STAR

道半駒子

本編

迷子のイモ虫

 窓がひときわ大きな音をたてる。学生寮の部屋の中でも聞こえてくる風の音は、それだけで周囲すべての温度を奪っていくように感じられる。

 寒い、初冬の夜。


 つかはらゆうは自分の部屋を出て、寮内のラウンジへ向かった。寒いけれど、喉は乾く。温かい布団にくるまって、冷たい飲み物を一気にあおりたい気分だった。大股に廊下を進むと、寝間着代わりのジャージのポケットの中で、小銭が跳ねて音をたてる。

「ポカリ……コーラ……いや、キリンレモン」

 消灯後のラウンジは、壁に設置された自動販売機の明かりでほのかに照らされている。そのうなるような駆動音を聞きながら、塚原が近づいたとき。

「うわ!」

 ラウンジにいくつか置かれている三人掛けソファ、その一つに何かうごめくものが見えたのだ。恐る恐る目を凝らすと、それは毛布にくるまった人であるようだった。

「えー……」

 びびった。でっかいイモ虫に見えた……。

 その人物も塚原に気づいたようで、イモ虫がさらに激しく動き、毛布から顔を出した。

「あ、恩田」

「……塚原か」

 くせっ毛の髪をかき上げながら起き上がったのは、塚原と同じクラスのおんりゅうせいだった。自動販売機の明かりに照らされ、透き通るようにすら見える白い頬。目、鼻ときれいな形をしていて、その繊細な顔立ちを少し厚めの唇が絶妙なバランスで支えている。なんとも整った顔立ちの男だ。入学式で初めて彼を見たとき、ふと目が合い、やけに緊張したことを覚えている。

