碇草々不一
笹山
碇草々不一
僕を産み育ててくれた母と父。
何事にも出来の悪い僕を許してくれる兄。
僕の青春を共に駆けてくれた幾人かの親友。
あるいは、僕と関わってきたすべての人。
それらのうちの一人である、あなたがこれを読んだ後に、再び僕に会うことは二度とないだろうね。
住み着いて四年になるこの安アパートの部屋の中は、もうほとんど片付けてしまって、残っているのは、今僕がこの置手紙を書いている小さな文机と小さな座椅子、それから数冊の文庫本に使い古したWALKMANだけとなってしまった。
迷惑はかけないようにと、身の回りの事物はできる限り処理したけれど、それでもこの部屋の賃貸契約――この部屋を出る時にわざわざ解約してからじゃあ、この手紙もすぐにみつかってしまうからね――なんかはまだだから、どうか同封の数か月分の家賃と共に解約するようお願いするよ。
こうまで部屋が片付いてしまうと、もう本当にやることも見つからないので、この手紙を書き終えたのち、僕はすぐに行こうと思う。
旅立つ僕を、どうか許してほしい。
さて、僕がどうして突然こんな、自分でも莫迦らしく思う行為に及ぶか、それを僕はここに記そうと思う。
そしてこの手紙を読んだ誰か一人でも、今のこの、妙な高揚感と、裏打ちされた絶望感を、そして、僕の四半世紀の生涯で得た少しばかりの人間性と、それを今脱ぎ捨てようという理由を知ってくれたならば、僕はようやく報われた気持ちになるのだ。
僕がこの社会で生きていた証をこの手紙に残すのだ。
※
僕がこの社会を立ち去る理由を述べるには、まず僕の生い立ちから話さなければならない。
とはいえ、僕が特に変わった生まれではないことは、きっとあなたも知っているだろう。
都会から遠く離れた、まさに寒村ともいうべき田舎の次男として僕は生まれた。家は貧乏でも裕福でもなかったが、両親からは一般的な愛情を注がれて育てられた。
兄とは幼い頃は喧嘩が絶えなかったが、そこは子どもだからね。寝たら忘れているのさ。姉妹じゃあ長く確執が続くと言うし、うちが兄弟で良かったよ。
父と母、それから兄と僕の四人家族の暮らしは不便ではなかったが不自由ではなかった。そしてその自由こそが、真綿で首を締める様に、僕を人生の行き詰まりまで苦しめたのではないかと、今になって思うのだ。
さて、その寒村の小学校に入った僕は、少ない生徒と共に、充実したといって差し支えない生活を送った。それから近隣の、同じく生徒の少ない中学校に入った。
幼い頃は誰でも、自分には特別の才能があるのではないかと考えたことがあると思う。
少なくとも僕はそうだった。周りの生徒よりも勉強はできたし、運動も得意だと自負していた。リーダーシップがあったし、友達の会話は私が中心に回していた。そう思っていたのだ。
勿論そんなことは無かった。
高等学校に進学してからしばらくして、僕の自負は全て覆されたのだ。
勉強の成績は中くらいで、運動は下手だと分かった。リーダーシップがあると思っていたのは、僕が断り切れない性格だから押し付けられていただけであったし、僕は友だちの会話の輪の一つでしかなかった。僕が欠けても代わりは誰にでも務まることに気づき、それは大抵の人に当てはまることが分かった。
例えば、そうだね、僕が特別近しくもない友人と話している。その会話に人気者の彼が加わってきたとする。僕と友人と人気者の三人の話は盛り上がったが、彼が会話から外れると、途端に、僕と友人とで話していたことはいつの間にか忘れられて、彼の話に切り替わる。僕たち二人は、彼の一時的な登場により、さっきまで見合わせていた顔を逸らされたのだ。僕と友人は互いに、互いのことに対して関心を抱いていなかったのだと思うのではないか。
だが、もっとさっきの話をしたかったのに、と思うのは僕だけだったろうか。
難しかったかな。でもきっとそんなことを、あなたは感じたことがあるはずなんだ。僕とあなたは変わらない。僕やあなたがいなくても、社会の必要は満たされるし、そして充分でもあると思うんだ。僕たちは社会の余剰なんだ。
募り始めていた寂寥感や気づまりから僕を解放してくれたのは、私の故郷の景色であった。
昔、兄と一緒に秘密基地と称して作った、廃材の木切れを使ったテーブルや椅子が並んだ林。その中を続く、砂利や枯葉の道。その道をふらふらと歩きながら、上を見上げると、高い木々が自然とアーチになって、僕を抱き寄せようとしている。
午後の木漏れ日が、僕の頭や肩に揺れて、周りに響くのはキジやウグイスの鳴き声と、眼下の砂利や枯葉を踏みしめる音だけ。さも気持ちよさそうに両腕を広げたり、背伸びをしたりすると、日常のつまらなさや未来の不安なんかはまるで些末なことに思える。
