忠告

 塚原の所属する長距離陸上部は、総勢六名の生徒が在籍している。一年は塚原と松谷の二名で、残りの四名は二年生だ。三年生も四名いたが、夏の大会を最後に引退している。彼らが引退した後はついに一桁の部員数になってしまったと、後輩たちは淋しい気持ちになったものである。


 部内に厳しい上下関係はまったくなく、どうやらそれは伝統的に部の人数が少なかったことも一つの要因らしい。部室の定期的な掃除や毎日の用具の準備・片付けはもちろん一年の塚原たちが行うけれど、活動自体は全員同じメニューをこなしていた。ストレッチから始まって、ステップ、ジョギング、ラダートレーニング、インターバルランなど。短距離陸上部と共に、学校のグラウンドのトラック部分のみが使用を許されたスペースだ。冬でも練習中は汗だくになる。


 今日は日曜日。空は薄曇りだが、時間のせいもあって見上げれば眩しく感じられる。昼の休憩時間で、塚原と松谷は並んで弁当の買い出しにコンビニへ向かっていた。「コンビニに行くのなら」と先輩たちから頼まれた買い物も一緒に済ませるつもりだ。


「そういえば、塚原さ」

「うん?」

 寒いので自然と二人とも猫背になる。塚原は身体を縮めたまま松谷を見上げた。

「前に、彼女がどうとか言ってたじゃん」

「ああ」

 先月のことだ。恩田が初めて塚原の部屋に来た、その次の日。そういえばあのとき食堂で恩田のところへ行ったせいで途中になっていた。

「塚原はどうなわけ」

「俺? いないよ」

 いるわけないじゃん、と心の中で付け足す。クラスメイトでよく話す仲間は、同じ学区の女子校の生徒とグループで遊んでカップルになっただの、中学の頃付き合い始めた彼女とまだ続いているだので、彼女がいないのは塚原だけだ。中学三年のとき進路の問題で当時の彼女と別れ(初めての彼女だった)、高校に入ってからは平日も休日も部活で埋まっている状態では、恋人など作る余地はなかった。


「……じゃあ、彼氏は」

 ぼそっと言った松谷の声に思わず足が止まる。彼はいたずらが見つかった子供のような表情でこちらを見ていた。

「やっぱそういう話になんの、この学校」

「まあ……一部な。つーか寮生の中で」

「……そうなんだ」

 松谷ですら知っていたことを、どうして今まで自分は知らなかったのだろうと塚原は思う。寮生の中にはクラスメイトも何人かいるけれど、確かに仲が良い友達とまではいかず、食事も大抵松谷と一緒である。単純にそういう話が耳に入るネットワークの外にいるということか。


「ってことはいないのか、塚原は」

「いないし、そんな趣味もない」

「だろうな。……まあ、そうだよな……」

 静かにため息をついて松谷が歩き出した。その言い方がひっかかる。慌てて塚原は追いかけた。

「なに。……なんだよ」

「……お前、ちょっと気をつけとけよ」

「え」

「男と付き合う気ないんだろ。だったら気をつけろってこと」

「俺?」

松谷の言葉の意味がわからず問い返す。彼は塚原をちらと見、また前を向いた。もうコンビニの目の前まで来ていた。答えず店に入る松谷を追いかけて、自分たちの弁当と、先輩たちから頼まれた飲み物を買う。手分けして袋を持ち、来た道をそのまま歩道に入ったところで、松谷がまた口を開いた。


「……あんまし言いたくないけど、お前最近人気あるから」

「は?」

「お前のことかわいいとか思って、お前と付き合いたいって言うやつが、そこそこいるってこと」

「はあ!?」

またもや足が止まる。空いた口がふさがらず、松谷を凝視してしまう。松谷は無言で顎をしゃくって塚原を促した。とりあえず歩き出すけれど……。

「何それ」

「……あんまし言いたくなかったけど」

「嘘だろ」

「本当かどうかわかんないけど、そうらしいって俺の耳で聞いた話もある」

「誰!?」

「名前まで知るかよ」


 鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。だって俺……俺って! 未知の宇宙空間のど真ん中へ放り出されたような感覚がして、まっすぐ歩くことですら難しくなっていく。塚原は頭を抱えた。

 大体、かわいいって何だよ!

