼が笑うのがいとおしい。けれどキスもしたいし、もっと触りたいし。

 何もかも足りない。全部全部、もっとしたい。かき集めて飲み干したい。ああもう、一体どれから叶えればいいのだろう。


(終)

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