 ただ、同じクラスといっても教室や寮で特に接点はない。彼が塚原の名前を覚えていることは意外だった。

 お互いの顔を認識し、揃って大きく息をつく。寮母さんや先輩に見咎められたかと思ったのだ。

「誰かと思ったら恩田かよ。何やってんの」

 毛布を頭からかぶり、身体にしっかり巻きつけてイモ虫になっている彼の様子は、普段の大人びた雰囲気からかけ離れていて、深く尋ねていいものか躊躇してしまう。

「寝てる」

「いやそれはわかるけど。なんでここで」

そう言いながら、恩田と言葉を交わしたのはこれが初めてじゃないかと思い至る。塚原は妙に落ち着かない気持ちになって、ポケットの中の小銭を鳴らした。

 恩田は一瞬目を伏せ、ためらうように口を開き、やがてぽつりと言った。

「部屋に、居づらくて」

「え? 同室誰だっけ。喧嘩したのかよ」

「いや……」

そのまま言いよどむ恩田。そのあいだに塚原はキリンレモンを買う。ビンが落ちる大きな音が響いた。

「じゃあ……いじめ?」

「いや、そんなんじゃねえよ。……塚原、黙っててくれるか?」

「……うん」

恩田はぼさぼさの頭をかく。

「同室のやつが、夜中……こっそり恋人連れ込んでてさ」

「え」

ビンの蓋を捻った手が止まる。

「ベッドさ、カーテン閉めるから見たわけじゃないけど。足音とか、声でわかるんだよな」

「……うわー……マジかよ。ありえねー……」

絶句した塚原を見て、慌てて恩田は付け足す。

「ああいや、別にヤったりしてるわけじゃない……のはわかる。さすがに。けどすごくいちゃいちゃしてるみたいでさ」

「そ、そっか。そりゃそうだよな。びっくりした」

「それで今日ついに、消灯の後抜け出した」

苦笑いで肩をすくめる。その拍子に毛布が頭からずれ落ちた。正に捨てられた子犬のような様子だ。

「同室のやつ、ひでえな。それ最低限のわきまえってやつだろ」

 規則で決まっているとかそういうことではなく、集団生活をしていく上で当然の、暗黙の了解というものではないのか。

「うん……まあ、気持ちはわからなくもないんだ」

「いやいや、怒れよ」

「怒って気まずくなるのも嫌だし、あの二人が色々辛い思いして一緒になったことも知ってるし」

そう言ってソファに背を預ける恩田。

「……相手、三年の先輩なんだ。一緒にいられるのもあと三ヶ月あるかないかって感じらしいし」

「…………」

「だから、怒りがわく前に抜け出した」

そう言って肩がこった、というように首を回した恩田を、塚原は驚きを持って見つめた。話の内容にも驚いたけれど、恩田のその態度にも。

 自分が怒るかもってわかるからそれを避けようとするなんて。

 恩田って、おっとなー。

 後先考えず思うまま行動してしまう塚原とは大違いだ。

 自分だったらどうするだろう。連れ込んだとわかったその瞬間に怒って、非難するのではないだろうか。例えそれが正しいことで、同室とその恋人が悪いのだとしても。恩田の話を聞けば……それはあまりにも、後味が悪い。

 思わず目の前の恩田をまじまじと見てしまう。彼はふわりとあくびをして、また毛布を身体に巻きつけ始めた。

「俺んとこ来る?」

「……いーの」

塚原の問いかけに、恩田はすぐに反応を見せた。

「俺同室いないし。なんでそんないいやつがこんな扱い受けんだよ。ベッド貸すよ」

「ありがと」

恩田自身も、この寒いラウンジで夜を明かすことに限界を感じていたのだろう、ゆるく微笑むその顔に安心した色を見て、塚原はなんだか少しだけうれしくなった。ちょっと、得意な気分。

「はっ! ちょっと待った!」

歩きかけた塚原は恩田を振り返った。

「その同室の恋人って……男?」

恩田は毛布を巻きつけた格好のまま、首だけでうなずく。

「うん。まあ……そう。……男」

「……マジであるんだ、そういうの」

「知らなかった?」

まるで自然な恩田の問いに、塚原はうなだれた。

「……全然。入学以来全然聞いたことなかった」

 二人が通う高校は男子校で、生徒の三分の一は寮で生活している。入学が決まったとき、中学の友達からは「ホモになって帰ってくんなよ」とからかわれたものだ。塚原もまったく考えていなかったわけではないけれど、実際に耳にしたのは初めてだった。

「まあ、塚原は寮のやつらとあんまりつるんだりしてないもんな。同室いないし」

「寮のやつ、多いの」

「それなりに」

「それなりか」

訊いておきながら、返す言葉に困った。とりあえず行くかと恩田を促して、一階の一番奥、自分の部屋へ向かった。




 窓から月の光が青く差し込んでいる。カーテンを閉め忘れていたのを思い出したけれど、もう布団からは出たくない。それに窓の外は特に視界をさえぎるような大きな建物はなく、あまり閉める必要を感じなかった。


「同室いないっていったら、一人部屋ってことだったのか」

「……ごめん」

 六畳ある塚原の部屋。元は寮の当直室だった部屋をリフォームしたもので、ベッドも机も本棚も一つ。そのたった一つのシングルベッドに、恩田と塚原は並んで横になっていた。

「俺、お前にベッド貸す気だったんだけどな」

口を尖らせて塚原がぼやくと、すぐに恩田は返す。

「そしたら塚原が床で寝ることになるだろ。部屋に入れてくれるだけありがたいのに、そこまでできねえよ」

「でもお前が床で寝たらラウンジのソファと変わんねえじゃん。むしろソファのが背中痛くならないじゃん」

「いや部屋に入るだけで全然温度違うから。あの広いとこ、風防ぐドアもないし、窓大きいし。冷たい風が常に顔に当たるんだよ」

「でもそれじゃあ俺がベッド貸すって――」

「あー……ストップストップ。また同じ言い合いしてる」

「ああ、ごめん」

 寒いラウンジから塚原の部屋に駆け込んだところまではよかったけれど、そこからベッドに入るまで、今のような言い合いになった。堂々巡りで結論が出ないので、部屋の主である塚原の「もういいよ。俺も寝るからお前も入ってこい」という一言でこういう形になったわけだ。

