思うこと
ドアを何度も叩く音がして、恩田ははっと目を覚ました。視界に広がる部屋の明るさにどきりとする。
今何時!?
急いで身体を起こす。枕元の携帯電話を手に取るも画面は暗いまま。……電池切れ。嘘。すぐ近くにあった塚原の携帯電話を取る。
――九時十三分。
さあっと頭から血の気が引いた。またさらに、ドアを叩く音がする。
「塚原ぁー、土曜だからって寝てんなー! 部活行くぞー」
ドアの向こうでよく通る声がそう呼びかける。どうやら塚原と同じ陸上部の生徒らしい。
そうか。……今日は土曜日で、学校はない。恩田はほっと息をついた。寝坊したかと思った。
「塚原」
安心したところで、部屋の主に目をやる。頬を叩くが起きない。いつものことだが平和なものだ。布団を引きはがし、塚原の肩を持って無理矢理身体を起こした。恩田にとっても寝起きにはつらい動作である。
「起きろ、つかはら。……っとと」
ゆらゆら揺れる頭がまた倒れそうになって、慌てて抱き込む。まだドアを叩く音は止まない。耳を引っ張って声をかけた。
「部活だろ、塚原。何時からだよ」
「んっ……んん」
顔をしかめてようやく薄目を開ける。その途端、大音量の電子音が部屋に響き渡って、恩田は驚いて身をすくませた。塚原の携帯電話だ。恐る恐る表示を見れば、「松谷友高」の文字。通話ボタンを押して、塚原の耳に当ててやった。
「ん……?」
『塚原、起きてんのかよ!』
「いまおきた」
「十時から部活だからな! 俺たちは三十分前! 急いで来い」
「うん。ごめん。行く」
あくびを噛み殺しながら答える。
『先行ってんぞ』
恩田にも傍にいるだけで相手……松谷の声が充分聞こえた。携帯電話からもれる声と、ドア越しに聞こえる声のせいだ。
「んーーっ……」
思いきり伸びをする塚原。恩田も遠慮なくあくびをする。
「朝から部活か」
「うん」
そのままぼーっとしている。恩田が顔をのぞき込むと、また目を閉じている。
「こら」
寝癖の髪をひっぱってやる。
「いだっ」
「九時半だろ。あと十五分じゃん」
「うん。……眠い」
「ベッドから出ろよ、まず」
腕を引っ張って立たせてやる。そうしながら、なんて面倒見がいいんだろう俺、と恩田は心の中でつぶやいた。いくら夜中にベッドを貸してもらったからといって、こうして大して接点もなかった相手の朝の世話までしてやるやつなんて、寮中探しても俺以外にいないだろう。
「……ごめん」
ではなぜそれをするのかといえば、相手にまったく悪意がないからであった。それどころか起きられないことに真剣に悩んでいるからだった。そこへ、半分寝ぼけながらも素直に言うことを聞く様子を見れば、自業自得だなんて言えないのである。
「とりあえず顔洗えよ。服は」
「……そこに置いてる。だいじょうぶ」
いつも、次の日着る服を前の晩に用意して、ベッドの横へ置いているらしい。洗面所で塚原に続いて恩田も顔を洗う。危なっかしい手つきのひげ剃りを見守った後(彼は週に一回で間に合うらしい。恩田と同じだ)、ついでに寝癖も直してやる。ドライヤーをかけると、塚原は気持ち良さそうに目を閉じた。
「目ぇ覚めた?」
「うん」
さすがにここまですれば目も覚めるようだ。恩田を振り返り「へへっ」と照れくさそうに笑う。世界一平和な寝顔に平和な笑顔。恩田が敵うはずもなかった。つられて一緒に笑ってしまう。
「朝メシ食いたかった」
「昨日もだろ」
「昨日は食った」
スポーツバッグを手に取り、塚原が言う。慌てて恩田も自分の携帯電話と部屋の鍵を取る。
「食ったから遅刻かよ」
「いや、もう間に合わないと思ったから食った」
「……なるほど」
ドアを開け、二人で廊下に出る。窓から日の光が差し込んで眩しい。休日の寮でも、この時間はまだしんとしている。外を見れば、空はきれいに晴れていた。青い色が目にしみる。
「じゃあ、いってきます」
「……いってらっしゃい」
玄関口で走り去る塚原の後ろ姿を見送る。それが道路を曲がって見えなくなるまで、恩田はその場に立っていた。
それから恩田は週に一、二回の頻度で塚原の部屋へ行くようになった。だいたい甲斐の恋人が来ると決まった曜日……月曜日か木曜日だ。けれどたまに違う曜日だったり、二日連続で「当たり」のときもある。塚原はもういつでも恩田が来てもいいように、部屋のドアに鍵をかけなくなった。一方の恩田は恩田で、朝塚原の世話を焼くことをやめなかった。時間があるときは、ベッドを借りていない日でも塚原の部屋をのぞく。さすがに着替えさせるまではしないけれど、最低限、顔を洗うのを見届けてから学校へ向かうようにしていた。
