松谷

 彼に触れられた感触がまだ肩に残っている。塚原はベッドの中で膝を引き寄せ、数日前夜中に突然部屋にやってきた恩田の姿を、また脳裏に反芻していた。

 塚原が盗難に遭っていないかと心配してやってきたと言った。その優しさと、彼が塚原のことを少しでも考えてくれたということが、とてもうれしかったし、同じだけ苦しかった。


 最近は身体の中を荒れ狂っていた感情の激流は落ち着いてきていたのだ。このあいだ罰ゲームで「陳餃子」へ行ったとき、声を立てて笑えるくらいには。けれどそれは激流が塊になって心のうちにこごっただけで、なくなったわけではなかった。彼と会って、それを再確認させられた。


 塚原は長い息を吐いて、寝返りをうった。

 今後部屋の鍵を開けておくなんてことは二度としない。まさか本当に自分が焦がれる人がやってくるなんて思いもしなかった。そして一度やってきた以上、二度目を期待してしまう自分を塚原は止めることができなかった。だから自分で鍵をかけておけば、二度目はないとはっきり確信できる。


「それでも、」

 それでも期待するんだろうな。音にならなかった声がもれる。何をやっていても彼へ向かってしまう自分の心の動きに、そろそろ慣れてきてさえいる。

 たぶん、俺か恩田が寮から出るとか、二年になって別のクラスになるとか、高校を卒業して別々の進路を行くことになるとか。そうでもしないとこの気持ちは消えることはないんだろう。

 厄介なことだった。けれど、その厄介さも塚原は噛みしめていた。



 二月に入ると、こごった気持ちを抱えながらも、塚原は徐々に平静を取り戻していった。

「おはよう」

「おう」

遅刻することもなくなったし、恩田とも挨拶くらいは交わせるようになった。もちろんそれ以上の話をすることは未だできはしなかったし、笑顔を作れるわけでもなかったけれど、進歩といえば進歩だった。少なくともクラスメイトから大丈夫かと訊かれることはなくなった。


 教室に入れば必ず恩田と目が合う。それは彼の方でも塚原の存在を頭に置いている証拠であって、何とも言えない心地を塚原にもたらした。自分の席について椅子の背にもたれて天井を見上げ、目を閉じる。最近、こうすると心が静まるのだ。



 そんなある日の放課後、校舎を出て部活に向かう途中、視界に見慣れないものがうつり、塚原は校門へ目をやった。

「……女子だ」

 数人の女子学生が校門のところに立っていた。あれは確か塚原たちの高校と同じ街にある女子校の制服だったと思い当たる。五月の文化祭でも、九月の体育祭でもよく見かけた姿だ。二つの高校は経営者が同じらしいと母から話を聞いたことがある。彼女たちは寒さに頬を赤くしながら熱心におしゃべりをし、笑って身体を揺らしていた。


「松谷、女子がいる」

 休日も部活で、めったに遊びに行くことがない塚原にとっては(同じ年代の)女性をまともに目にするのは半年ぶりくらいである。まるで動物園で珍獣を発見したような口調で言い、半歩先を歩く松谷のウインドブレーカーの袖を引っ張った。

「ああ、ほんと」

彼も興味深そうに校門を見やる。そのまま三秒ほど視線をとどめたのは、おそらく品定めをしたのだろう。塚原も同じだった。彼女たちはその校風もあり、溌剌さよりも品の良さがまず感じられる。塚原の個人的な好みとしてはどちらをより多く備えていようが気にはならなかったから、その数人の中から美人というほどではないけれどそこそこ目鼻立ちが整っていて、脚がすんなり細い子へ単純に目が留まった。


