その彼
その日、塚原は恩田と一緒に教室へ向かった。ホームルームが始まる一分前に到着。上出来だ。その上朝から食べ物を咀嚼するという行為をしたせいか、いつもより頭がすっきりしている気がする。身体のだるさもない。塚原の朝の体調でいえば、入学以来一番調子が良かったかもしれない。
恩田とは教室で別れた後はいつも通りだった。特に用事も接点もなく、雑談をするわけでもない。それでも彼には、前方の席でまっすぐ身体を起こして授業を受ける塚原の様子がよく見えるはずだった。
色々申し訳なかったな。あいつにしてみれば、ベッドを借りるだけだったはずが、朝の世話させられたんだもんな。
恩田に服を着せられるあいだに、塚原は彼が残した書き置きを目にしていた。ベッドを借りたお礼に、朝食をおごると。だから先に食堂へ行っていたことはわかった。塚原を待って、一緒に食べるつもりだったのだろう。けれどあんなに遅くなったのだから、先に食べて学校へ行けばよかったのに。休み時間にでも話をすればいい。どうしてわざわざ塚原を起こしに戻ってきたのだろう。どうして塚原がまだ寝ているとわかったのだろう。頭を捻って考えるけれどわからない。よく気がつく、面倒見がいい性格なのだろうと塚原は解釈した。
空はもう日が沈みきっていて、半分以上はオレンジ色から藍色へと変わってきている。陸上部の部活が終わったところだった。塚原はグラウンドの端にある手洗い場で顔を洗った。
「うーさむっ」
いくら運動した後で身体が熱くなっているとはいえ、水道水の冷たさは身にしみる。すぐにタオルで拭いた。部のウインドブレーカーをジャージの上から素早く羽織る。風をまったく通さないので、下手なコートよりよっぽど暖かく、塚原は気に入っていた。手袋をし振り返ったところで、グラウンドを横切ってやってくる一人の部員の姿が見えた。
「塚原、部室空いたぞ」
「おう。ってもうお前着替えてんじゃねえか」
「だって寒いじゃん」
そう言いながら塚原と並び、ついてくる。同じ陸上部に所属する
ただのアホなのに。塚原は思う。
「もういーや。俺このまま帰る」
寮まではどうせ歩いて三分もかからない距離だ。部室に戻り制服を突っ込んでいたサブバッグと鞄だけを取り、鍵をかけた。たったそれだけの時間なのに、もう辺りは暗くなっている。空だけが光を薄く透かしたように明るく浮かびあがる。
「そういえば今日、お前恩田と一緒に来てたな」
白い息を吐いて、マフラーに顔を埋めながら松谷が訊く。
「あ、うん」
「三組から見えた。教室入ってくの。珍しいじゃん、お前と恩田とか」
「ああ、昨日……」
昨日、泊めてやったんだ。俺の部屋に。
すぐにそう言おうとして、塚原ははっと口をつぐんだ。つい昨日、正にその恩田から聞いた話があったではないか。
――マジであるんだ、そういう話。
――それなりに。
不思議そうな顔をしてこちらを見ている松谷を見やる。
こいつも、「そう」なのかな。
高校に入って、部活を始めて九ヶ月。考えたこともみなかったことが初めて塚原の頭に浮かんだ。長距離陸上部の唯一の同年で、結構長いこと一緒に過ごしてきたけれど、そんな素振りは一度も見たことがなかった。といっても初めてそういう話を聞いたのはつい昨日のことだったから、今までがどうもこうも言えないけれど。
彼女がいるとかどうとかの話をしたことがない。下ネタも言うけれど、真面目に語り合ったことはない。
「塚原?」
「いや、たまたま食堂で同じテーブルになってさ。一緒に教室まで行っただけ。遅刻寸前で」
「へー、今日はセーフだったのはそういう訳か」
「うるせえ」
「恩田に引っ張ってもらったんだろ」
笑い混じりの松谷の言葉に、塚原はぐっと詰まった。
……そりゃわかっちゃいるけど。
幼い頃から塚原は朝が弱かった。一度眠ると、朝はなかなか起きられない。目覚まし時計も深く眠っているときは音が聞こえないので当てにならないし、かといって寝る時間を早めても同じだった。睡眠時間に関係なく、起きられないのだ。
毎朝彼を起こしていた母親は、高校で寮生活になることを随分と心配したけれど、どうしようもなかった。家から通える距離にある第一志望の高校には受からなかったのだから。
実は、寮生の人数の都合で塚原が一人部屋になってしまったことをまだ母は知らない。知れば大変心配して、毎朝モーニングコールをかけるとか、通信販売で高機能目覚ましグッズを探し始めるに違いないのだ。塚原が朝起きられないことを本人以上に悲観し、自分のしつけが悪かったせいだと思い悩んでいる母にはとてもじゃないけれど言えなかった。
一方、塚原自身はこの自分の困った体質について、もうあまり考えないようにしていた。悩んでもどうしようもないのだ。今までできうる努力はすべてやってきたつもりだけれど、ほとんど改善しない。ならばもう、別のところで頑張って評価を得るしかないと思う。勉強や、部活動……つまり陸上とか。中学時代はどちらも校内で上の上だったため、遅刻は唯一の欠点として先生達も少々顔をしかめる程度だった。けれど高校はレベルがまったく違う。陸上は今のところ評価が低いというわけではないけれど、成績は一気に中の下まで落ち込んでしまった。目下、塚原の高校生活での悩みはここだった。
