最終話 明日も見えないまま希望も見出せない、むしろ不安の方が大きいけれど、失敗を恐れずそこに向かって歩き出して行く旅立ちの僕らへの祝福には適度な量のお酒を乾杯サバイバル起床

「だーかーらっ! 何で、早田くんは隣で寝てたの!」


 その日は正午ごろ、マンションに喧嘩する声が響いていた。


「何度も言ってるだろ、疲れて眠くなったんだよ!」


 喧嘩する声は、三尾森さんと早田くんが眠っていた部屋から聞こえていた。


「お前こそ、どうして僕が使っていたベッドに寝てたんだよ!」


「早田くんが使ってるベッドはどんな寝心地なのかなーって気になったの!」


 三尾森さんと早田くんは二人ともベッドの上に胡坐をかきながら、大音量での口喧嘩を繰り広げていた。


「思ってたよりも気持ちよかったからそのまま寝ちゃったの! 見なさい、この低反発性を!」


 三尾森さんはベッドをバシバシ叩く。ふかふかのベッドはその衝撃を吸収した。

 彼女はさらに持論を続ける。


「元々早田くんのベッドじゃないんだから、私が寝てもいいじゃない!」

「どういう理屈なんだよ、それは……」


 三尾森さんの無茶苦茶な説明に、早田くんの声に無気力さが混じる。


「じゃあ、持ち主じゃない僕が寝てもいいだろ……?」

「そうじゃなくて! 寝ている女の子にベタベタ触れてきたことに私は怒ってるの! 分かる?」


 まるで小学生を叱る母親のように、三尾森さんは早田くんへ問いかける。


「お前が自分のベッドで寝ていたら隣で寝ることもなかったんだがな」

「どうせ私が寝ている間に卑猥なことをしたんでしょ! このスケベ!」

「疲れてるのにするわけないだろ」

「嘘よ! 男は獣だって昔の友達が言ってたもん!」

「証拠がないだろ……」

「状況証拠なら揃っているわ!」


 この口論に終わりを見出せなかった早田くんは、話題を切り替えることを考える。


(何か、こいつを黙らせる話題はないものか……)


 早田はしばらく考え込んだ後、ようやく反論する。


「こっちはお前のせいで疲れたんだぞ。屋上まで使い走りさせられて、電力供給システムは結局……」

「え、電力どうなったの……?」

「ダメだったよ。完全に壊れてた」

「えぇっ、そんなぁ」


 三尾森さんの怒りはどこかへ置き去られ、悲しい表情へと変わっていく。


「昨日見たでっかい化け物がぶっ壊したんだよ」

「そ、そんなわけないでしょ?」


 三尾森さんの目が虚ろになっていく。


「疑うなら、屋上を見てみろよ」

「う、うん……」


 三尾森さんはベッドから降りると、寝巻きのままフラフラと寝室を出て行った。


     * * *


 三尾森さんは屋上へ続く扉へと辿り着く。


「扉が閉まってるじゃない」


 三尾森さんはドアノブをガチャガチャと鳴らす。その後ろから早田がゆっくりと追いかけてきた。


「その扉のガラスは防犯仕様で、そこまでしか穴を開けられなかった」

「何よ、全然修理とかしてないじゃん」


 三尾森さんは頬を膨らませて早田くんを睨んだ。


「いいからその穴を覗いてみろよ」


 彼女は早田くんに言われたとおり、目を穴へ近づけた。


 見えたのはだった。


「うひゃあ!」


 今回も扉の向こうから死神が覗いていた。その巨大な目玉に三尾森さんは驚いて後ろへ飛び下がり、背後にいた早田くんに激突する。


「ぐあっ! いってえ! 鼻がぁ……」


 三尾森さんの後頭部が早田くんの顔面を直撃した。彼は痛みで鼻を押さえ、その場にしゃがみ込んだ。


「今のはびっくりしたよねぇ……」

「うるせぇ、少しは謝れ!」


 こちらを覗いていた死神は奥へ戻り、三尾森さんは再び穴を覗き込んだ。


「あっ、あぁあぁ!」


 三尾森さんの悲鳴がマンションに響き渡る。三尾森さんの視界に、無残にもバラバラになった装置が移り込む。部品が散乱し、白い煙が出ていた。


「何してんのよ! あなた! 馬鹿なの?」


 まだドアの近くに留まっている死神に向かって、彼女は声を荒げる。開かない扉をドンドン叩き、悔しさを体で表現する。


「うっ、うっ……」


 三尾森さんは扉に寄りかかり、膝を床について泣き始める。顔を扉につけ、涙が床へボタボタと垂れていく。


「……」


 寝巻姿でこちらに尻を突き出して泣いている三尾森さんが、早田くんには妙に色っぽく見えた。その様子をしばらく眺めていたが、自給自足生活を始めるという自分の計画を思い出し彼女に声をかける。


「じゃあな、僕は耕作地を探しに出かける」


 彼はゆっくりと立ち上がり、自分の荷物を取りに寝室へ戻ろうとした。


「ち、ちょっとぉ! どこに行くの!」

「荷物を取りに戻るんだよ!」

「い、行かないで、お願ぁい!」


 三尾森さんは早田の腰に正面から抱きついて彼の動きを止める。彼女の顔が彼の股間に当たり、彼が穿いていたジーンズが涙で濡れた。彼は戸惑いながらも三尾森さんを引き剥がそうと彼女の体を掴む。