 あの脚がいいなあ。細いけどちゃんと引き締まってて。

 スポーツをする女性の方が云々、なんてかなり不謹慎な知識も頭によぎる。

「……右から二番目」

「げっ、かぶった」

目が合わないかと彼女にピントを合わせた瞬間に松谷から声を投げられて、途端に塚原は顔をしかめた。


「今日バレンタインだからな」

「あ、そういうこと」

 そんなイベント事なんてすっかり忘れていた。とりあえず今週は二年の先輩たちが修学旅行でおらず、松谷と二人、部活ものんびりできるかなということくらいしか考えてなかった。

「でも、二年は修学旅行だし、三年もあんまし学校来てないし。チョコとか渡せんのかな。わかってんのかなそういう相手の予定」

まったく他人事ながら、塚原は思ったままを口にした。

「そのくらいはわかってんだろ。女子って誰か一人知ってればみんな知ってるもんじゃん。たぶんあれ、一年だよ」

いつものそっけない言い方だけれど、松谷もいちいち答えている。

「そっかー……」


 去年、当時付き合っていた彼女とはバレンタインデーを迎える前に別れた。今までチョコレートをもらったことがまったくないわけではなかったけれど、妙にむなしい気持ちになったものだった。すっかり、忘れていた。



 いつもと同じ練習メニューを松谷と二人でこなし、部室に戻ったときには七時を回ろうとしていた。自分のロッカーから荷物を取り出し、汗に濡れたTシャツを着替える。跳ねた水滴が、打ちっぱなしのコンクリートの床にしみ込んだ。身体の内側は熱く、表面の皮膚は冷えきっている。ペットボトルの水を一気にあおった。


 静かな室内でバサバサと音がした。隣の松谷が手元を誤ったのか、ロッカーから荷物を取り落としたのだ。塚原は足元に落ちてきたスポーツバッグを拾ってやる。

「あ!」

その開けっ放しのスポーツバッグの中から、真新しい紙袋が転がり出て、塚原は思わず声を上げた。深い緑色の上品なそれは、他の荷物のあいだに押し込まれていたらしく、ぐしゃぐしゃにひしゃげている。


「ああ」

塚原が訊く前に松谷は答えた。

「もらった。昼休みに」

「女子校の子か」内心で受けた衝撃がそのまま声に出てしまったけれど、今更飲み込めない。しかも昼休みとか。それって呼び出されたってことじゃん。その子の連絡先知ってるってことじゃん。

「そう」

「……お前ほんと腹立つな」

「なんでお前が腹立つんだよ」

「さっきいかにも他人事って感じでしゃべっちゃって。ちゃっかりもらってんじゃねーかよ」

 何が『たぶんあれ、一年だよ』だ。すでにもう知っていたのだ。

「お前の方こそ忘れてたくせに」

 松谷は塚原の手からスポーツバッグを奪い、ひしゃげた紙袋を取り出した。それを言われると反論できない。寮のカレンダーを見たときには思い出したかもしれないけれど、授業を受けるうちに忘れていた。


 着替え終わったらしい松谷は、そのままベンチに腰掛けて紙袋から中身を取り出し始めた。興味津々で塚原も隣に座ってのぞき込む。きれいに包装された箱には見たこともない洒落たブランドロゴが印字されていた。

「なんだ、手作りじゃないのか」

拍子抜けした。こういうときは愛を込めて自分で作るものではないのか。わざわざ昼休みにここまで遠征してきて、義理チョコなんてこともないだろうに。

「面識なかったからな。向こうも色々考えるんだろ」

「えっ、知らない子なの」

「知り合いづてに呼び出されたんだよ。こういうのって顔も知らない女が手作りしたチョコとか気味悪がるやつもいるから、その辺考えたんじゃないの」

それこそ他人事のように松谷は淡々と説明する。偉そうに、と塚原は思わなくもなかったけれど、それは今に始まったことでもないので黙っていた。

「へえー…」

「それか料理が下手とか」

そういう実情なんて考えたこともなかった。訊くまでもなく、その女子から告白を受けて断ったのだろうということは知れた。もし付き合うことになったとしてもこの男の態度は変わらないかもしれないけれど。


