ホームルーム前
予想通り、その日は塚原の世話になることなく、恩田は自分のベッドで朝を迎えた。携帯電話のアラームを止め、しばらく眠気と闘ってから、ベッドから起き出す。音もなく身体にしみ込むような寒さを感じ、すぐに厚手のニットカーディガンを羽織った。ドアの辺りを見て、ほっと息をつく。甲斐の恋人が訪れた日は必ず、入口に揃えているスリッパが乱れているのだ。甲斐が廊下へ出て見送ったりしているのだろう。
顔を洗って着替えていると、甲斐も起きてくる。二人とも、朝起きることを苦痛と思わない方だ。いつも通り二人で朝食を食べ、学校へ向かった。
「どうかしたの、恩田」
「え」
突然訊かれてはっとした。教室内、ホームルーム前にクラスの友達と雑談しているときだった。
「ドアばっかちらちら見てるじゃん。まだホームルームまで時間あるよ?」
「あ、いや……そうだよな。なんかぼーっとしてた」
はは、と笑ってみせると、周りの友達は一様にきょとんとして、再び雑談に戻る。
「なんだ。びびった。なんか鬼山先生とか来たのかと思った」
「違う違う。てかなんで鬼山なの」
「や、俺こないだパズドロしてたのバレそうになってさ」
「うーわー! バカだろお前」
「授業中?」
「そう」
「イカれてる。イカれて廃人になるやつがここにいる」
「よく没収されなかったなー」
つられて話しながら、恩田は朝から感じている心のうちの違和感に気づいていた。気になること。それはひとつしかない。
塚原、今日まだ見てない。
言われてみれば何度もドアの方を見ていたかもしれない。あいつまだ起きてないのかな。着替えくらいはしただろうか。それが、今朝学校に来てからずっと気になっているのだった。いつも通り甲斐と部屋を出て朝食を食べ登校してきたので、昨日のことが嫌でも頭から離れない。
起きてないだろうなあ……。
昨日の様子を思い返せば、当然起きていないものと思われた。声をかけて、思いきり揺すって、布団を引きはがしてそれでやっとあの状態なのだ。むしろ今まで遅刻しなかった日がどう起きていたのか知りたいほどだ。
嫌な気分で時計を見る。あと五分。
なんで高校生にもなって朝起きられないかな。
朝決まった時間に起きるなど、小学生でもできるだろう。恩田自身は保育園に通っていた頃からできたことだ。
きっと今までは毎朝母親にでも起こしてもらっていたのだろう。「朝よ」「いいのよ無理しないで。お母さんが起こしてあげるから」そんな甘い声がふと脳裏に浮かぶ。優しい優しいお母さんでうらやましいことだ。
恩田の母親も優しい母ではあるが、同時にいつものんびりしている人だった。朝起きた恩田がやかんを火にかけ、うるさく鳴りだしたその音でゆっくり起きてくるような。進学する高校が決まって学生寮に入ることになり、心配したのは母より恩田の方で、本人は「たくさんお友達作ってね」と微笑むばかりだった。そっちもそっちで毎朝きちんと起きているか、たまに気にはなる。
あと三分。
今頃布団の中で世界一平和な寝息を立てている男のことを考えると、こちらの方がイライラする。落ち着かない。寮を出る前に様子を見てくればよかったかと後悔するが、今更どうしようもない。
「……塚原、また遅刻かな」
ぽつりと恩田がそうもらすと、周りの友人達は雑談を途切れさせて、またきょとんと彼を見た。恩田はもう、イライラした感情が顔に出ているのも自分でわかっていた。
「遅刻じゃね? あいつ、いっつもそうじゃん」
「昨日もだっけ」
「夏くらいまではまだ大丈夫だったよな。今よりひどくなかった」
「ちょっと前に目覚まし壊したって言ってたぜ」
「マジ? ウケる。なんで? なんで?」
「止めようとして思いっきり叩いたら吹っ飛ばして、何個かセットしてる他のやつにぶつかって全部パー」
「うーわー。それすげえ。漫画みてえ。てかまず自分の手、痛そう」
「……俺もそれやったことある」
「うそ!」
「他の物にぶつけたことはさすがにないけど。壁に当たってぶっ飛んだ」
「まああいつ、寮っても同室いないらしいし」
「起こすやついねえなら、部屋変えてやればいいのに」
「確かに」
「――昨日は、俺が起こした」
一段と低い声でそう言って、恩田は立ち上がった。周りが驚いた顔で見上げる。
知ってしまった以上は、放っておけない。
恩田の頭の中はその思いでいっぱいになっていた。