「は・な・せ・よ! じゃ・ま・だ・よ!」

「嫌ァ! 私これからどうやって生きていけばいいのぉ?」

「知るか!」


 この乱闘は夕方まで続いた。


     * * *


 その日も結局、早田くんは三尾森さんのマンションに泊まることになった。

 日が沈み、空には昨夜と同じく、たくさんの綺麗な星が輝き始める。三尾森さんと早田くんはベランダの手摺に寄りかかり、それを眺めていた。


「綺麗だね……」

「そうだな」


 二人とも缶チューハイを片手に持ちながら、夜風を浴びている。チューハイは三尾森さんの自宅の冷蔵庫に保管してあったものだ。彼女はそれを少しずつ口に運ぶ。

「一緒に星を見よう」と提案したのは早田くんで、三尾森さんは思いつきで酒を持ってきたのだ。二人ともたくさん飲んでいたわけではなかったが、三尾森さんの方は顔がかなり赤くなっている。


「やっぱり冷蔵庫の電気が止まっちゃうと、ぬるいね。炭酸抜けちゃってる」

「冷たいものが飲めるって贅沢なことだったんだよ。僕らは当たり前に思いすぎて、その有り難味を忘れてるんだ」

「そうかもねぇ、電気って贅沢だわ、ほんと」


 彼女はチューハイを飲み干した。


「やっぱり綺麗な景色にお酒は合うね」

「二十歳になって間もないくせに何言ってるんだか」

「ねぇ、早田くん……」


 三尾森さんは手摺に寄りかかるのを止め、彼の方を向いた。


「今日は、その、一緒に飲もうって誘ってくれてありがと」


 それは早田くんが三尾森さんから初めて聞いたやさしい言葉だった。早田は少し驚いて彼女を見つめる。

 夜風が彼女の黒髪をさらさらとなびかせていた。

 彼女の顔は赤くなっており、酔っているせいなのか、照れているせいなのかは分からない。

 黒く大きな瞳が、早田くんを見つめていた。


「どうしたの? 顔赤いよ? 照れてるの?」


 三尾森さんの言葉で彼は我に返る。


「い、いや、そうじゃない。酒のせいで少し判断力が鈍ってるだけだ」

「そっか……」


 彼女は再び手摺に寄りかかって星を眺める。


「今日はさ、喧嘩ばっかりしてたけど、結構楽しかったんだ。久しぶりに人と話せて……」

「そうか……」

「今みたいに社会が混乱してると『ヒャッハー!』みたいな連中が出るって思ってたけどさ、早田くんは優しくて良かったよ」

「そうか?」

「うん、これまでの私が贅沢だったんだよ。電気も食糧も贅沢だったし、早田君に会えたのも贅沢」

「まぁ、強盗みたいなやつらと出会うよりは断然贅沢かもな」


 三尾森さんは手摺に寄りかかりながら欠伸をした。瞼が半分下りている。


「眠くなってきた」

「人間が本来は眠る時間だからだよ。夜も活動できるってことは人間が科学で得た贅沢だな」

「そうだね。贅沢で囲まれてたんだね、現代の人は……」


 三尾森さんはベランダの手摺から離れると、室内へ戻ろうと踵を返す。


「私、そろそろ寝るね、早田くん」

「ああ、おやすみ」

「おやすみ。また明日ね」


 部屋の中へ戻っていく彼女に向かって彼は小さく手を振った。


(また明日、か……)


 彼もベランダから自分の部屋に戻っていった。


「もうお前と会うこともないけどな……」


 彼は今度こそ早朝にここから耕作地を探しに出かけることを決意していた。


「僕も久々に人と話せて楽しかったよ。三尾森さん……」


 早田くんはベッドの上に仰向けに寝て、目を閉じた。

 昼間の乱闘のせいで疲労が溜まっており、すぐに眠りへ落ちていった。


     * * *


 翌日、早田くんは目を覚ました。ベッドの近くに置いてあった目覚まし時計は午前5時30分を指している。窓の外は明るく、外へ探索するには丁度よい天気だった。


「よし、予定通り。こんな朝早くからあいつは起きていないだろ」


 彼はクローゼットにしまっておいたアウトドア向けのジャケットを着用し、サバイバル道具がたくさん入った自分のリュックサックを背負う。

 旅立つ準備を整え、彼は玄関の扉を開けた。


「おはよう。早田くん」


「え」


 玄関の外に三尾森さんが立っていた。


「な、何で……?」

「また明日って言ったでしょ?」

「た、確かに言ったけどさ」

「行くんでしょ? 自給自足の生活に」

「そうだけど……」

「だからさ、私も連れてってよ。もうここの電気も止まっちゃったしさ」


 早田くんには断る理由がなかった。


(これは完全に予想外だな……)


 彼女もまた彼と同じようにアウトドア向けの服装をしており、大きなリュックサックを背負っている。

 そこから彼女の言っていることは冗談ではなく本気で言っているのだろう、と感じ取った。彼は考え込み、彼女の問いに答えを出す。


「わかった。これからもよろしく。三尾森さん」

「こちらこそよろしくね、早田くん」


 早田にとって予定外の出来事だったが、不思議と気分は落ち着き、表情は穏やかだった。


(そっか、僕はやっぱりこいつのことが……)


「どうしたの? 早田くん。早く行こうよ」

「あ、ああ。そうだな」


 二人はマンションの階段を下り、外の世界へ歩き出した。

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