入学式

 晴れやかな日だった。真新しい制服の匂いに心が少しだけ高揚する。快晴の空の下、おんりゅうせいは大きく伸びをして、校門をくぐった。隣で歩くのは学生寮で同室となった甲斐かいだ。

「晴れたね。もう暑いくらいだ」

「昨日まではそうでもなかったよな」

「春だもんねえ。天気が気まぐれ」


 他愛ない会話を交わしながら、それでもお互いのぎこちない表情に緊張の色を見いだして、二人は苦笑した。

「まあ、よかったよね。たまたまとはいえ、お互い好きな人と同じ高校来れてさ」

「……あんま大きい声で言うなよ」

 甲斐とは中学三年のときに初めて同じクラスとなって、仲良くなった。それでも当時恋愛に関して話したことは特になかったのに、この三月に学生寮に入り、同室になって三日のうちにその辺りのことを洗いざらい吐かされてしまった(その代わり、彼の恋愛事情も事細かに知ることとなったけれど)。うれしそうにはしゃぐ甲斐に他意はないのがわかっているけれど、慣れない上に恥ずかしい。中学では、自分の恋愛指向について誰にも打ち明けてこなかったからだ。


 佐野先輩が、この学校に、寮にいる――

 その一点だけでも受験勉強に費やした時間は無駄ではなかったと、恩田は感慨深く思うのだった。


 恩田がこの高校を受験することを希望したのは、決して父親を真似てのことではなかったし、ひろの存在も関係なかった(つもりだ)。とりあえず親元を離れてみたかった、という思いが一番だった。とはいえ、普通は多感な時期に男子校へ進学、しかも学生寮に入る――となると親は大変心配するものだ。その上学費も馬鹿にならない。たぶん許可してもらえないだろうけれど、言うだけ言ってみよう、という気持ちで恩田が話したところ、意外にも父親は驚きに瞬きを繰り返しながらも承諾したのだった。なんとこの高校出身だったのだという。

「いいだろう。男子校だが、レベルは高い。有名大学への受験対策も万全と言うじゃないか」

「……ありがとう」

 その表情を見るに、彼は息子が自分の母校を選んだことを喜んでいるようである。父親と同じ、と言われるとなんとなく面白くない気分がしたけれど、希望しているのは事実だ。改めて頭を下げ、その後母親に手続きなどを頼んだ。


 母親の方はといえばあっさりしている。

「寮に入るのね。淋しいけど、たくさんお友達作ってね」

息子が毎日楽しく元気で暮らしてさえいれば、どこの高校に進学するかなんて彼女にとっては些細な問題でしかないのだった。ついでに言えば、願書を出す時点でもう合格して入学が決まったように思っている。

 改めて自分の両親が近所の人から「似合いの夫婦」と言われるのは外見だけなのだな、と実感したものだった。



 体育館での入学式を無事に終えた新入生たちは、出口に貼られたクラス割りを確認して下駄箱に靴を置き、それぞれの教室へ別れる。恩田と甲斐も廊下で別れた。

 少々緊張しながらも他の生徒に紛れて一年二組の教室へ入る。きれいに並べられた机の列の中で、見知った顔があった。どれも寮で顔を合わせた、同じ中学出身の生徒だ。

「おう、恩田」

「お前も二組か」

「うちの学校からは何人合格してんの?」

「さあ。そんな多くないんじゃねえかな」

「うちのクラスじゃ三人だけか」


 そんな会話が恩田たちのあいだだけでなく、どこからも聞こえてきて、教室内は騒がしい。早くも自分の教室を飛び出して他のクラスに遠征する者もいる。十時半から各教室でオリエンテーションが予定されていた。その一分前くらいになると、生徒たちは誰からともなく大人しく席につき始める。さすがに初日から先生に怒られるのも楽しいことではない。


 けれど。

 教室内に響く声が小さくなったそのとき、ドアを開けて入ってきた生徒がいたのだ。開け放した窓へ空気が通り抜け、小さな風が起こる。

「……あ」

 寝癖のついた短い黒髪。意志の強そうなはっきりとした目鼻立ち。細身の身体。明らかに制服を着慣れていないと思われる、歪んで結ばれたネクタイ。息を弾ませていて、そのこめかみから汗が一筋流れ落ちている。急ぎ走ってこの教室に駆け込んだのは間違いなかった。教室内にいる生徒が全員、彼に注目した。その視線を受けて、彼はぱっと顔を赤く染める。


