クリスマスイヴ
「……俺はさ、恩田がてっきり心変わりしたのかと思ってたよ」
「何が」
学生寮の一○七号室。恩田と甲斐は夕食後、それぞれ自由な時間を過ごしていた。甲斐は雑誌を読み、恩田は携帯電話でメールをしている。寝るにはまだ早く、かといってラウンジへテレビを観に行く気にもならなかった。「佐野先輩とメールしてんの」と訊いてきたので恩田がうなずくと、甲斐はどこかつまらなそうにそう言ってきたのだ。
「恩田、塚原くんのこと好きになったのかなってさ」
「…………」
「毎日部屋に通って気にかけてたし。結構遠慮なく触ってたし」
「……触ってたか」恩田は苦笑する。
「毎日ネクタイ結び直してやるなんて、俺たちだってしないよ」
甲斐がこちらに視線を向けてきたことがわかった。恩田は携帯電話をベッドへ放ってその視線を受け止める。くせっ毛の頭をかいた。
「……あいつは男に興味ないだろ」
「それってもし興味があったら好きになってたってこと?」
「けしかけるなよ。お前だって、お気に入りの塚原くんのこと俺が好きだって言ったらいい気持ちしないんじゃないの」
「俺は塚原くんのいちファンだもん。そこのところは別」
恩田は肩をすくめる。
「明日の予定だって塚原くんの前じゃ言いたくなかったみたいだし?」
「……だからけしかけるなって」
「ま、いーけどさ」と甲斐が口を尖らせる。「佐野先輩誘って、オッケーもらえたんだ?」
「うん。先輩の好きなアーティストのライブ、チケット取れたから」
「その後は?」
「ライブ会場の近くのバードロックカフェ」
「ばっちりだねえ。ふられたとしても十分思い出になるシチュエーションだ」
「……お前今日、俺に対してずいぶんひどいよな」
別に、何とも思わないわけじゃない。
その夜、ベッドの中で恩田は思った。今日も部屋で寝るつもりだった。明日一日中甲斐は恋人と過ごすわけだから、今日は来るわけがなかった。のんびりと足を伸ばす。目を閉じるけれど、眠気はまだ下りてきそうにない。
もちろん塚原のことは他の友達以上に気になるし、どこか惹かれている部分もあることは恩田自身わかっていた。なんとも思っていなければ、ネクタイだって寝癖だって気にも留めなかっただろう。世話をしてやりたいと思う気持ちが、はたして恩田自身の感情から来ているのか、塚原の態度がそう思わせるのかははっきりわからないけれど。
ネクタイだって教えてやったのに、やっぱり歪んでるし。
そう思いながらも、恩田の心のうちに塚原を咎める気持ちはまったくなかった。むしろ微笑ましくて少し笑ってしまうくらい。
結び方を教えてやる間、彼がうわの空だったこともわかっていた。うわの空で、恩田をじっと見つめていたことも。自分の手が彼の唇をかすめてしまったとき……何も感じないというわけにはいかなかった。
だから彼には、男が恋愛対象だということも、彼の寮での評判も、明日の予定も言えなかったのかもしれない。
――それってもし興味があったら好きになってたってこと?
