恩田は一○○号室の部屋へ入ってすぐの壁、スイッチをまさぐって部屋の電気をつけた。光に慣れない瞳をどうにかこらし、隙間なく明るくなった部屋の中を見回す。見た限りでは特に乱れた様子はなかった。隅のベッドでたった今起き上がった部屋の主も。

「恩田?」

「塚原!」

スリッパを脱いで駆け寄る。彼を振って以来まともに話をしていなかったことに思い当たったけれど、それを気にしている場合ではなかった。充血した目を見はって驚いている塚原の両肩を掴んで問いただした。


「今、誰か部屋に来なかったか?」

「え? いや、誰も……」

「おかしな物音とか、何か盗られたりしてないだろうな?」

「俺、まだ起きてたし、何もないよ」

戸惑いながらも塚原は首を振る。恩田は深く息をついた。

「……そうか」

 こちらを見つめる彼の瞳に様々な色がひしめいている。それが何か確かめる前に目は伏せられた。恩田は手を離した。


「……何かあったの」

「今廊下歩いてたら、変な感じのやついたから。……お前の部屋の方角から逃げるみたいに走ってきてさ。年末辺り盗難に気をつけろって言われてただろ。ちょっと、気になって。……いきなりごめん」

緊急的な理由があったとはいえ、突然部屋に入ってしまったことは事実だった。今さらながら、気まずさに恩田も目を伏せる。

「……心配してもらって、ありがとう」

 塚原の小さな、けれどはっきりとした声に、恩田ははっと顔を上げた。

「部屋の鍵、忘れてた。明日からは気をつける」

「……うん」


 波立つ瞳の色とは反対に、塚原の表情は特にこれといった感情が浮かんでおらず、ただ静かに凪いでいるだけだった。けれど不意に彼は両手で目を覆って一度深呼吸をし、言葉を継いだ。

「……もう少ししたら平気になるから」

「……え」

そのまま両手がくしゃりと前髪を掴む。

「もう少ししたら、お前と話せるようになると思うから……ごめん」

だからそれまでは、今は話ができない。ここにいて欲しくない。塚原が言葉にしていない部分を恩田は正しく理解した。立ち上がる。

「わかった……」


 喉元まで「無理すんなよ」という言葉が出かかったけれど、それはとてつもなく余計な言葉であり、そもそも恩田が言うべき言葉ではなかった。部屋を出て、音を立てないようにそっとドアを閉め、階段へ向かって再び歩く。心のうちをひたひたと、冷たい何かが満たしていく。とりあえず塚原と彼の持ち物が無事でよかった。そう思った。

 けれど最後の言葉がどうしようもなくもどかしかった。わかっているのに。それが当たり前だってわかっているのに。そう思う彼の気持ちも、それをどれだけ苦しんで言ったかということも理解できるのに、苦しい。

 くぐもった固い音が響いた。塚原がドアの鍵をかけたようだった。



 階段を上がって二階、佐野の部屋へ着いた。控えめにノックをすると、すぐにドアが開いた。寝間着姿の本人が現れる。恩田は慌てて頭を下げた。

「すみません、遅くなりました」

「どうぞ」

 約束の時間を十数分遅れていたけれど、佐野はこだわる様子も見せず、恩田を部屋の中へ招き入れた。恩田たちの部屋と同じ広さで、それぞれ家具の配置もまったく同じだったけれど、本棚からはみ出した雑誌が積まれていたり、壁に貼られたたくさんのポスター、引っ掛けられている帽子やジャケット、トレーニング器具など様々な物にあふれていて、ここで過ごした彼らの年数の長さを表していた。先に座る佐野に倣い、ベッドを背にカーペットへ腰を下ろした。


 佐野の手が伸びて、恩田の頬に触れる。彼の目に引き寄せられるようにして唇を重ねた。心の中にわだかまっている苦しさが、柔らかい唇の感触に覆われていく。ふうん、と佐野が笑みを浮かべた。

