平和な寝顔
「まさか塚原くんと恩田が同じクラスとか知らなかった」
夕食を終えた夜の時間。寮の部屋で甲斐は洗濯したシャツを畳みながら言った。
「俺もお前が塚原のこと知ってるとは思わなかったよ」
爪切りをしながら恩田も答える。甲斐とは同じ中学の出身ではあったけれど、三年生のときにクラスが同じだっただけなので、仲は良いけれど知らないこともままある。
「お前って陸上部だったな」
「そっか、恩田覚えてないか。俺もうマネージャーだったもんな」
くすくすと甲斐が笑う。
「何だよ」
「いや、俺一回塚原くんと大会で並んだことがあってさ。それでよく覚えてた。確かに普通は知らないかも。塚原くんがいたとこ、弱小校で他の部員はほとんどたいしたことなかったもん」
笑い混じりに続ける。
「やる気はあるんだけど、実力がない。唯一塚原くんだけが優勝争いの選手に数えられるかどうかって感じで。その大会じゃ、二位争いしてたんだ」
「二位?」
「そう。一位のやつはもう随分前に先行って見えなくて、俺と塚原くんは並んで走ってた。お互い必死になって、俺本当塚原くん引き離したくて、根性で力振り絞って走ったんだ。けど、塚原くんもしぶとくついてきてさ。残り三キロってとこだったかな。結局一秒もない僅差で俺が先にゴールしたんだけどね。その後塚原くんを振り返って……その顔見てすっごいびびったのが印象に残ってる。もうね、超怖い顔で睨んでくんの。肉食獣みたいに獰猛な顔して。『次は喰ってやる』って感じ。かわいい顔してそんな風に睨むんだって、びっくりした」
「……かわいい?」
「かわいい顔じゃない? 塚原くん」
「かわいいっつーか、なんつーか……」
「まあ、お前佐野先輩一筋だもんな。で、結局それが俺の最後の公式大会になった。だから余計に忘れられない。あの大会は楽しかった」
「へえ……」
恩田にも意外だった。あんな世界一平和な顔で寝ていた彼が人を睨む、なんて。案外負けず嫌いなのかもしれない。
「あれ以来俺は大会出なくなったから、塚原くんも覚えてるかなって思ったけど。さすがにそれはなかったな」
苦笑して甲斐が頬をかく。楽しかった思い出というのが表情ににじみ出ていて、恩田も笑顔になった。
「まあ、そういうの全然考えてなさそうだもんな」
他校の強い選手を分析して、大会のコースや気候を確認して……合わない。似合わない。「要は俺がベストを尽くせばいいんだ」と言うのが彼らしいと思う。
「俺陸上部のマネージャーになろっかなー」
シャツを放ってベッドに転がりながら甲斐が言う。
「なんか塚原がいるからみたいに聞こえるな」
「んー否定はしない!」
「……先輩に言ってやろ」
「冗談! 冗談だって!」
要は単純なやつなんだろうな。
数日前のことを思い返しながら、恩田はベッドに横になる。
今日も自分の部屋で眠るつもりだった。甲斐の恋人が訪れる日……今までの「当たり」の曜日から考えて、今日は大丈夫と予想したのだ。たいてい週に一度、月曜日か木曜日というのが今のところ確実な「当たり」の日だ。今日は金曜日。月曜が「当たり」で塚原に泊めてもらったし、おそらく大丈夫だろう。特に紙に書いたりして統計を取ったわけではないけれど、この予想が一番当たっている。
携帯電話で時間を見ると夜中の一時になっていた。考え事をするとつい遅くなる。恩田はすぐに目を閉じた。
いつもと違い、今日はなぜか脳裏に塚原の寝顔が浮かんできた。半開きの口、規則正しい寝息。顔のどこにも力が入っていない、世界一平和な寝顔だ。もともとはっきりとした目鼻立ちをしている彼だけれど、目を閉じるとそれが途端に柔らかく、あどけなく見えるのが印象的だった。見ているこっちもつられて安眠できそうなくらい。……本人はここに悩みを抱えているようだけれど。
そのうちとろとろと眠気が下りてきて、半分意識を手放しかけたとき。
かすかに、音がした。
ドアノブを捻る音。ドアが閉まって空気がちぎれた気配。カーペットに、衣擦れの音。カーテンを開け閉めする音……
――ああ、今日もか。
予想は外れ。まいったな。舌打ちしそうになる気持ちをなんとか抑える。今日は何かあったのだろうか。特別な、何か。
小さな音が途切れたところで、恩田は目をこすりつつ、絶対に音を立てないようにベッドから出た。枕元の携帯電話と部屋の鍵をポケットへ入れる。真っ暗な部屋の中、白い壁やベッドのカーテンだけが、かろうじて色味の違いを伝えてくる。感覚を頼りに慎重にドアへと進む。何度かやってきた動作だから、見えなくても大体の位置はわかる。ひそひそ声が次第に離れていく。足の裏が床のへりについたところで、スリッパを取り上げ、いつもの十倍の時間をかけてドアを開け、そっと廊下に出た。冷たいリノリウムの床が足の裏を刺すようだ。同じく十倍の時間をかけてドアを閉める。
「っはー……」