 松谷は箱から取り出したトリュフを無造作に口へ運び、うなずきながら味わった。興味を満たして立ち上がろうとした塚原に、一つ差し出す。

「食う?」

「いやお前が食えよ」

顔をしかめて拒否するけれど、松谷は箱の中身を示す。

「だって十二個も入ってんだもん」

「お前に十二個食わせたいんだろ」

「俺こんなに食えないもん。半分」

仕方なく肩をすくめて塚原も丸いトリュフに手を伸ばした。表面にはココアパウダーとさらに細かな金箔もアクセントにまぶしてあった。口に入れると上品な甘さと微かな苦みが口に広がる。あっという間に口の中に溶けて消えていった。

「あ、うまい」

「うまいよな。金箔ついたの初めて食べた」

「高かったんだろうなあ」

「うん」


 そんなことを二人でつぶやきながら次々にトリュフを片付けていく。時折強い風が部室の窓を叩いた。甘いものを口にすると少し元気になる気がする。

 恩田もチョコもらってたりして。

 性懲りもなくまた塚原は考える。あれだけイケメンだもんなあ。ていうか恋人のあの人もイケメンだし。二人で女子校の前とか通ったら、蟻みたいに女子が群がるんじゃねーかな。……チョコだけに。少し笑ってしまう。そういう想像は嫉妬の気持ちから来ているわけではなかった。恩田の恋愛対象は男だと知っている。

 彼はきっと困ったように笑いながら、けれど断るなんてもちろんできず、何度もありがとうと言いながら、一人一人に受け答えするのだろう。そう思うと微笑ましく、からかってやりたい気分にさえなる。


 二人とも同時に最後の一つを平らげた。指についたココアパウダーを舐め取る。苦みはこのココアパウダーせいだったのか、とそのとき気づいた。

「塚原、」

するとその手を松谷に取られた。彼と目が合う。

「ん?」

松谷は塚原の手についたココアパウダーを指でぬぐいとると、自分の舌先に乗せた。「おい」と驚いて声を上げた塚原に構わず、何度か同じように繰り返す。ついに塚原の指についていたココアパウダーはきれいになくなった。

「……なにしてんのおまえ」

手を引こうとするけれど、松谷は離さなかった。また塚原に目を合わせる。


「塚原さ、」

「何だよ。離せ」

「俺と付き合う気ない?」

「はあ?」

 いつもと同じそっけない口調で、あやうく聞き逃すところだった。

 今こいつなんて言った?

「付き合うって、」

「コイビト」

「何言ってんの」

「別に冗談じゃねえけど」

「な……」


 驚きすぎて声も出ない。まじまじと目の前の男の顔を見る。彼の表情に変化はなく、その目もからかうような光はなかった。塚原はうろたえた。また手を引くけれど、松谷は離さない。むしろ塚原の方へ近寄ってきた。

「え……マジで言ってんの」

「だから冗談じゃないって」

「え、なんで」

「なんでって、……別にいいかなって」

 別にいいかな? 何の話してんだこいつ。

「何か前、俺は対象外とか言ってなかったっけ」

「うんまあ」

「自分に興味ない男は興味ない、とか」

「言ったかも」

「……何言ってんのお前」

「まあ、だからお前がよければ付き合ってやってもいいって」

「……万が一お前に気があってもその言い方むかつくな」


 露骨に顔をしかめた塚原を見て、しかし松谷はこたえた様子はなかった。塚原の手を両手で包む。どきりとした。

「その気がなくても別にいいんじゃない」

「は……」

「淋しいだろ」

「何が」

「お前だよ」

「俺?」思わず自分を指差して訊き返す。

「淋しくない?」

不意に手を引かれた。バランスを崩した塚原は、そのまま松谷に抱きとめられた。心臓がひときわ大きく跳ねる。

「なに……」

 松谷はいつの間にかベンチにまたがって座っていた。いとも簡単に塚原をその腕の中に捕まえて、耳元に口を寄せる。

「誰でもいいから抱きしめてほしいとか思わない?」

「っ……」


 何してんだよ、と咄嗟に押しのけようと思ったけれど、身体が動かなかった。小さな痺れのような感覚が全身に広がって、脳の命令がうまく手足に届かない。自分ではない他の人間の身体が密着している。腕が確かに背中を、腰を支えている。冷たい耳に耳が、胸に胸が接している。そこから伝わる生々しい息づかいに不覚にも胸がつまった。

