告白
昨日の宣言通り、次の日塚原は目覚まし時計の音で目を覚ました。すでに携帯電話のアラームはきちんと稼働している。耳に届いた音は机の上で甲高い音を鳴らしている方だ。二度寝防止のため、数分後には部屋のドアのスリッパの上の第二弾が鳴り響く。部屋が目覚まし時計の音でいっぱいになるけれど、彼の部屋は元々当直室であって、隣は寮で季節柄使わないものをしまっている物置部屋である。さらにその隣は二階へ続く階段となっているため、誰の迷惑になるものでもなかった。まさか寮母さんや寮長の先輩が塚原の朝の弱さを知っていたわけでもないだろうが、それだけでも一つ助かることだった。
「…………」
眠気と数分闘った後、無言で起き上がり、机の上の第一弾を止める。頭のボタンを押すだけでなく、底の小さいスイッチもオフに。その後はまだかとうるさく急かす第二弾も同じ方法で黙らせ、ようやく塚原の視界は五十パーセントくらい開けてくる。
顔を洗い、寝癖を直し、着替えが済んだところで、塚原は松谷に電話を入れた。一度だけコールして、すぐ切る。
塚原の朝の対策……新たな日課だ。
昨日、屋上で話した塚原の遅刻のこと。松谷はそれだけで話を終わらせなかった。四月から付き合いがあるからこそ塚原の体質のことも承知していて、彼は教室に戻る前に「明日から、朝起きたら俺に電話しろ」と言ったのだ。
「は?」
「起きたら俺に電話しろって」
「いやこれからは自分で起きるんだって。お前にまで世話になりたくねえよ」
むっとして声が大きくなる塚原を横目で見やる。
「別に世話なんか俺もしたかねえよ。恩田じゃあるまいし。電話も出ない。通話料もったいないし」
「え、何それ。出ないの」
「朝、お前から着信があればそれでオッケー。着信がなければそれでもオッケー。俺は何もしない」
松谷がポケットから携帯電話を取り出し、ひらっと目の前で振ってみせる。
「……うん?」
「ただし、着信がなかった日をカウントしといてやる。そうだな、五回もいけば罰ゲームだな」
塚原は思わず目を見はって松谷を見つめた。
「……なるほど」
起きられるかどうかは自己責任。ただ、自分で起きると宣言した以上はペナルティを課すということか。なるほど、理にかなっている。松谷に大きな面倒をかけることもなく、何かの噂になることもないだろう。
「罰ゲームはそうだな……何かおごらせてもいいけど欲しいもんとかないし……。部室の片付け一ヶ月とか? うーんちょっと考えさして」
なぜそのペナルティを松谷が決めるのだと言いたくもなるが、着信の確認、カウント料と思えば仕方ないと思えなくもない。
最終的に塚原は、松谷に頭を下げたのだった。
さらには他にも、自力で起きるための対策を色々と講じた。寝る時間を一時間早め、携帯電話やパソコンは夜十時以降使わない。軽いストレッチを行い、部屋の電気は薄暗くしておく。以前恩田から言われた「よく眠る努力」の方である。睡眠外来のある病院は、県内になかったため諦めるしかなかったけれど。
今までは恩田が朝起こしてくれていたので、その辺りの対策を特別行っていなかったのだ。何というか、全面的に彼に甘えきっていた自分が改めて恥ずかしくなる。恩田本人から言われたアドバイスですら聞かず、彼に朝起こしてもらっていたとは。
塚原がホームルーム前に教室に入ると、一番に恩田と目が合った。ちょっと得意な気持ちになるけれど、同時に気恥ずかしさにも駆られる。彼へ一言だけ挨拶をして席へ向かうと、すれ違いざまに頭をぽん、と叩かれた。振り返ると彼の柔らかい笑顔があって、塚原も笑い返す。
たったそれだけで、眠気に負けず起きてよかったと思う自分が、我ながら単純だと思う。けれどうれしいことには変わりない。期末テストの直前でいつもなら学校なんて一番憂鬱な時期なのだが、塚原の気分は少し上向いた。
一方で、恩田と甲斐との勉強会は取り止めになった。例の噂が消えるまでは寮で二人が顔を合わせることは避けた方がいい、と三人とも意見が一致したからだ。残念だけれど、仕方ない。
「まあ、三学期になればおさまるでしょ。今の時期はみんなそういうことばっかりで頭いっぱいだもんなあ」
休み時間に塚原と恩田のクラス……二組にやってきた甲斐の言い分はのんびりしたもので、それを聞いた塚原も少し、気持ちを落ち着かせることができた。
「お前も似たようなもんだろ」
恩田が笑って甲斐に言ってよこす。
「当たり前じゃん。そういう恩田はどうなわけ、クリスマス」
「は? 俺は……」