それからその道をたどって、やがて林を出ると、目の前は低地になっていて、そこには蓮の浮かんだ池がある。取り囲むように背の低い草花が茂っていて、中でもスイレンの薄紫は涼やかに冴えている。池の向こう側はまた林で、まもなく夕方という時間になると、向こうの林を通して射す温かな陽射しが、その場所だけを照らすスポットライトのようだ。水面はシンとして、こちらはさながら踊り子の舞台だ。
僕は密かに、その池と、そして向こうの林とを一望できる場所に、昔秘密基地のために作った小さな椅子を置いていた。いつとはなしにふらりとその場を訪れては、日が暮れるまで椅子に座ってぼんやりと景色を眺めた。その、自然のテラリウムの中に僕がいるとき、僕は確かに世界に存在している気がした。
※
僕の高校までの生活はこんなところかな。
これを読むあなたはどう感じているかな。
僕のような、出所のわからぬ寂しさや、妙な居心地の悪さを、社会に感じているのかな。
それともそんな、感じたところで無意味な寂寥感や孤独感なんて知ったことではない、なんて思っているのかな。
さて、高校生活も終わりに近づき、僕は最初の人生の選択をすることとなった。
すなわち、進学か、就職か、だ。
僕の答えは決まっていた。進学だ。
決まっていた、とは言い難いかもしれない。決められていたのだ。
僕の両親は二人とも学歴は芳しくなくてね、きちんと大学まで修了しないと、その先社会では生きづらいってよく僕に話して聞かせた。そのころは就職難だとか周りが騒いでいたせいもあっただろうね。
僕に反論の機会は与えられなかった。それに、僕が反論して、無理に就職したところで、これまで金と時間をかけて育てた息子が、結局は勝手な判断から人生を棒に振ってしまうかもしれないという後悔の念を、両親にかけさせたくはなかったという僕の気持ちもあったんだ。
親というのはね、子どもが幸せならそれでいい、なんて言うけれど、彼らの言う幸せは、彼らの思う幸せなんだ。僕の思う幸せを、僕が手に入れられるならそれでいい、そう両親は思っていたかもしれないけれど、僕には本当のところが分からないし、そもそも僕の罪悪感が許してはいなかった。
子どもが親を理解することは無いし、親が子供を理解することもないのは、いつも同じだね。他人だから仕方ない。
さて、そういうわけで僕はいくつか行きたい大学の試験を受けたけれど、受かったのはその中でもだいぶ下の偏差値の大学だった。
僕は悔しいと思う気持ちよりも、申し訳なさの方をいつまでも引きずった。
兄は僕よりずっといい大学に進学していて、親からは将来を心配されてなどいなかった。
対して僕はどうだ。行く必要があるのかもわからぬ三流大学に滑り止めして、なんとか進学はできたが、親には心配をかけさせる、兄には慰められる、いっそ勘当だとか絶縁だとかでもしてもらえれば気は楽だったよ。
かくして僕は、その三流大学に通うために家を出た。地元を離れた。
地元を出る前に、あの蓮池へ行った。
変わらず清廉な景色を保つ蓮池と草花と林と木漏れ日。僕がいつもの椅子に座って眺めていると、ふと涙が溢れてきてしまった。
失敗した、失敗した。
僕は社会から必要とされないばかりか、不利益をもたらす害虫である。
頼る人もなく、この地も離れ、僕は一人、名もおぼろげな町へ行く。
今からでも修正が効くかもしれないが、そのための努力は、いったい何を目標にすればいい。いつまでもこの景色を見ていられるならば、それが僕の幸せであるのに、周りはそうさせず、また僕の背徳感がそれを許さない。今の僕など、生きていることが罪であるのに、贖罪のためにはより善く生きねばならぬし、死ねば家族や友人に迷惑をかけてしまう。
嗚咽の間から、僕が誰かの名でも呼ぶことができたなら、その名に頼ることもできただろう。だが僕に慕う人などいなかった。
大学はまるでつまらなかった。
講義については、興味がなかったり、苦手だったりした教科は取らないという消去法で選んだ。高校のころは、まだまだ学問の領域は広いんだ、そう期待していたが、講義を取ってみると、まあなんてことはない、自明のことだったり、基礎的な分野の知識の詰込みだったりで、なにも面白くなどない。学びたい分野もない僕には基礎的な理論や使うあてもない数式は無機質で、僕に何ももたらさなかった。
また友人も少しできたが、関わりは薄かった。
高校のころはあんなに笑えていた、下品な言い回しやジョークが、彼らのような成人の境界に接した人間がやったところで、ひたすらに醜くみっともないばかりであった。
僕の数少ない趣味である読書を解する人間は、僕の知り合いには皆無だった。みな携帯端末を弄っては、ディスプレイのけばけばしい映像や、数メガバイトのイラストデータに一喜一憂している。ぼうっとして考え事をする暇もなく、更新の無い通知履歴を見てはリロードを繰り返している。