だって知ってしまったら。学校をサボりたいとか、そういう思いは一切なく、ただただ眠気のために起きられない塚原。何のてらいもなくベッドを貸してくれたこともあった。イライラしながらも自業自得だと切り捨てられなかったのは、「ありがとー」と言った彼の、まるで邪気のない笑顔が頭の隅に張りついているからだ。
今度こそ、何かおごってもらわなきゃ。
「おい、恩田?」
「どした?」
友達の声に耳も貸さず、チャイムが鳴り響く教室を恩田は大股で横切り、ドアを開けて廊下に出た。その途端、
「ほっ」
「わ!」
誰かとぶつかった。一瞬脳裏に彼の姿がよぎったけれど。
「……恩田、か」
はずみでおもちゃのようにころりと床に倒れたのは、生徒に「おじいちゃん」と呼ばれている担任の三木先生だった。
「わ、すいません!」
教室内がざわめく。急に我に返った恩田は、慌てて先生を助け起こした。
結局、塚原が教室に来たのは一限目が始まる十秒前だった。寝癖頭で席につき、顔を手の平でごしごしとこするのが見える。
……やっぱり起こしに行けばよかった。
こんなよくわからない苦い気分になるくらいなら。後ろの席から彼を見ながら恩田はそんな思いに駆られた。どうして俺がこんな気分になっているんだろう。面白くない。問題の答えがわかっているのに答えてはいけないと言われているような。
そりゃ、別に俺がそんなことする義理なんてないけど。
なんというか……後味が悪い。
一限目が終わったところで、気がつけば塚原の席へ向かっていた。前方の席、跳ねた髪の毛を後ろから引っ張る。
「寝グセ」
「いて! あ、恩田」
今まで教室内で声をかけることなどなかったからだろう、驚いた様子で頭を押さえ、塚原が見上げてくる。黒目がちの目は少し充血していて、ネクタイもかなり歪んでいる。起き抜けのまま、どうにか服だけ着替えてきたという状態だった。心なしか窺うような視線を寄越す。
「なに」
「起きれなかったのかよ、今日」
「う……」
口にするとなんだか責めるような口調になってしまった。恩田が手で寝癖を撫でつけてみるが、当然整うものではない。元気にぴょんと跳ねて戻る。塚原は視線をさまよわせ、黙り込んだ。
「……苦手なんだ、朝起きるの」
しばらくして、目を伏せ、口を尖らせてそう白状する。
「中学の頃からずっとそうで。今まで色んなこと試して起きようとしたけど、なかなか直らなくて。……だらしないやつだと思うだろ」
頬杖をついてちらと恩田を見上げる。諦めのような、淋しげな瞳の色。気が抜けてしまって、恩田は塚原のネクタイに手を伸ばした。歪んだ結び目をほどき、きれいに締め直してやった。彼は大人しくされるがままだ。
「目覚まし、壊れたんだろ。あいつが言ってた」朝雑談をしていたクラスメイトの名前を口にする。
「あ、うん、そう。止めようとしたらぶっ壊しちゃって」
「寝癖は」
「いいよ。誰も見てない。……ごめん恩田、ありがとう」
しゅんと肩を落として礼を言う。恩田もそれ以上は何も言わなかった。塚原はそのまま椅子の背に身体を預け、机の上を見ながら言う。
「どうしたら起きれるか、本当、わかんない」
「…………」
「目覚ましとか、睡眠時間とか、昼めっちゃ運動するとか……色々試したけど、ダメなんだよな」
「……病院行ってみれば」
「え、俺ビョーキなの? これ」
「そうじゃなくて」
戸惑う塚原の頭をぽん、と叩く。
「睡眠外来。起きれないってことは、眠りが深いってことだろ? 朝方の眠りが深いのは、夜中の眠りが浅いせいじゃないの。たぶん夜うまく眠れてないんだよ、お前」
「……熟睡してるけど」
「身体はそうでも、脳はそうじゃないかもしれないってこと」
「……なるほど……」
「起きる努力より、よく眠る努力してみたら」
「……恩田」
塚原がいきなり立ち上がり、恩田をまっすぐ見つめる。きらきらとした目とぶつかった。
「恩田すげえ。ありがと! 考えてみる」
両手をがっしり掴まれ、ぶんぶん振られる。
「あ、いやまあ、俺の勝手な予想だけど」
慌てて付け足す。まっすぐで素直な反応に、恩田の方が驚いていた。半分予想はしていたけれど。
そのまま恩田の腕を引き、塚原が耳打ちしてくる。
「また、夜何かあったら言えよ。ベッド貸すから」
「あ……ありがと」
耳元に吐息が触れて、不覚にもドキッとする。すぐに腕を離し、塚原は笑ってうなずいた。なんだか得意げな笑みだ。
何だろう、この塚原って。
つられて恩田も笑う。ついさっきまでのイライラした気分や後味の悪さもきれいに消え去っていた。
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