甲斐に肘で小突かれて言い返そうとした恩田だったけれど、塚原と目が合い、ふと口をつぐんだ。
「恩田?」珍しい反応だ。
「……俺のことはいいだろ別に」
「あーこいつ何か隠してる。塚原くん知ってる?」
「俺も知らない。なになに?」
二人で茶化して詰め寄ると、恩田が塚原に向き直る。
「……人に聞くならお前も話せよ?」
「俺部活だもん。クリスマス何もないもん」
両手を腰に当てむしろ得意げに言う塚原に、恩田が脱力する。
「ああ、そう……」
「塚原くんだから言えるんだよね。こう、何もないって、あっけらかんとさ」
甲斐がくすくす笑う。そこで休み時間終了のチャイムが鳴り、三人とも慌てて戻ったのだった。
そう、塚原はクリスマスに何の予定もないのだった。部活をのぞけば。
次の週、期末テストは無事に終わった。手応えはまるでわからない。確かに問題の答えを書くことはできたものの、どの程度合っているのかが未知数で、よく書けたといえばよく書けたとしか言えなかった。
一方で「自力で朝起きる」と掲げた目標については今のところ達成できている。松谷からは「俺のケータイ、着信履歴が塚原ばっかで気持ち悪い」とはなはだ理不尽なことを言われた。もちろん無視した。
「書けたか?」
最終日。全教科のテストが終わった後、恩田が話しかけてきた。
「書けたは書けた」
うなずいて答える。例の噂があってからも、学校内では恩田の態度はあまり変わらない。廊下でも教室でも以前よりずっと気軽に話しかけてくる。ただ塚原のネクタイを締め直してやったり、寝癖を引っ張ったりすることはなくなった。その辺りが彼の線引きなのだろう――クラスメイトと母親との線引き。周りから見て、それが恋人の振る舞いに見えたことが今回の噂の原因の一つでもあったのだと、塚原もようやくわかってきた。
「なら大丈夫だろ」
「……そう思いたい」
「今日から部活?」
「うん」
「頑張れよ」
「うん!」
恩田の柔らかい笑顔を見ると、うれしくなる。テストが終わった開放感も手伝って、塚原もにっこり笑い返した。手早く荷物をまとめ、練習着の上からウインドブレーカーを羽織ると軽い足取りで廊下へ出て行った。
窓の外は今日も暖かみが微塵もない色合いで、空も分厚い雲に覆われている。校門へと続いている木々が、北風にあおられてぎしぎしと揺れていた。
昇降口で靴を履き替えていると、ふと視線を感じた。辺りは帰宅する生徒や教室を行き来する生徒でざわついていたけれど、それははっきりわかった。塚原が振り向いた先には、一人の男子生徒が立っていた。目が合うと、彼は所在なさげに目を伏せ、頬をかく。上履きの色で、同じ一年であると知れた。
「……えっ、と?」
自分に用があるように思えたので、とりあえず声を出す。男子生徒は顔を上げた。かすれ気味の声が届く。
「……二組の、塚原、だよな」
「うん」
「いきなりごめん。ちょっと話がしたいんだけど……いつか時間ないかな」
「話?」
「今から部活だよな。今日じゃなくてもいいから……あ、ごめん。俺、五組の」
彼が名乗り、同じ寮生であることを説明した。名前に覚えはなかったけれど、言われてみれば食堂で見かけたことぐらいあったかもしれない。
「……えっと、じゃあ、今から聞こうか」
「えっ、いいのか」
「今日始まる時間決まってないし」
学年によって教科の数が違うため、今日はテストが終わり次第各自で練習を始める予定だった。
塚原も彼も言葉がぎこちない。ピンと張りつめたような空気。そのうちにふと、「まさか」という思いが塚原の胸のうちにわき上がってくる。
まさか――
彼の提案で、校舎の裏庭で話すことにした。春には様々な種類の草花が芽を出すはずの花壇や、まだ枝だけで風に揺れている桜の木などがいくつもあるが、今の時期は訪れる生徒もいない。
「まさか」は的中した。
生まれて初めて、告白された。男から。
グラウンドで部活をしている姿をいつも見かけていた。一生懸命走る姿に惹かれた。塚原が男に興味がないのは知っている。今自分が気持ち悪いと思われていることも自覚している。けれど万が一、気持ち悪いと思っていないなら、万が一、恋人や好きな人がいないなら……ただの友達でいい、付き合ってほしい。
そう拙く言葉を紡ぐ彼の表情が、いつかの恩田の表情と重なった。
どこかに怪我をしていて、その痛みを懸命にこらえているような――
どくん、と心臓が跳ねた。言葉が出ない。以前松谷に言った自分の声が、どこか遠くで響く。
――要は告白されてもちゃんと断れってことだろ? 大丈夫だよ! 全力で断るよ! キモいじゃん!