 心のうちでこごっていた塊の一部が溶けて、感情が再び全身へ流れ始める。夜のラウンジで恩田に告白したとき、焦がれるように望んだことが脳裏いっぱいに広がった。

 ――抱きしめてほしい、と。


 押しのけることもできず、口もきけなくなってしまった塚原に構わず、松谷は相変わらず淡々と言葉を続けた。

「なんかお前、淋しそうだし。その割に頑なだし。そういうお前見てるとまあ、そういうのもいいかなって。夜眠れないなら寝かしつけてやるし、朝起こしに行ってもいーよ。俺は別にお前と噂になろうが気にならねえし。泣きたくなったら気が済むまで泣かせてやる」

松谷の手が塚原の頭を撫でる。驚くほど彼の手つきは優しくて、混乱する。頬が熱くなっていくのを止められなかった。

「……意味わからん」

「まあお前のこと好きってわけじゃないけど、恋人にはなれると思う」

「好きでもないやつと付き合うのかよ」

「キスでもセックスでも、たぶんいけるだろ」


 そう耳元で言った松谷の唇の端が、そのとき意図したのか偶然か、塚原の頬に触れた。途端に全身を駆け上がる衝撃に耐えられなくなって、塚原は思いきり松谷の胸を押しのけた。けれど手が震えてうまく力が入らず、彼の腕を振りほどくことはできなかった。

「なに言ってんだよお前は! あり得ねえから!」

「ふーん?」

松谷は片眉を上げて挑戦的に応じる。

「だっ……だいたい俺男が好きなんじゃないし!」

声が情けなく裏返って、恥ずかしさにますます頬が熱くなる。塚原はもはや肩で息をしていた。頬に触れてくる松谷の手との温度差といったら。


「恩田のこと好きになったくせに」

「あいつは特別なんだよ!」

 そう言い返すと松谷は思いきり顔をしかめた。

「つーかあいつだけだもん!」

「うわ、その言い方むかつく」

顔をしかめたまま、松谷はやっぱり優しい手つきで塚原の頬を撫でる。

「……お前は俺と付き合ってどうすんだよ」唇を尖らせて目を伏せ塚原は訊く。

「別にどうも。今のところ好きな男も女もいないからさ。付き合ってもいいかなって思うやつがいるだけで」

「じゃあそいつと付き合えよ」

「だから今言ってんじゃねえか、お前に」


 塚原が顔を上げると、呆れたような松谷と目が合った。彼の言葉が意味するところの、真意が読めない。塚原の不信な視線を松谷は余裕を持って受け止めた。そのままじっと、相手の瞳の中をお互いにのぞき合う。切れかかった部室の蛍光灯の光がちらつき、瞳は時折真っ黒になったり、光をはね返したりした。先に目をそらしたのは塚原だった。

「……お前ほんと意味わからん」

「わからんならわかるまで訊けよ。全部答えてやるから」


 しばらくして、遠くで校内放送の音楽が流れてくるのが耳に届いた。大きく、小さく、反響する淋しい電子音のメロディ。最終下校の時間になったのだ。

「とりあえず帰るか」

 ぽん、と塚原の頭を一つ叩いてあっさり手を離し、松谷が立ち上がる。口をへの字に曲げたまま、憮然とした表情で塚原もそれに続く。急に解放された身体が冷たい空気に触れて寒かった。すぐにウインドブレーカーを羽織り、鞄を掴んで部室を出た。

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