「……凡人の悩みは解決してないらしいな」

 眉を上げて目で問われ、恩田は恐縮した。

「いえ、あの」

傍のベッドに片肘をついて、佐野がくすくすと笑う。彼がそうやって笑うと、いつでも華やかな雰囲気があふれて、周りのものを彩っていくようだった。もう片方の手で、彼は恩田の頭を優しく撫でた。


「まあ、今日は俺が無理矢理誘ったんだし。その気になれないなら帰ったっていいよ」

二人のあいだで、その台詞は一番あからさまな言い方だった。表情は恐縮したまま、恩田の顔は赤くなった。

「か、帰りませんよ」

「お前こうやって言うと意外と顔に出るよな」

「いやだって先輩が、」

「普段はすました顔してんのに。何か初めての子相手してるみたいで新鮮」

「それは先輩の方が慣れてるからでしょ」

 いつの間にか普段通りの会話に戻っていた。どちらからともなく顔を近づけて、また唇を重ねた。角度を変えて何度もついばむように軽く吸う。その度にちゅ、と小さな音がして、少しずつ心臓が高鳴ってくる。恩田は目を閉じてその感触に酔いながら、けれど脳裏にはついさっき見た、様々な色をひしめかせた瞳が消えずに残っていた。


「……先輩は、」口を離して恩田は声を出した。

「うん?」

「先輩は仲のいい友達に告白されたことってありますか」

 佐野はきょとんと鼻先の恩田を顔を見つめた後、あるよ、とうなずいた。


「男……ですか」

「男も女も」

「それって、付き合ったりしました?」

「いや。どっちも断った」

「…………」

「なんだよ急に。尋問か?」

面白そうに笑って尋ねる佐野に、恩田は首を左右に振った。今自分がどんな顔をしているか、きっと佐野に対して向けるにはあまりにも沈んだ顔をしているとわかっていた。思いつめたような顔。


「……断った後も、友達ですか」

 そう訊かれて、佐野は珍しく視線を流し、遠くを見るような目をした。長いまつげがそれをふちどっている。

「……女の方は、断った次の日から友達に戻ったな。男の方は……それっきり一言も話してない。顔も合わせてない」

静かな声でそう言った彼の瞳の中を何かがよぎったのかどうか、恩田には見極められなかった。このどうしようもないもどかしさと苦しさを、佐野も感じたことがあるのだろうか。そういうものだ、仕方のないものだと飲み込んできたのだろうか。

 けれど恩田はそれを訊かなかった。答えが欲しいわけでもなかった。どういう思考がそこにあったとしても、恩田の塚原に対する心の動きは解消されるものではない。


「なに、友達に告白されたの?」

「……はい」

「相変わらずモテるなあお前って」

「……先輩には敵いませんよ」

 恩田は拗ねたような口調でそう言って、傍のベッドへ突っ伏した。

「それがこたえてるわけ?」

佐野の手がさらに優しく恩田の頭を撫でる。恩田はなんとも言いようがなく、頭を傾けるようにした。


 悩みじゃない。それで俺は何か困っているわけじゃなんだから。ただ、どうしようもない感情を持て余しているだけなんだろう。わかっている。つい数週間前に自分自身が塚原へ忠告したのだ。告白されてもその気がないなら断れ、気を持たせるな、万が一縋ってこられてもほだされるなと。

 塚原自身はあのとき「行くなよ」と言ったものの、恩田に指一本触れようとしなかった。顔を見もしなかった。触れたのは、自分の方だった。


 黙ったままの恩田に構わず、佐野は明るい声を出した。

「罪悪感を感じて落ち込むのはお前らしいけど、ずっとそうやってたら友達だって立ち直れないんじゃないの」

顔を上げた。彼は笑って続ける。

「後ろめたさとか罪悪感がいくらあっても、お前はどうしたってそいつに対して望まれたものをあげられないんだろう。かといって何も知らなかった頃と同じ関係に戻れるわけがない。俺のときはそうだったよ。……女の方とは友達に戻ったって言ったけど、それは向こうにそう言われたから従っただけ。そもそもお互いの気持ちのレベルがまるで違うんだから、本当にそんなことできるのはレアケースだって思うよ」