瞬間、背筋がぞっとした。自己嫌悪だった。頭の中でそれはどんどん膨れ上がって、息が苦しくなる。彼の顔をまともに見れなかった。
「…………」
そんな塚原の様子を、彼は自分への嫌悪感だと思ったようだった。すぐに頭を下げる。
「ごめんっ! 聞くだけで嫌だよな、こんな話。本当にごめん、忘れてくれ」
背を向け立ち去ろうとする。かろうじて、塚原は声を出した。
「違う。待って」
彼の足が止まる。
「……気持ち悪いなんて思ってない。絶対思わない」
それだけは絶対に伝えなくてはいけなかった。どうして気持ち悪いと思えるだろう。彼も恩田も、痛みを覚えるほどの思いを抱えているのに。
「でも、俺は、男とは付き合えない。……ごめんなさい」
はっきりそう言って頭を下げた。
「わかった。……ありがとう」
塚原が顔を上げると、彼はかろうじて小さく笑い、うなずいた。
グラウンドへ向かうと、もう塚原以外の部員は全員揃ってラダートレーニングを終えたところだった。部長に一言謝って、一人でストレッチを始める。身体中に様々な思いと感情が渦巻いて、何もまともに考えることができない。身体を動かすことで落ち着こうと、いつもより丁寧に身体を曲げ伸ばし、ラダートレーニングは省いて、すぐに走り出した。
午後七時を回り、練習が終えた頃にはすっかり暗くなっていた。部室の鍵を返し終わった松谷を待って、二人で校門をくぐる。
部活の前にどこへ行っていたのか、松谷に必ず訊かれるとわかっていた。それくらい今日の自分の態度が普段と違うことを塚原は自覚していた。松谷の方でも、塚原がそれをわかっていることをわかっているようだった。数歩歩いて、松谷は独り言のようにつぶやいた。
「……告白でもされたか」
「……なんでわかんの」驚いて松谷を見る。
「カマかけたんだよ。ひっかかるなよ」
「嘘だ」
「嘘だな」
大きくため息をついた。白い息があっという間に闇に溶けていく。
「……断ったか」
「うん。でも俺、ひどいこと言ってた」
「何」
「そいつにじゃないけど。前、お前と話してたとき、キモいとか」
驚いた様子で松谷が塚原を見やる。ほとんど言葉が足りなかったけれど、それ以上が言えなかった。
「……別に、普通はそうだろ」
「そうかもしれないけどさ」
塚原が何を「キモい」と言ったのか、松谷は覚えていたのだ。
角を曲がって、寮の建物が見えてくる。その廊下の明かりが窓からもれていて、規則正しく四角形の光が並んでいる。隣で歩く松谷はそれ以上何も言わず、表情もいつもと変わりない。
「そういえばさ、松谷はどうなの」
そんな彼を見ながら、塚原は問いかけた。
「何が」
「……お前も男の方が好きなの」
松谷は横目で塚原を見て、また前を見る。いつか中途半端になっていた問い。
「……どっちも」
「どっちも?」
一瞬意味がわからず、訊き返す。
「男も女も」
「……マジか」もう何が普通で何が普通でないのかわからなくなってくる。
「念のため言っとくけどな、お前は対象外だから」
塚原の複雑な表情を見て取ったのか、松谷は付け加えた。
「はあ。そりゃよかった」
「基本的に俺に興味ない男は俺も興味ない」
ずいぶんと偉そうな言い草だ。いつも通りだった。
「モテる男は言うことが違うねー」
「お前もモテてるじゃん。男に」
「全っ然うれしくないし」
寮の玄関には、十二月に入ってから小振りなクリスマスツリーが置いてあった。寮母さんが用意したものだろう。電飾はなく、カラフルなガラス玉だけが飾られている。明日はクリスマスイヴだ。塚原は足を止めてそれを少し眺めた。
そういえば恩田の予定は聞けなかった。けれどきっと好きな人と過ごすのだろう。もしかしたら告白でもするのかもしれない。
あの五組の彼の表情を思い出しながら塚原は思う。
恩田の恋が、うまく行きますように。
恩田があんな風に痛みをこらえて小さく笑うところなんて見たくなかった。そんな彼を見てしまったらきっと、塚原の方が痛くて平気でいられなくなると思うから。彼にはいつもあの柔らかく穏やかな雰囲気をまとっていてほしい。
どうして今、恩田のことを考えているのかもわからずに、ただそう思った。
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