甲斐の言葉がよみがえる。ため息をついた。
それを考え出したらもう、アウトだろ。
わかっていてそれをこじらせてどうするのか。今考えたことを丸ごと全部ひとまとめにして頭から追い出した。
恩田にとって明日は、一応大事な日なのだ。
今日は朝からみぞれ混じりの雨が降っていた。窓の外は色味が濃く、空も明るいとは言い難い。けれどラウンジのテレビでは、気象予報士のお姉さんがにこにこと「今日は全国的に午後から一段と寒くなって、正にホワイトクリスマスになりそうですね」と都心の見事なイルミネーションを背景に話している。それを横目に、塚原はスポーツバッグを手に玄関へ向かった。
冬休みに入って、部活だけの生活になると、塚原の「朝自力で起きる」目標はかなり達成しやすくなる。部活は十時からなので、塚原たち一年は九時半集合。学校の授業のようにホームルームもないので、九時半に寮を出てもまったく余裕なのだ。
終業式の後に配られた期末テストの結果とそれに伴った二学期の成績は、まあまあ及第点と言えるものだった。一学期のときより順位が十番以上も上がっている。期末テストの点数が総合的な成績を引き上げたことは明白で、恩田と甲斐の二人に感謝しなくてはいけない、と改めて塚原は思った。
傘を差し、学校の部室へと急ぐ。低い気温に加え、雨の冷たさが思った以上に身体から熱を奪っていく。グラウンドも水たまりだらけだ。小雨だが、練習にはコンディションとしてあまりよくない。今日は外に出ないかもしれない、と先に部室に来ていた松谷と話した。
先輩たちが部室に揃った後、部長から指示があり、今日は学校近くの市民プールでスイムトレーニングとなった。
気が滅入りそうなほどどんよりとした空や、雨にさらされる街とガラス一枚を隔てて南国のような温かさの温室プールにいると、なんだかここが世界でたったひとつ、最後の楽園のような気さえしてくる。
昼休憩のときに松谷にそんな話をすると、
「最後の楽園ならもっとうまいもん食いたい」
とコンビニ弁当の最後の梅干を箸で掲げて言った。雑談の相手にもならない。
「お前今日何もないの?」
「あ?」
「部活の後。予定とかないの」
恩田や甲斐の顔を思い出しながら塚原が訊く。松谷は梅干を口に運んで顔をしかめた。
「やなこと訊くなお前。どうせお前もまっすぐ帰るんだろうが」
「まあそうだけど」
「先輩たちには絶対訊くなよ。部長以外はみんな家とか寮で夕メシなんだから」
「そのくらいわかってるよ俺でも」うんざりして言う。
コリ、コリ、と梅干がくだける音がする。塚原はそぼろご飯をかき込んだ。
「……なに、行きたいとこでもあんの」
テーブルに頬杖をつき、松谷がぼそっと言った。
「ん?」
容器から顔を上げるが、松谷のつまらなそうな横顔があるだけだった。
「……ま、いーや」
部活を終えて寮に戻ると、玄関の壁に据え付けられている掲示板に大きな張り紙があった。
この掲示板は、生徒へ向けた寮の管理者(寮母さんや学校など)からのお知らせや、寮生同士の他愛ない連絡事項などが貼ってある。消防点検の日程であったり、洗濯機使用の割当の変更であったり、寮母さんの在室日程、最近寮内で起こった盗難未遂に伴う戸締まり徹底の呼びかけ、新聞部の情報提供窓口連絡先、「一年生へ。まだ部活に迷っているのか? さあ来い柔道部へ!」という色褪せた走り書き。終いには「今一番来てると思うグラビアアイドルは?」「冬ドラマ、何が観たいですか?」という匿名の正の字アンケートまで、この他雑多な紙が所狭しと貼られている。
それらすべてを覆い隠して、その張り紙には今日の日付が書かれていた。
――七時からテレビは「爆笑グランプリ」です! 五チャンつけてください!
寮のテレビはラウンジにあるたった一台だけである。朝はNHKのニュースと決まっているけれど、それ以外はラウンジにいる生徒が自由に好きな番組を観てもいいことになっている。下級生は上級生が来ればチャンネル権をゆずることが大半なのだけれど、どうしても観たい番組があるときは、早い者勝ちで朝のうちにラウンジに置いてある新聞のテレビ欄に丸をつけておけば、チャンネル権を確保しておくこともできる。ワンセグ機能がついている携帯電話を持つ生徒は、そういう面倒なやりとりもなく部屋でテレビを観ることができるのだけれど、その際も、イヤホンは必ず使用しなければならない。