「君、」

 声が響いて、今度は赤くなった生徒の後ろから入ってきた人物に全員の視線が移る。白髪に白いひげを生やした男性だった。ベージュのスーツを着ている。

「今日は席が決まってないから、空いているところに座りなさい」

穏やかな声でそう言って、立ったままの黒髪の生徒を促す。「すみません」と彼は慌てて空いていた前方の席についた。男性の方は、教壇に立って声を出した。

「皆さん、初めまして。今日から一年間君たちの担任を務める、と言います」

三木という先生が黒板に名前を書く。振り返るとにっこり笑ってみせた。

「何か困ったことやわからないことがあったら、遠慮なく訊いてください」

まるで小さい子供に言い聞かせるような口調に、かえって生徒たちは居住まいを正した。彼らの誰もが思いつく「祖父」のイメージそのままだったからである。


「ではまず、一人ずつ自己紹介をしていきましょう」

 恩田は五十音順で六番目だった。出身地と出身中学、寮生であることを述べて「よろしくお願いします」と頭を下げる。ぱらぱらと拍手が起こった。

 次々と生徒たちが自己紹介を続けるのを聞きながら、恩田はぼんやりと、クラス分けは成績順ではないらしい、と見当をつけた。運動部出身、中学の大会でかなりいい成績を残した者もいれば、有名な私立中学出身者もいる。恩田と同じ中学の生徒も、試験の手応えは個人差があったようだ。さすがに机にじっと座っていられない、というような人物はいないようだけれど。

 二、三年で徐々に分けていくのかな。

 おそらくここの高校に入学した生徒のほとんどは卒業後進学するのだろう。そう思っていると次の生徒が立ち上がった。まだ頬に赤みが残っている、最後に急ぎ教室へ入ってきた黒髪の生徒である。


「えっと、つかはらゆうです。寮生です。あの、中学では陸上やってました。ランニング。長距離の方で」と続いて出身地と出身中学を述べる。聞いたことのない中学だった。寮生と聞いて、恩田は学生寮に入ってからの数日間を思い返したけれど、記憶になかった。


 たぶんあいつ、遅刻したんだよな。先生は他の生徒の手前、何も言わなかったけれど。

 緊張した表情で言葉を継ぐ様子や、汗が引かないらしくシャツを引っ張ってばたばたとあおぐ様子はなんとなく垢抜けない印象を受ける。けれど黒い瞳は窓から差し込む日の光をきれいに反射していた。

 ふと目が合った。彼は一度目をみはって恩田を見、落ち着かない様子でまばたきを繰り返し、目を逸らす。また頬が染まった。



 オリエンテーションが終わって帰り際、恩田は教室を振り返った。思った通り、あの塚原という生徒は三木先生の前に立たされている。何度も頭を下げている様子からして、注意を受けているのだろう。その後ろ姿が殊勝なもので、不思議に思った。

 あんなに申し訳なさそうにするくらいなら、遅刻なんてしなければいいのに。

 寮生であれば、学校は目と鼻の先だ。遅刻する要素なんてひとつもないだろう。


 その後寮の食堂でも、恩田は彼を見かけた。寮生というのは本当だったらしい。広いフロアに置かれた長テーブルを囲んで、たくさんの生徒がそれぞれ騒がしく話の輪を作っている中、端の方、たった一人で夕食を食べている。

 声かけた方がいいのかな。

 恩田は夕食を乗せたトレイを手に足を止める。同じクラスで数時間前によろしく、と言い合った間柄なのに、ここで知らないふりをするのも少々他人行儀な気がする。


「恩田ー、ここ」

 けれどそのとき、甲斐の声が聞こえた。振り返ると、彼は目の前のテーブルについていた。「うん」と応じてとりあえず向かいに座る。トレイを置くと温かいカレーの匂いが一際強くなった。お腹が鳴る。

「いただきまーす」

「……いただきます」

「そういえば、佐野先輩がどこの部屋かまだ訊いてないの」

「だから声が大きいって」

「番号知らないんでしょ。食堂にいる今がチャンスじゃん。どっかいるんじゃない? 声かけなよ」

「そう言うお前の先輩は、」

「この後ちょっと行ってくる。先に風呂行ってていいからね」

「……はいはい」


 まあいいか。そのうち話す機会もあるだろう。同じクラスでもあるし。

 恩田は気を取り直してスプーンを掴み直し、食事に取りかかった。


(終)

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