「…………」

「一週間でも落ち込んだら充分。後はそいつのことは頭から追い出さないと。お前がそうしない限りそいつもお前のことが忘れられない。二人してやりきれない事実ばっかり見つめても時間の無駄だし、お互い精神に悪い」

恩田のやや納得のいかないという視線を、佐野は余裕を持って受け止めた。

「それに、その後はそいつも案外すぐに次見つけてたりするよ」


 そう言うと遠慮なくあくびをする。それに応じて何気なく壁の時計を見れば、すでに夜中の一時半に差しかかっていた。恩田は慌てて佐野の手を取った。

「……すいません。せっかく先輩の部屋に呼んでもらったのに、変な話して」

「俺の前で他の男の話するんだもんなー」

 軽い口調で聞き捨てならない非難をされ、恩田はさらに慌てた。

「違うんです! そんなつもりじゃ、」

「初めての夜なのにー」

言い終わらないうちにほとんど佐野は笑い出している。からかわれているのがわかって、かえって恩田は真剣な顔で彼の手を引き、その身体を抱きしめた。背中に回す手に力がこもる。

「すいません。もう、言いません」

「冗談だって」

恩田は首を振った。

「俺……本当、馬鹿です」

「別に大した話じゃないだろ」

佐野はあやすように恩田の背中をとん、とん、と叩いた。恩田はまた首を振って身体を離し、目の前の美しい顔を両手で包み込む。その顔はのんびり微笑んでいる。


「……俺は先輩が好きなんです。ずっと好きだったんです」

唇を重ね、性急に口づけを深くしていく。佐野の身体をベッドへ導いて横たえた。彼の腕が恩田の首に巻きつけられる。ふわりと香水の匂いがした。

 触れ合う身体ともれる吐息と甘い匂いに向かって熱が生まれ、頭と身体と心がすべてわきたっていく。舌を絡ませながらその顔を見つめ、その肌に触れる。


 そう、俺はこの人にずっと恋をしていたのだ。



 翌朝。眠気がゆるゆるとほどけて、恩田は目を覚ました。視界は暗く、それでもその色合いがもうすぐ日が出てくることを表している。青く、薄暗い色。

 頬をくすぐる、傍らの髪。

 ああ、朝か。

「つかはら、」

彼の方を向いてそう口にした瞬間、はっとした。全身の毛が逆立つ。いつかの記憶にあるものと違う、気配、匂い、体温、感触。

 ―――間違えた。


「ん……」

傍らの佐野が布団から手を引き出して目をこする。白い肌が薄暗い視界に浮かび上がってどきりとした。

「あ、先輩、どうも」

一瞬にして凍った全身をなんとか動かそうとする。どうもって何だ。アホか。佐野の目がゆっくり開いて恩田を捉え、彼は柔らかく笑った。

 聞こえなかった、か。

 ものすごくきまりが悪かったけれど、ひとまず恩田はほっとした。


「おはよう」

「……おはようございます」

唇を合わせるだけのキスをする。佐野の手が恩田の背中に回って、裸の身体が触れ合うと、簡単に昨日の夜のことが思い出された。頭の中で沸騰する欲望をなんとかなだめて、それでもただ体裁が整っただけの記憶。

「お前、顔赤いよ」

「ほっといてください。……身体、きついですか」

「いや、大丈夫。今何時?」

「六時半です」

「まだ全然早いじゃん」

大あくびをして、佐野はまた目を閉じた。恩田はそうですね、と応じて彼の頭を撫で、髪を梳く。そうするうちに少しずつ鼓動も落ち着いてくる。


 恋人なら、こうやって好きなだけ触れていられる。抱き合って眠れる。

 しみじみと喜びを感じながら、奇妙な思いにとらわれる。間違えた方の男の寝顔を久しぶりに思い出していた。

 あれは抱き合って眠ったわけじゃない。彼が寄り添ってきただけだ。少しだけ触れたのは、一瞬の出来心。

 腕を伸ばして、もう一度佐野を抱きしめながら、恩田は目を閉じた。

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