「まあ、なんだかんだ言って人肌が一番温かいって言うし」

少々の照れくささを吹っ切るような塚原のあけっぴろげな言葉に、恩田も苦笑しながらうなずいた。

「……まあね」

同じベッドの中。二人して自分の毛布にもぐり込んで目を閉じた。




 翌朝。耳慣れたわずらわしい携帯電話のアラーム音が響き渡る。まだ薄暗い部屋の空気をめちゃくちゃにかき乱すようだ。自分で設定した音だけれど、実際に聞くといつも腹立たしい。恩田はしかめ面で枕元の携帯電話を探り当て、音を止める。

「はー……」

 もう朝か。

 身体を起こそうとして動かず、傍らを見やって驚いた。反対側の腕は、塚原の枕になっていた。鼻先に彼の頭があり、恩田の毛布がその両手にしっかり握られている。

「…………」

薄暗い視界の中で、その安らかな寝息が身体を通して伝わってくる。毛布に半分覆われた寝顔はなんともあどけなくて。身体を丸めて腕の中におさまる様子は何か小動物を拾ったような気分になる。

 へー、かわいー……。

 ついつい頭を撫でてしまう。短い髪はさらさらとした感触を残した。先程のアラーム音もまったく聞こえていなかったようだ。ぐっすり眠っている。

 起こそうかと一瞬思ったが、まだ時間は早い。このまま自分の部屋に戻ることにした。起こさないようそっと腕を外し、ベッドから出る。

「さむっ」

急いで乱れた布団を整え、半分以上塚原の腕の中で丸まっていた自分の毛布を引っ張り出す。掛け布団を肩までかけ直してやった。彼の寝息はまったく乱れない。眠りが深いタイプなのだろう。そして机の上のメモ用紙と鉛筆を借り、書き置きを残した。

 そっとドアを出る。朝になったことだし、ドアの鍵は開けたままで構わないだろう。

「……お邪魔しました」

薄暗い廊下を、恩田は自分の部屋へ戻った。




 六時過ぎに自分のベッドに入って一旦眠った後、着替えを済ませ、いつもと同じ時間に同室の甲斐かいと食堂に来たのが八時ちょうど。食べ終わった彼に「待ってるやつがいるから」と先に行かせ、恩田はテーブルに座り直した。


 壁時計を見る。時間は、八時二十分を過ぎたところだ。

 ほかほかの白ご飯、豆腐とわかめの味噌汁、甘い匂いの玉子焼きに、サバの塩焼きも揃っている。ごくりと唾を飲み込んだ。

 恩田は長テーブルの端で頬杖をついていた。目の前には朝食セットがほかほかと温かな湯気を立てている。またしてもお腹が鳴った。

「遅いな……」

 塚原を待っているのである。

 朝彼の部屋を出て行く前に残した書き置き。昨日のお礼に朝食をおごると書いていたのだ。ちゃんと気づくように、ベッド横に畳んであったシャツの上に置いた。なのに、まだ姿も見えない。

 遠慮したのかな。

 一瞬そう思い、すぐに考え直した。塚原がそういうことを気にするようには思えなかったし、仮に気にするとしてもこちらに何も言わずに済ませるとは考えにくい。むしろ真っ先に走り寄ってきて「もうメシ食ってんのかよ」くらい言いそうなものなのに。

 ……じゃあ、朝メシ食わない主義とか。

 彼の細身の身体を思い出す。確か、陸上部に所属していると言っていた。細いがしなやかな筋肉がついていた。ストイックな体つき。けれど丸くなって眠る姿は、主人にすべてを預け安心して眠る飼い犬や猫のようで、ものすごく……何かかき立てられるものがあった。恩田の毛布を握っていたあどけない寝顔が頭の中に再生されて、思わず口元を押さえる。


 ――マジであるんだ、そういうの。

 そう塚原が言ったとき、「恩田もそうなの?」とは訊かれなかった。訊かれなくて心底ほっとした。訊かれたら、恩田は首を縦に振らなければならないし、そうすると塚原だってベッドを貸すと言った以上、心穏やかではいられなかっただろう。

 「そう」じゃないんだよな、塚原は。

 そうじゃなければ、ああしてあっけらかんと他意も色気もなく提案しないだろう。この高校の寮生は半数近くがそういう性質を持っているらしい。恩田も同室の甲斐もそうだが、彼は違うようだ。