しゃがんで大きく息をつく。スリッパをすぐに履いた。部屋と廊下の気温差の激しいことといったらなかった。風はないが、しゃがんだだけで、もうカットソーの表面は冷たくなっている。
「さっぶ」
金曜日に来たのは何度目だろう。初めてではない。二回目? いやその前もあったか? 冷静に思い出そうとするが、すぐに寒さが何よりも頭の中を占めるようになってしまう。寒い。とにかく寒い。ぱた、ぱた、となんとも頼りない足取りで、恩田は塚原の部屋、一○○号室へ向かった。
「……あ」
たどり着いてから気づいた。「何かあったら言えよ」そう言ってもらった。けれど。
「絶対、寝てるよな」
塚原の部屋の前。しんとしていて、何の音も聞こえない。ドア横にある窓は真っ暗。カーテンの隙間からは何も見えない。
「ケータイ……」
アドレスも知らない。番号も知らない。どちらにしても寝ていて気づかないなら意味がない。
ドアをノックしてみるが、当然何の反応もない。窓をコツコツ叩いても同じだった。
――しまった……。
その部分をまったく考えてなかった。ドアの前で恩田は頭を抱えてうずくまった。この間のように、塚原が飲み物でも買いに出てきてくれればと思うけれど、そんなことが運良くあるとも思えない。
寒い。
しばらくそのまま待っていたけれど、そのうちじっとしているつもりでも身体の震えが止まらなくなってきた。油断して毛布も忘れていた。カットソー一枚にジャージにスリッパ。どれだけ自分の腕で自分を抱きしめても、耐えられそうになかった。五分……いや三分ももたない。
戻るか。
仕方がない。戻るしかない。寒さで震え死ぬよりましだ。毛布をかぶって、ヘッドホンでもつければいい。寒い。寒い。とにかく寒い。
恩田は震えながらゆっくりと立ち上がった。そのとき、ふと思いつきで部屋のドアノブを捻った。
「……あ」
鍵は、かかっていなかった。ドアが開き、ふわりと、ぬるくて柔らかい空気が鼻先に触れる。考える間もなく、中に入ってドアを閉めていた。少し考えて、鍵をかける。
不用心だな。
鍵をかけ忘れたのか。けれどそのお陰で助かった。
少し前まで暖かかった空気の
「塚原」
部屋の主はベッドで寝ていた。この間見たときとは違い、眉根を寄せて目を閉じている。難しい顔をして考え込んでいるような寝顔だ。夜の眠りが浅い……恩田がなんとなく言ったことだが、案外当たっているのかもしれなかった。
「塚原、」
「……ん……、あ……おんだ?」
名前を呼び、肩を叩くと、彼はうなって薄目を開けた。部屋に自分以外の者が入ってきたことにさして驚く様子もなく、むしろ恩田が来るのを予想していたかのようだ。
「ごめん、塚原。勝手に入った」
そう言うと塚原は半分だけ開けた目で恩田の姿を認めた。
「うん……どうぞ」
ごろりと壁側へ寝返りをうち、こちらに背を向ける。手前にぽっかり一人分のスペースが空く。場所を空けた、ということだろうか。
いや、床でもいいんだけど。
ちらとそう思ったが、やっぱり暖かそうな毛布や布団を見るとその温度が恋しい。
「……悪いな」
なるべく音を立てないようにゆっくりと布団に入る。暖かく柔らかい感触に心の底から息をついた。そろそろと足を伸ばし、横になる。塚原はまた眠ったのか、何も言わなかった。
だんだん体温が戻ってくるにしたがって、眠気も下りてくる。
静かな部屋の中。カーテンの隙間からは月明かりがもれている。まるでここは、恩田のために用意された恩田のベッドのようだった。
寝返りをうった塚原が身体を寄せる。恩田の肩に頬が触れると、すり寄ってきた。掛け布団の中に鼻先をもぐり込ませる。
こんな感じで、こないだも腕枕をしたんだろうな。すり寄ってくる小動物のような細い身体も悪くない。
まあ、なんかかわいいからいいか。恩田は腕を伸ばし、傍らに塚原を迎えてやった。きれいに頭がおさまる。そのまま、眠っているようだ。
何も考えてないんだろうな。うとうとしながら恩田は思う。塚原は「そう」ではないのだから。それにしても同い年の男に対してここまで無防備になれるのは、色々な意味ですごい。
この間食堂で塚原に声をかけていた男との間でも、似たような気安さを感じた。例えば陸上部の大会など……勝負事以外では色々とあけっぴろげなのだろう。
――抱きしめてやったら、どう反応するかな。例えばキスでもしたら。
……いかんいかん。
ただの好奇心で浮かんだ思いを頭から追い出す。
「そう」ではない相手にその気になったら、色々こじらすに決まってる。先輩とはタイプが違うけど、これはこれでイイかも。好きなやついそう。
布団をめくってみると、あの平和な寝顔になっていた。頭を撫でると、ますますすり寄ってくる。苦笑して、恩田はそのまま目を閉じた。
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