「メシ行く?」
「うん」
寮に戻った塚原と松谷は揃って自分の部屋に荷物を置いて、そのまま食堂へ向かった。香ばしい油の匂いが廊下まで漂っている。ラウンジの奥にある食堂は、ちょうど夕飯の時間帯で人も多かった。一年生から三年生まで、百人近い寮生が一度に集まっているためがやがやと騒がしい。中央付近の長テーブルが二席空いたので、夕飯を載せたトレーを持ってそこへ座る。
「あー腹へった」
いただきます、と両手を合わせて松谷が箸を取る。向かいの席で同じように手を合わせて食べ始めた塚原だが、視線は広い食堂内にいる、他の寮生たちを見ていた。
この中にそれなりにそういうやつがいるってことだよな。
一見、ごく普通の食堂風景なのだけれど。二人で変にくっついている者もいなければいちゃついている者もいない。きちんと節度あるお付き合いをしているということだろうか。
「なに、ぼーっとして」
「いや」
塚原の答えに、唐揚げを頬張りながら首をかしげる松谷。ふと、聞いてみたくなった。
「松谷って、彼女いんの」
「へ?」
「彼女」
「なに、急に」
きょとんとした顔で、口をもぐもぐ動かしながらこちらを見る。
「いや、そういえば聞いたことなかったなって」
「あー……」
そう言って松谷が首を傾けたその先に、ちょうど食堂に入ってきた二人組……そのうちの一人、見知ったクラスメイトの顔を見つけた。
「あ、恩田」
もう一人の生徒と話しながらトレーを取っている。思えば今日、放課後はすぐに部活に行ったので、彼とは朝以来話す機会がなかった。塚原はすぐに席を立って駆け寄った。
「恩田っ」
「塚原」
初め驚いて、彼は塚原を認めると柔らかく微笑んだ。随分と大人びて見える表情だった。何の気もなしに大声で名前を呼んだ塚原の方が気恥ずかしくなる。
「部活帰り?」
「あ、うん」
着ているウインドブレーカーを見て言う。うなずいて答えた。
「……あの、今日は、ありがとうございました」
塚原が深々と頭を下げると、恩田もトレーを持ったまま同じように深く頭を下げる。
「こちらこそありがとうございました」
「えっ、なんで」
思わず塚原が声を出す。
「なんでって、俺の方も世話になったじゃん」
「……いや、絶対俺だろ」
「お前もだけど、俺もじゃん」
「いやいや俺のがひどかったじゃん」
「そうかもしれないけど、でも――」
「だろ? だから俺の方が世話になったってことだろ」
真顔で言い合っていると、恩田と一緒に来ていた男がぶっと吹き出した。
「何その言い合い。訳わかんねえんだけど」
我に返って塚原と恩田も笑う。確かに変な言い合いだ。笑い混じりに恩田は言う。
「……まあ、もう朝メシおごる必要もないかな」
小さな声だったが、塚原には聞き取れた。まっすぐ目を合わせて謝る。
「……書き置き、見た。ごめん、ほんと」
「見た?」
恩田が首をかしげる。服を着せかけてもらっているときだと説明しようと思ったけれど、隣の友人らしい男の前で不用意なことは言いにくい。
「うん」
「塚原……くん? 恩田と同じクラス?」
その男が塚原と目が合うと訊いてきた。
「うん。あ、塚原、こっちは俺と同室の
恩田が笑顔で紹介する。手振りも表情も、何のこだわりも躊躇いも感じられない。
……こいつが、あの、昨日言ってた……。
思わずまじまじと見てしまう。恩田と同じくらいの身長で、同じくらい大人びて見える。垂れ目の優しい雰囲気を持った男だった。脳裏に茶色い毛色のうさぎが思い浮かぶ。昨日聞いた話から塚原が勝手に想像していた人物像とはまったく違っていて、咄嗟に言葉が出ない。
「……ども」
「よろしく。塚原って塚原由太くん?」
人懐っこい笑顔を向けて甲斐が訊く。驚きながら塚原は答えた。
「……知ってんの」
「俺、元陸上部」
自分の顔を指差して言う。
「えっうそ」
「あそこのエースじゃん」甲斐は塚原の出身中学の名前を口にした。
「エースってか……うちは弱小で、みんな速くなかっただけだよ。つーかよくうちの中学なんて知ってるな」
「マネージャーやってたしね」
にこにことうれしそうに話す。塚原の方は、覚えがなかった。
「走らねえの」
「うん。まあ、ちょっと色々あってね」
「へえ……」
「あ、話の途中でごめんな。俺先行くわ」
「うん」
「塚原くん、またな」
「おー」
さらりと手を挙げ、甲斐は配膳カウンターへ歩いていく。その後ろ姿を見ながら塚原は思わずつぶやいた。
「なんかイメージと全然違う」
その言葉に恩田はふっと穏やかに笑う。
「だろ? あいつ、悪いやつじゃないんだ。……だから気まずくなりたくなかった」
困ったようにくせっ毛の髪をかき混ぜる。周りをはばかって、塚原はそっと小声で訊いてみた。
「今日は大丈夫なのか」
「うーん昨日の今日だし、大丈夫と思うけどな」
「何かあったら言えよ」
そう言うと、恩田は意外そうに塚原を見る。
「……ありがと」
「よし」
「塚原ー! 先風呂行くからなー」
テーブルの方から声が届く。松谷だ。「あーい」と大声で応じてから、塚原は恩田に手を挙げ、食堂の席に戻った。
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