「あ、今日だったんだ」
「まあ、あぶれたやつらはひたすら笑うしかねえからな」
弾んだ塚原の声に松谷がやはり皮肉っぽく応じる。
「観ねえの?」
「観るよ。先にメシ食ってこーぜ」
サッカーのワールドカップや、オリンピック、年の瀬の特別番組などは、食堂から夕飯を取ってきてラウンジに移動し、食べながらテレビを観ても寮母さんは怒らない。しかしラウンジはとても全寮生が入りきるスペースではないから、そういうときは場所取りが難しくなる。
とはいえ、今日は日にちが日にちだから、そんなに多くの生徒がいるとも限らないだろう。夕飯を済ませた塚原と松谷がラウンジへ向かうと、二十人程度の生徒が思い思いに座ってくつろいでいた。既にソファは埋まっていて、一番見やすい位置には寮母さんが迎えられている。二人は持ってきた食堂の椅子をソファの横に並べるように置いて腰掛けた。
何気なく生徒を見回したところで、奥のソファにあの五組の生徒がいるのに気がついた。数日前塚原に告白してきた男だ。目が合い、どきりとする。塚原がぎこちなく頭だけで会釈すると、彼も穏やかに笑って同じように返す。彼の表情から感じるものがあって、塚原はほっとした。もう、大丈夫。
「……あいつか」
塚原を見もせず、押さえた声で松谷が訊く。
「うん。でももう大丈夫」
「そう」
静かにそう言って、松谷は足を組み直した。
番組が始まるとラウンジは笑いの渦に包まれていった。普段あまりテレビを見ていない塚原は、初めて見るグループも多くいる。それにしても隣の松谷はクスリともしないのが気になった。
「……面白い?」
恐る恐る聞いてみると画面を見たまま松谷は平然と答えた。
「うん。笑えたよなーさっきのやつら」
「へ、へえ……」
そうかと思えば、誰一人笑わず首を傾げる中で松谷が一際大声で笑ったりする。シュールな笑いがお好みらしい。やっぱり松谷はよくわからない、と塚原は改めて思った。
とはいえこうしてラウンジにいる生徒がみんな一緒になってテレビを観て笑っている時間は、塚原にとってとても楽しいものだった。ここにいる生徒はほとんど名前すら知らないけれど、同じ高校の寮で暮らしているというその一点だけでこんな風に和気あいあいとした時間が過ごせるものなのだ。寮母さんもいる。松谷だって、あの五組の彼だって笑っている。兄弟がいない塚原からすればそれは新鮮で、温かくもあり、なんだか歓声を上げたくなるくらい楽しいものだった。
決勝戦の前のコマーシャルが入る。
「よし、俺ちょっとトイレ」
「おう」
松谷に声をかけ塚原は席を立った。ラウンジを出て一番近い一階のトイレで用を済ませ、戻る足取りは軽い。ふわふわと気分は高揚しており、お酒を飲んだときのほろ酔い気分ってこんな感じなのかなと考えては一人でくすくす笑う。ラウンジの照明が届かない、薄暗い玄関口を通り過ぎようとするとき、塚原はふと窓の外を見た。
「わー……」
雪が降っていた。朝のニュースで気象予報士のお姉さんが言った通りだ。昼間あれほどどんよりしていた空は、暗くなった今まったく印象を変えていた。冬の澄んだ空気にちらちらと舞い降りるそれは幻想的で、思わず廊下の窓に張りついて見とれてしまう。
「きれー……」
何かほんと、クリスマスって感じ。
アスファルトや木の枝や土に触れた途端に消えてしまう氷の結晶が儚くて、塚原は窓を開けて手を伸ばした。冷たい空気と一緒に雪が手のひらへ舞い降りては、一瞬で消え去って行く。後には何も残らない。ほう、と深いため息がもれた。
ふと、寮の門の向こうに人影を見つけた。首を伸ばしてよく見ると、それは恩田だった。いつもの学校指定のコートではなく、私服のモッズコート姿だ。
恩田。
隣に並んだ人影も見えて、さらにどきりとした。やっぱり、好きな人と出掛けてたんだ。咄嗟に、パーカーの胸辺りをぎゅっと掴んだ。
――恩田の恋がうまくいきますように。
昨日、玄関のクリスマスツリーを見ながら祈るように思ったことを、また胸のうちで繰り返す。街灯に照らされた恩田の顔に目を凝らすと、彼はうれしそうに笑って隣の人影――好きな人と話をしているようだった。
うまくいったんだ。
塚原は大きく息をついた。よかった。きっとうまくいったんだ。恩田、よかった。うれしそうだ。
