鄭妃

 それから、親しくなった。会うのは季節ごと。航海わたりから戻り、文書を提出するために地官府を訪ねてくる托陽は伴を連れることがなかった。

 麾下の者たちの多くは王の身辺に僕臣、小臣として在る。その数を割くのが惜しいのだという。

 僕臣は王宮の内、特に内宮に詰める。后妃、貴妃、夫人ぶにんひんその他の女官、女嬬にょじゅの住まう内殿うちどのはもちろん、王帝の私室、寝室までも端々に入り込み、警護の任にあたる。内宮の殿舎の数は膨大である。小館たち小舎こやまで数え上げれはきりがない。

 それら衛尉僕臣であるが、彼らは正規まともな軍卒として見なされていないのだった。

 だが、夏官とは名ばかり、少し眼を光らせてよからぬ者がその気をなくせばいい、あとは麾下に下すたから行商あきなりしておくのだと托陽は笑った。

 綜白はそれまで聞き流していたに違いない「揮尚の托陽」の噂話を気にかけるようになった。

 亡き細君は鄭氏を出自とする美人であったらしい。その生き写しという姫君は華家に嫁ぎ、だがすぐに寡婦となったという。嗣子わかぎみは官位も得ずに行商あきなりの真似事をしているとも。

 聞くには聞いて気に留めていたが、それを托陽に確めてみたことはなかった。会って話題になるのは内宮のこと、王帝のこと。それらの話がどんな噂話よりも現実味があり、綜白には興味深かった。

 殿試の際、あれほど隔たった存在が、どこか己の近辺にあるような錯覚を得るのだ。

 ある時、鄭妃ていひという聞きなれぬ御方のことを聞いた。鄭氏の名を冠に抱く妃。……鄭氏にはそれほどの勢力いきおいはない。不思議に思った。

みめ殿ではございませんから、……」

 后妃でも貴妃でもない。だがそう呼び習わされる女がいる。王帝に侍る女だと、察しがついた。……あの殿試のときのように。

 鄭妃は元々、女官が内宮勤めの際に連れた侍女まかたちであったという。その寵愛から女嬬にょじゅ、次いで女御じょごとなり、さらには秘書官とも言える女史として仕え、今は尚侍ないしの地位にある。

 表向きは女官の最高位にあるが、実際はそうではなく、王帝に侍ることでその権勢を握っている。故に、鄭妃という。

「お目にかかったのでしょう、殿声どの?」

 托陽が敢えて綜白をその別字で呼んだ。あのとき王帝の傍らにあった、女。……鄭氏を出自とする。

 綜白は初めて別字の由来に納得がいった。官の末席に僅かにある己の氏族を少しでも引き立てるために、彼女は王帝をあの場に「用意」したのだ。ために己は異例の出世の途にある。

 その後、托陽とどんな話を交わし、何を聞いて何を返したのか。綜白はぼんやりとしていた。

 托陽は辞す前に、

「綜白殿は楽を奏でますか」

と聞いた。いえ、と短く答えかけた綜白の脳裏に浮かんだのは、托陽の姫君のことである。……華家に嫁ぎ、すでに寡婦となった。華家は祭祀、礼楽をもって仕える家柄。

「舞ならば、多少覚えがございます」

 幼い頃、身を立てるすべをまだ持たなかった頃に、少しだけ舞を習った。まったく才のなかったわけでもなかったから、それで人に見せるに耐える程度は身に付

けていた。

 托陽が辞した翌日、綜白の元に、春官次官たる侍礼宗伯じれいそうはくからの使いの者が届けた文は、宴の誘いだった。

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