「……陸上部の先輩の中にはいないから安心しろ」

何の慰めにもならないことを松谷が言う。

「いや、まあ、そりゃいいけど……マジかよ」

信じられない。嘘だとしか思えない。意味がわからない。


「別に告白されたとかねえぞ! 男に!」

というよりクラスメイト以外で特定の男と特別どうこう話をしたこともない。寮内ならなおさら。一緒に行動するのも松谷くらいだ。一人部屋だし。

「だから気をつけろって言ってるだけだろ。別にびびることないけど、告白されたりしてもきっぱり断れよってことだ」

「え、されんの、俺」

訳わかんねえ、とついに頭をかきむしる塚原。松谷は肩をすくめた。

「知らねえよ。けど、もうすぐクリスマスだろ。可能性を考えとけって言ってんの」

「えー!?」

「声でけえよ」

顔をしかめて松谷が抗議する。塚原は我慢できなくなって彼の肩を掴んだ。

「なんだよ忠告してくれるならもっと具体的なアドバイスくれよ! 気をつけろって何だよ! 怖えーよ!」

「だからびびんなくていいって。そういう可能性をとりあえず頭に入れとけってこと」

「……告白される可能性?」

「告白される可能性」

面倒くさそうに繰り返してうなずく松谷。塚原はますます混乱する。

「要は告白されてもちゃんと断れってことだろ? 大丈夫だよ! 全力で断るよ! キモいじゃん!」

「…………」

「え、違うの?」

塚原に掴まれた腕を外し、黙ったまま再び歩き出す松谷を見て、塚原の中に更なる不安が広がっていく。慌てて追いかけた。


「……見ず知らずのやつならキモいで済む。けど同じクラスのやつだったら? よく話す友達だったら? 単純にキモいなんて言えるか?」

「…………」

「最悪そういうことも頭に入れとけってことだよ。中途半端に答えて、関係こじらせたら余計にまずい」

「……な、なるほど」

松谷の真面目な表情と声に、とりあえず暴れ出しそうな感情が動きを止める。上手く飲み込めないが、彼の言葉の意味はわかった。相手に期待を持たせるなということだろう。

 どこのモテ男だよ。そう自分でツッコミを入れずにいられないけれど。


「間違っても、一回でいいから、とか言われて触らせたりすんなよ」

「何だよそれっ!?」

 触らせるって……何!? 何をだよ!?

 たった今動きを止めたと思った感情がまた暴れ出す。混乱と恐怖が全身を駆け巡ってめまいがする。言うだけ言ってさっさと校門をくぐる松谷を、塚原はふらつきながら懸命に追いかけた。



 ――見ず知らずのやつならキモいで済む。けど同じクラスのやつだったら? よく話す友達だったら? キモいなんて言えるか?

 練習メニューの最後のジョギング中。あれからともすると松谷の忠告が耳によみがえってくる。……というよりむしろそのことで頭がいっぱいになってしまい、練習に集中できなかった。

 確かに友達だったりクラスメイトだったり、仲良いやつからもし……告白されたらきついよなあ……。

 万が一松谷が言うことが本当だったとしたら、である。あり得ないとしか思えないけれど。


 ――塚原、好きだ。付き合ってほしい。

 ふと想像して、浮かんできたのはなぜか恩田の姿だった。どきりとする。恩田って何だよ俺。こないだ一緒に朝食を食べたときに触れた指。恥ずかしいなと言って顔を赤くしたその表情を思い出す。あんな風に照れたのを見たのは初めてだった。

 いやいや、違うから。

 首を振る。

 告白されたとして、どう断るかだろ。いや、あり得ないけど。絶対にあり得ないけどな!


 ――一回でいいから……一回だけ、触らせて……。

そう考える間に、脳は勝手に別の恩田を描き出していた。伏し目がちで、切ない表情。

 ちょ……何それ。

 だから触るって何をだよ。

 背筋に小さな電流が走ったような感覚がした。心臓が激しく鼓動を打つ。それはもちろん走っているせいだけれど…じわじわと小さな痺れが上半身を立ちのぼってくる。


 えー…と、断るには……断るには……。

 想像上の恩田を前にして、塚原はまったく言葉が出なかった。頭の中に色々な言葉や感情が渦巻いて判断がつかない。

 えっと、えっと、えっと……。だから、その。

 ああもう―――

「わからん! ごめん!」


 ジョギング残り十メートルのところで、塚原は思いきりそう叫んでしまっていた。すぐ傍で同じくジョギングをしていた部員全員が驚いて彼を見やる。

 松谷のため息が白く、一際長く残った。

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