ラウンジに戻ろうとして、けれど塚原は恩田から目が離せなかった。盗み見るなんて趣味が悪いことだと思いながらも動けない。舞い散る雪に、二人は立ち止まって辺りをぐるりと見回していた。恩田の好きな人が首を巡らせたとき、その顔がはっきりと見えた。驚くほどきれいな顔をしていた。女性のように繊細で美しい。一方で体つきは細いが一見して男だとわかる。それがむしろ塚原の目にはちぐはぐに映るほどだった。
きれいな人。
恩田の好きな――人。
そりゃ、恩田イケメンだもん。好きになる相手だってイケメンだよな。
胸の辺りを掴んでいたはずの自分の手がいつの間にか力を失って、冷たい窓の桟に触れていた。冷たい。もう戻ろう。窓も閉めないと。風邪をひく。頭ではそう思うのに、塚原の足は一向に動かなかった。
二人は白い息を吐きながら、降る雪に手をかざし……けれど不意に恩田が手を伸ばして好きな人の肩を掴んだ。あっという間に彼を抱きしめる。すぐに身体を離すと真っ赤な顔でこぼれ落ちるように笑顔を浮かべた。
それは彼の想いと、喜びと、今この瞬間を一時も手放したくないという切なさと……そういうものが溢れていて。
塚原は一瞬、まばたきを忘れた。
きっと恩田はあの人のことが、誰よりも何よりも好きなんだ。大好きなんだ。
呼吸が苦しい。ドキドキする。なんだかうまく息ができない。
恩田の笑顔を見て、相手は彼の頬に手を伸ばす。そうして唇を重ねた。まるで映画の一シーンのようだった。重なる二人の美しい横顔。それを飾り立てるように舞う雪。今日はクリスマスイヴ。完璧だった。
吸い込んだ空気が凍るように冷たいことが今になって思い出される。寒い。吸う、吐く、と大きく繰り返しても、息が苦しい。
どうして。
――俺は今、ショックを受けているのか。
足が動いた。ほら、だから戻らなきゃ。CMなんてとっくに終わってる。
ラウンジへ急いだ。薄暗い廊下を大股に進み、明かりが近づいてくるにしたがって、笑い声も耳に届いてくる。暖かい空気も。なのに、まだ苦しい。
「もう一組目終わったぜ。腹でも壊したか」
元の椅子に座り直すと、笑いの余韻を声に残して松谷が気軽に言ってくる。塚原も適当に返事をしようとして……言葉が出なかった。喉がつかえて、声が出ない。胸が詰まって、松谷に目を合わせられない。どうしようもなく、黙って首を振った。
「…………」
「――何があった?」
すると松谷が塚原の肩を強く掴んだ。抑えた声で鋭く問う。
「誰に会った。何された」
違う。声が出ないまま口だけでそう言って首を振る。
「……ほんとか?」
うなずく。辺りでどっと一際大きな笑い声が上がった。塚原は何度も唾を飲み下して、ようやく言った。
「……なんもない。俺が、ただ……」
確かに塚原はショックを受けていた。
こぼれ落ちるような恩田の笑顔。
本当にうれしいとき、恩田はあんな風に笑うのか。
――俺は馬鹿だ。
ショックで、恥ずかしかった。恩田と過ごした夜を、朝を心地良いものだと思っていたことが。朝に弱い体質を理由に起こしてもらい、着替えや寝癖直しをしてもらったこと。学食まで引っ張ってもらったこと。カーディガンを貸してもらったこと。勉強を教えてもらったこと。ネクタイの締め方を教えてもらったこと。廊下で塚原の姿を探していた彼の表情。そういう些細な出来事が心地良くて、恩田が笑ってくれるのがうれしくて。けれど。
恥ずかしくて、恥ずかしくて、仕方なかった。馬鹿だ。彼も塚原と同じように感じてくれているなんて、どうして馬鹿な勘違いをしたのだろう。
恩田の恋がうまくいきますように、なんて、そんなものは無用の祈りだったのだ。
「お前が、何だって?」
「…………」
答えられないでいる塚原に、松谷はため息をついて肩をすくめた。
テレビを見終わった後、塚原は松谷と別れて自分の部屋に戻り、ベッドに転がった。こみあげる感情を発散させようと髪をぐしゃぐしゃにかきむしる。そのうち腕が疲れてきて仰向けになった。ぼーっと天井を見つめる。
自分が一人、置いてけぼりにされた気分だった。息苦しくて、胸を詰まらせていたものは、少しずつ、冷たい何かに変わろうとしていた。
――俺は馬鹿だ。恩田のこと、何も知らなかったんだ。
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