すなわち彼らも、僕同様、あるいは、僕以上に社会に必要のない人間であった。
※
僕が大学に入ってから一年経った頃だった。
僕は大学の講義の合間を縫って、足繁く付属の図書館へ通っていた。
三階の角、カフェ風に、窓に面した高く狭いテーブルと、同じく高い椅子、その一番端が僕の定位置だった。その区画だけ飲食ができるので、一階でコーヒーを買って、三階まで登って、持参したペーパーバックを読むのが僕のささやかな楽しみであり、日課であった。
そして僕はWALKMANから流れる曲に、微かに体を揺らしながら、あの蓮池を思い浮かべる。
[What a Wonderful World]
――I see trees of green, red roses too
I see them bloom for me and you
And I think to myself, what a wonderful world
I see skies of blue and clouds of white
The bright blessed day, the dark sacred night
And I think to myself, what a wonderful world――
スマートフォンに着信のライトが灯った。
僕はいったん図書館から出て、スマートフォンの画面を確認した。
父からの電話であった。内容は、奨学金の書類の確認と、仕送りの押し付けと、そして、
「頑張って就職しろよ」
そう言って父は電話を切った。
深いため息を一つ吐いた。
いったい何度この言葉を聞かされただろう。
「頑張って」だって?
いやだ。頑張りたくなんかない。頑張ってまで生きたくない。
「就職しろよ」だって?
なぜだ。どうして僕は職に就くんだ。生きるため? じゃあそれはなんのために?
頑張って? 就職して? 生きて? そしてなんだって言うのだ。
特別の能力もない。親身の人もいない。金もない。魅力もない。
やりたいことはあったんだ。そう、あの蓮池さ。そこにじっと座ったり、ぶらぶらとうろついて、たまに花を摘んでは香りをかいで、池に浮かべて、ただそう暮らしたかった。
だがそんなことを誰が許そう。親も、兄も、数少ない僕の知人、友人も。誰も僕にそれを許さない。私の不条理な罪悪感も許さない。それが当然だと言わんばかりに職を探し、金を稼ぎ、人を養う。それが彼らにとって本当にしたいことだったのなら僕は構わない。でもそうじゃないだろう? こんなに人はたくさんいるんだ。僕みたいな人間だっている。社会で生きることを望まない。積極的に望まない。そんな人だっているはずじゃないか? この窮屈な社会でウまれた余剰の人間には、もはや社会で果たす役割なんて多くもないのに、社会は僕たちを閉じ込めるように、生きる見本を提示して、福祉を整えて、金を稼げ、子どもを産め、そして社会で生きているのだから社会に貢献しろとでも言いたげだ。
話を戻そう。熱くなってしまうのは僕の性癖だね。謝らないよ。
この頃すでに、両親や兄からは、連絡があるたびに激励だとか指南だとかを受けることが常となっていた。忌々しい携帯電話のために、地元から逃げてきた僕と家族との縁は、いつでも途絶えることはなかった。
「がんばれ」「ちゃんと飯を食っているか」「仕送りしておいたぞ」
この言葉たちにいったいどれだけ背中を押されたか。
背中を押され続けた挙句に、僕は、目の前の崖から押し出されたのさ。
※
突然ぷっつりと、何もかもが手につかなくなった。
大学を辞めた。家族には言わなかった。
朝に寝て夜に起きる。
少しの刺激を求めて塩辛い飯を食い、荒れた舌に胃液が染みる。
重い手足をのろのろ動かして、賭博に発狂し、金を失う。
酒をげえげえと吐きながら、次の酒を飲む。
薬で気持ちを落ち着かせて、薬で気持ちを荒げる。
毎日を絶望の中で過ごした。
前には感じていた、生きていることの罪悪感すら忘れて、死ぬことも忘れて、生きていた。
どうして僕は汚物にまみれて息も絶え絶えになりながら生きているのか。どうして僕が絶望に陥ったのか。忘れようとしていた。
享楽のままに生きたい。それなら社会に寄生して生きるしかない。極端に所得が少なければ養ってくれる制度だってある。今の時代、働かなくても生きていけるのだ。
こうして酒と薬に溺れて、ヘラヘラと笑って、ヘラヘラ――
違う。間違っている。今の僕は間違っている。
ヘラヘラ
望んだのはこんな生活じゃない。
これじゃあ、僕はどこにも生きていない。
ヘラ、ヘラ
希望無く社会に生かされるくらいなら、希望をもって社会を出たい。
忘れてはならない。あの蓮池の世界。
ふと正気を取り戻したとき、僕は地元の駅に立っていた。
どうしてここにいるのだろうと思ったが、僕はそのまま歩き出した。