そうしてお互い接する機会も時間も数ヶ月前と比べれば何倍も増えた二人だったけれど、やっぱり教室内では、用があるとき話すだけのクラスメイトとしての距離は変わらなかった。
元々毛色が違うもんな、俺と恩田は。
塚原はそう感じている。今回のことがなければ大して話すことすらなかっただろう。「イケメン」で頭も良くて、周りの友人も自分と比べて大人っぽく、一段格上といった雰囲気を持つ生徒ばかりだ。なんとなく余裕があって、実家は裕福な家庭なのかもしれない、とも想像する。
それが、捨て犬みたいに毛布にくるまってるんだもんな。
初めてラウンジで会った夜、塚原が見た恩田はクラスでのイメージとはまったく違っていた。だからこそ気軽にああして提案ができたのかもしれない。思い返すと少し笑ってしまう。
「塚原?」
傍らでその本人が尋ねてくる。今日は木曜日。あの日から月日は過ぎ、十二月。季節はもう冬本番だ。
「なんでもない。思い出し笑い」
「ふーん」
話してみれば何ということもない、気さくな男だった。
「もうすぐテストか」
「あーやだ。考えたくない。俺部活休みになってからしかテスト勉強しないから」
傍らの男に背中を向けて答える。気軽な声が応じた。
「俺もやる気になんねえな」
「……恩田はそう言いながら始めてんだろ、どうせ」
「何それ」
「恩田は絶対そういうタイプだ」
振り返り指を差して言ってやる。恩田は片眉を上げて苦笑した。
「……まあ、確かにそうか」
「やってんの」
「うん。メシ食った後に」
「……俺もやるか」
大きくため息をついて、塚原は天井を見上げた。
「電気消すよ」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
すぐに塚原の寝息が聞こえてくる。恩田もそれを聞きながら目を閉じた。
こんな形で塚原と関わるとは思ってもみなかった。
改めて恩田は思う。今まで何の接点もなかった、ただのクラスメイト。ラウンジで会った夜は、彼がよく遅刻をしていたことすら覚えていなかったのだから。
あれから少し経って、色々な表情を見た。寝る前、そして朝起きたとき、朝食を食べるときの数十分の会話。それも積み重なればそれなりに長い時間となる。
相変わらず遅刻もするけれど、回数は減っている。新しい目覚まし時計も揃えた。顔さえ洗えば、一人のときも間に合うようになってきた。寝ぼけながらも服は自分で着られるようになった。ネクタイはいつまで経っても上手く結べないけれど。そういった塚原の小さな小さな進歩を素直にうれしく感じる。塚原の母親にでもなった気分だ。
いや、母というより兄かな。
塚原を見ているとなんだか頭を撫でてやりたくなる。
けれど、二人は同い年で。もちろん、恩田は塚原の兄ではない。そして、恩田は寮での塚原の評判も知っている。話をする限り本人は夢にも思っていないことだろうけれど。
そっと、音を立てないように頭を起こし、枕の上で頬杖をつく。のぞき込んだ彼の顔はもう眠りに落ちていて、規則正しい寝息を立てていた。
……評判を教えてやってもいいのに。そういう可能性もあるってこと。
そうしないのは、ただ恩田がそうしたくないからだった。きっと教えれば、彼は悩むだろう。そんなことを考えさせたくない。波を立てたくない。俺が知っていれば、それでいい。恩田はいつの間にかそういう気持ちになっていた。
布団から手を出し、その頬に触れてみる。ひやりとした。日に焼けて、かさついている。
「…………」
頬を撫で、そのまま指でそっと唇に触れる。柔らかい感触。マシュマロみたいだ、と恩田は思った。
いつものように揺り起こされ、塚原は目を開けた。とはいっても視界はいつもの半分。頑張ってこれ以上開けようとしても上手くいかない。
「塚原、七時半」
さらにいつもの、かすれ気味の恩田の声。今日は目覚まし時計の音も、携帯電話のアラームの音も聞こえなかった。彼も起き抜けらしく、大きなあくびをしている。それを見ながらやっぱりいつものように塚原は思う。
――ああ、もっと寝たい。もうこれ以上眠りたくないってうんざりするくらい眠ってみたい。
「はい、起きた」
途端に容赦なく腕を引かれベッドから下ろされる。突然すぎていつか肩が外れるのではないかと怖くなるが、うまく言葉にできないまま洗面所へ連れて行かれる。日が浅い頃はもっと優しく、むしろこわごわといった手つきで連れて行かれたものだが、最近はほとんど手加減なしだ。それに対して文句も出てこない。すべてはこの、眠気のせいだ。