 物思いから覚めて壁時計を見ると、八時半を過ぎていた。随分遅い。

 書き置き気づかなかったかな。すれ違ったかな。

 まだ起きていないとも思えない。仕方なく、恩田は箸を取って手を合わせた。味噌汁を一口すする。


 そのとき、脳裏にふとよみがえる記憶があった。途端に自分でもはっきりとわからない嫌な予感が身体を這い上がってくる。恩田は席を立って、食堂を出た。廊下を走りながら、記憶を辿ろうと頭を働かせる。

 入学式の日も遅刻してきたやつがいた……あれ、あいつだったっけ?

 違ったっけ。よく覚えてない。けれどたびたびクラスで遅刻するやつがいた気がする。先生から注意を受ける後ろ姿、その頭が塚原のものと重なる。


「塚原!」

 塚原の部屋、ドアの鍵はまだ開いたままだった。駆け込んでベッドをのぞくと、彼もそのまま。嫌な予感が見事に的中した。彼は恩田が出て行ったときと全く同じ体勢で寝ていたのだ。

「おい、塚原! 起きろ!」

ベッドの掛け布団を引きはがす。始業まであと二十五分。朝メシだって食ってないのに!

「んー……?」

「なんでまだ寝てんだよお前! 朝だって! 早くしないと朝メシ無駄になるっ」

身体を引っぱり起こすとかくん、と首が垂れる。眠そうに目は閉じたまま、着ているジャージはよれよれで、髪の寝癖もひどい。表情だけはあどけなく、平和なものだ。

「うん……ごめん」

目も開けずに塚原は答える。……そして動かない。頭の中はまだ舟を漕いでいるようだ。揺さぶっても、頬を叩いても、目は半分も開かない。

「塚原ぁー……」

「……うん」

返事だけはできるらしい。その様子と朝食セットが恩田の脳裏に浮かぶ。時計を見ると、八時三十五分。

 …………。

 恩田はため息をついて腹をくくった。ベッドに座ってゆらゆら揺れる塚原を押しとどめ、クローゼットから見当をつけて制服の上着やスラックスを取り出すと、ジャージを脱がせて着せかける。靴下を履かせ、ネクタイを締める。腕を引っ張って洗面所へ連れて行き、顔を洗わせ歯を磨かせる。髪の毛の寝癖を整えてやる。何も入っていないのかと思われるほど軽い鞄を持たせ、靴を履かせる。この間、十分。塚原本人は何度もごめんと言いながら、大人しくされるがままになっていた。

「鍵は」

塚原の後に靴を履いた恩田が訊く。ドアを開ける。

「持ってる。……だいじょぶ」

顔を洗って少しは目が覚めたようだ。自分でドアを締め、鍵をかける。

「行くぞ、食堂」

「うわっ」

 塚原の腕を引っぱり、駆け出す。腕時計の時間を確認した。あと十五分。校舎までは三分とかからないから、ご飯を食べて、なんとか間に合いそうだ。駆け足で食堂へ向かった。もうほとんど生徒はいない。長テーブルの一番端、恩田のご飯には食卓カバーが掛けられていた。

「はー……」

 疲れを覚えて、席へどっかり座り込む。箸を取ったところで、塚原もやってきた。湯気の立つ椀を載せたトレーを置いて向かいに座る。

「いただきます」

「いただきます」

お互いに手を合わせ、食べ始めた。食卓カバーのお陰か、ご飯も味噌汁もまだ温かかった。空っぽの胃にしみわたるようだ。恩田はもう一度時間を確認して、玉子焼きに箸を伸ばした。

「……朝メシ、何年かぶりに食べた。すっげーうまい」

塚原の声に顔を上げると、彼のきらきらした目にぶつかった。

「おんだありがとー」

ふんわりと微笑んでそう言う。口の端に米粒がついていた。恩田は思わずまばたきをする。なんとものんびりしていて、穏やかで……まるで日だまりのような笑顔だと思った。あと数分で始業だということも忘れそうになる。

「……どういたしまして」


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