歩いて歩いて、僕はあの蓮池に通じる林道へ至る。
それからまた歩いて歩く。
上を見上げると、冬枯れた木々は、曇天の雲を遮らない。
踏みしめる枯葉はシャリシャリと、抵抗もなく崩れる。
鳴く鳥はいない。ただ僕の呼吸の音しか聞こえない。
そして蓮池に至る。蓮池に。
蓮池は無かった。
埋め立てられていた。
近くの無機質な看板には、まもなくそこに新しい介護施設ができることが記されていた。
気がつけば周りの木々もいくつか切り倒されている。
色という色がまるで失われてしまった、ぽっかりと空いたその場所に、ぽつんと小さな椅子は取り残されていた。
僕はそこに、こじんまりと座り込んだ。
唯一と言っていい、僕の生きる拠り所だった蓮池は消えてしまった。
介護施設。人が生きるためのものに、僕の生きる場所は消えてしまった。
だけどね、僕がその小さな椅子に座っていたのはものの数分だった。
すっくと立ちあがると、僕は元来た道を引き返し、実家に顔も出さずに、電車に乗り込んで、下宿先へ戻った。
僕は確かにあの蓮池を失ってしまったが、それによってけじめがついたんだ。
もう社会に思い残すことはほとんどない。そう思った。
僕みたいな性根の人間にしては、よく生きた方だと思った。
それから淡々と、僕は自室の家財道具を売り払い、その金も含めた全財産で借金を帳消しにした。
なにもかも、この社会とつながりを持つものを切り捨てていって、そしてようやくこの手紙を書いているんだ。
※
ごめん、なんだか書いているうちに僕が何を伝えたかったのか忘れてしまった。
もうどうでもいいんだ。こんな手紙も。
最後に僕がこれからどうするかだけ話して終わろう。
僕はこの社会に別れを告げて、旅立つんだ。
こう書いてしまうと、まるで自殺でもしようとしているようだね。
それはある意味で間違いじゃない。僕は社会から逃げるのだから、それはあなたのような社会で生きる人間にとっては、自殺と同じようなものさ。
僕はね、本当の旅に出るんだ。
最初は歩きになるかな。途中で捨てられている自転車でもあればそれを使ってもいい。
バイクが前から欲しかったから、いま手元にあるお金で買って、それで旅をするのもいいかもしれない。
僕は旅をして、蓮池を探すんだ。
ただ僕のしたかった一つのこと。蓮池を見ていること。
僕があの蓮池に惹かれたのはどうしてだったんだろう。
今思うとそれは、ただ社会から解放されるから、だけではなかったように思うんだ。
あなたも一度は考えたことはないだろうか。
神秘的で、まさかこの世のものとは思えないような、きれいで、魅惑的で、情緒的な自然の産物を巡り見ること。
たとえば、ボリビアのウユニの塩湖。地平と空の区別もつかぬその塩原を、日が昇るころから月が落ちるまで、どこまでも歩く。
たとえば、ノルウェーのトロルトゥンガ。その巖頭に突っ立って、地上を俯瞰し、川を睥睨し、雄大なその景色を腕を広げて抱擁する。
たとえば、中国の九寨溝。黄龍の湖沼をたどって、鮮やかな群青、翡翠、紺碧、瑠璃を目に焼き付けながら、湖水を透かして底の模様をじっくりとなぞる。
ああどんなにそれは素晴らしかろう。
今では旅行のための交通も整って、行こうと思えばお金さえあれば誰でも行けるけど、きっとそれじゃあ満足できない。
あらゆる道程を試し、あらゆる方法を試して、ゆっくりと期待に胸を膨らませながら歩くその行為にさえ、僕は感動するんだ。それは社会から逃れた僕だけの特権。何者にも慮らず、ただ目的に至る過程すら僕の目的。
社会を逃れ、自然に生きる。
それが僕の幸せだったんだと、僕は気づいたんだ。
旅立つ僕を、どうか許してほしい。
だけど僕はようやく生きていける気がするのだ。
いいや違う。僕はこれから生まれようとしているんだ。
この素晴らしき世界に。
――The colors of the rainbow, so pretty in the sky
Are also on the faces of people going by
I see friends shaking hands, saying how do you do
They're really saying, I love you
I hear babies cry, I watch them grow
They'll learn much more than I'll ever know
And I think to myself, what a wonderful world
Yes, I think to myself, what a wonderful world――
碇草々不一 笹山 @mihono
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