冷たい水で顔を洗うと、いくらか眠気も飛んで視界が開けてくる。塚原が思いきりあくびをしている間に、恩田も顔を洗う。
「ほら」
いつもの八十パーセント程度の視界。洗面台の鏡越しに手を濡らして髪に触れてくる恩田が映っている。もうすでに目も覚めた様子ですっきりとした表情だ。塚原の寝癖を慣れた手つきで撫でつける。彼の頭には寝癖らしきものは見当たらない。というよりこれだけぼさぼさのくせっ毛なので、傍目にはどれが寝癖かなんてわからないだろう。
今日もイケメンだな。
整った横顔に少し気恥ずかしい気がしないでもない。それでも一ヶ月経った今も、寝癖直しはやってもらっていた。単に塚原が眠い、ということもあるけれど……。
次はドライヤーだ。暖かい風と恩田の指が塚原の髪を手際よく整えていく。
このときが一番気持ちいい。頭を撫でてもらうときの心地良さ。ぽかぽかと暖かくて、指が髪をすくのが気持ちよくて、つい目を閉じてしまう。うっとりしていると、すぐに終わる。はっと目を開けると、鏡越しに恩田と目が合った。
「おんだありがとー」
ニッと笑ってお礼を言うときだ。彼は困ったような、でもこらえきれない様子で笑い返す。その表情を見ると、塚原は気恥ずかしかったことなんて忘れてしまう。不思議とわがままが、甘えが許されているとわかる。
俺につられて笑ってくれる限りは、大丈夫。
すっかり頭も身体も目が覚めて、塚原は着替えに戻った。
「塚原は冬休みどうすんの」
「へ?」
着替えが終わると、二人で食堂へ向かった。一歩入ると、他の生徒からちらちらと視線が向けられているのがわかる。
最近になって気づいたことだけれど、これは恩田のせいだった。その容姿のせいか、彼はよく人目を引く。男子校の食堂でもそうなのだから、街に行けば女性の視線はもっと集まるだろう。本人はまったく自然体で、気づいていないのか、気づいていても気にならないのか、塚原にはわからなかった。
顔見知りに声をかけながら、決まった皿を取って適当に席に着く。
「実家帰んのって」
そう聞きつつ味噌汁をすする恩田。そういえば、頭になかった。
「あーそっか。いや決めてない。考えてなかった。恩田は?」
「俺は帰る」
「ふーん……やっぱ年末年始はみんな帰るのかな」
夏休みのときは九月に体育祭を控えていたせいか、お盆でもあまり寮内の人数が減ったように感じなかった。年末年始の陸上部の活動予定は聞いていないけれど、顧問の先生がいなければ活動許可は下りない。
「親が帰ってこいって言うんじゃねえの。俺もそうだし」
「そうなんだ」
「三箇日まではいろってさ」
「へえ……」
塚原にはまだそういう指令はない。久々に地元の友達に会いたい気もするけれど、手元に帰るだけのお金がないこともある。
「部活なかったら、俺も帰るかも」
「そっか」
「知り合いの先輩に聞いたけど、居残り組は忘年会するらしいよ」
「忘年会?」
「うん。ラウンジのテレビで毎年紅白観る伝統があるって」
「へえ……まあ、紅白は観たいかな」
「なんかとりあえずみんなで盛り上がるってだけらしいけど」
「ふーん」
「あ、」
恩田が不意に手を伸ばしてきた。反応する間もなく、塚原の口の端に彼の指が触れる。
「ついてた」
「あっ……悪い」
恩田の指が米粒をつまんでいた。口についていたのか。彼はそれをそのまま自分の口へ運ぶ。一口で飲み下した。
「えっ」
「ん?」
思わず塚原が声を出すが、恩田に訊き返される。
え、今俺の口についたやつ食べた。何それ。
かっと頬が熱くなるのがわかった。
え、それ、すげえ恥ずかしいんですけど。
何も言えないまま固まっていると、目が合った恩田は一瞬怪訝な顔をした後気づいたらしく、「あ」と目を泳がせた。ぱっと顔が赤く染まる。
「ごめん、つい」
「や、いいけど」
「わ、ちょ、ごめん。俺めっちゃ恥ずかしいな」
「いや、気になんないならいいんだけど」
二人して慌てて残りのご飯に取りかかる。塚原がそっと恩田を見やると、彼は赤い顔を隠すようにしてご飯をかき込んでいる。
……いつも寝起きに思うことが、またふっと頭によみがえった。
あの髪が、すごくいい匂いがするのを知ってる。
あの頬が、すべすべしてるのを知ってる。
あの手の平が、腕が、身体が温かい体温を持ってるのも知ってる。
誰にも言えないけれど。
一緒に目覚める朝が何よりも心地いいんだ、本当は。
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