装飾の太刀

 姓名を鄭惺ていせいあざな綜白そうはく。三十をいくつか超えたこの鋭く怜悧な表情かおを持つ男は、元はさほど高官ではない。

 貨幣や穀物の管理を司る司農しのうに使われる下級官吏にすぎなかったが、そのうちに六官のひとつたる地官となった。戸籍管理の実務官である。早い栄達と言えた。

 目立つ存在ではない。科挙の予備試験である院試でも、本試験である会試でも人の話題となるほどには振るわなかった。

 だが、王帝の面前に召されての殿試でんしで「大事こと」が起きた。

 殿試は名目上は王帝による人物試験だが、ここ数代では臨席もまれとなっていて、実際には天官長たる太宰たいさいか、六官の長、冢宰ちょうさいがその任にあたっていた。

 だから綜白は、その場に至るまで……いや、特にお言葉を賜るまで、御簾内に王が臨席していることに気付かなかった。また、そのことに思い至ることもなかったのだ。

 礼に従い、時の太宰の質疑に応答していた。そのうちに、なにやら御簾内がざわめき出したように感じられた。だが、許しがあるまでは顔を上げることはできぬために、周囲の様子を窺い知る手立てがない。

 ざわざわと衣擦れの音が動いている。おそらく太宰の元でその動きが止まったように思う。やや暫くの後に、綜白は太宰に許されて顔を上げた。

 息を飲んだ。

 許された頭を、再び床に擦りつけた。

 何者も、伏礼せざる許されぬ御姿があった。

 いつの間にか御簾が巻き上げられて、王帝が鎮座していたのだ。

 顔を上げるように促したのは、太宰ではなかった。王帝の傍らから聞こえたように思う。女の声。

 重々しくも、だがもったいぶった言い回しが、その女の口から流れ出てくる。大意さえ掴みかねて、否、極度の緊張のためか、綜白は何を問われて何と受け答えたのかすらも、覚えていない。

 太宰の殿試の終了を告げる言葉で我に返り、ともかくも退出した。……なにやら雲上を行くような心地がする。

 そのひと月の後に、及第通知が届いた。

 さほど会試の出来が著しくよかったわけでもなく、だが不合格とされるほど解けなかったわけでもなかった。だからその結果を受け止めた。

 その時点ではまだ、王帝の臨席と質疑は全員になされているものだと思っていた。

 人の噂というものは伝わるのが早いものである。

 殿試で主上の御声を賜ったただ一人の者。殿声でんせい、などという別字で揶揄されるようになった。殿声どのはいづれ冢宰ともなられる御方、といった具合に。

 当の本人は本当にお言葉を賜ったのか、その記憶もすでに怪しくなっていた。舞い上がり、不敬なことを申し上げていないか、それを考えると恐ろしい。

 確かに、傍らに仕えた女に受け答えをした覚えはあるのだが、それさえの霞の先の出来事のようで、それ以上のことを覚えていないのだ。

 その女がどういった人物であるのかさえ、知らない。側仕えの女官のように見えたが、寄り添う姿がそれだけではないものを物語る。

 王帝は正妃に先立たれ、間に幼い皇女ひめがある他に子がないと聞く。無論、有力各氏、各家から夫人が大勢、その他にも御手の付いた女官が後宮に仕えているのだが、どうしたことか即位から長く他のどの腹からも御子の誕生がない。

 正妃たる王后、玲凛れいりんは華氏の姫であったという。華氏は代々祭祀・礼楽を司る春官に任じられる家柄で、玲凛……華后もきんの名手であった。

 奏でられる音色の美しさも、その可憐な赤い唇から零れるように諳じられた詩吟うたも、何より彼女の愛らしさも、まだ太子ひつぎのみこであった王帝を虜にした。

 王帝は彼女に溺れ、長く側女そばめを置かなかった。即位に際して勧める者もあったが譲らなかった。玲凛が亡くなるまで。

 王が「色」を需め始めたのはそれからである。国の内外から、美女と聞けばあらゆる手を用いて後宮に招じ入れる。

 心ある官は、すでに「傾国」が始まっているのだ、という。己の利権のために専横を貪るだけの官が、国府、王宮のあちらこちらに増えた。

 官吏は己に繋がる美女を探し、次々と後宮へと送り込んだ。運良く王の目に留まり御手がつけば、己とその一族、一家の地位は一気に上がる。しだいに官吏だけではなく、当の女が権力を得るようになっていた。

 ……あの女は、そうした一人なのだろうと、綜白にも見当たついた。

 だがなぜ殿試に王が臨席され、女が傍らに仕えていたのか。その理由は分からぬまま官吏になった。

 綜白には己を引き立てるような親族がない。

 てい氏は官の末席にその名が僅かにあるだけ、有力名氏と競う立場にない。他家に仕え、他家の主に気にいられることが渡世のすべであった。

 それが殿声などという別字を頂戴し、破格の出世を遂げる。それを快く思わぬ官も多い。どこで上げ足を取られるか知れたものではなかった。

 細心の注意を払い、地官の職を得たのである。地官は六官で言えば天官に次ぐ地位にある。戸籍官吏、と年貢を司る。人民を把握し納税を徹底させる。もちろん官吏の自墾地からの収益にも税は掛かる。諸外国からの御調みつぎ、官吏が交易あきなりで得た品の検分、王国の要たる出納の権すべてが地官の手にあるといってよい。

 肥えた土地ほど税は高く、人が多いほど税は高い。

 地官となってまず覚えたのは戸籍の制作の法ではない。「ついつい戸籍の一部を書き損じる」ことである。

 僅かな違いで税は大きく異なる。毎日のように手心が加わるのを望む官が訪れて賄賂を積み残していく。

 ここでの「有能な官吏」とは地官長大司徒だいしと、そしてその上位たる天官長太宰たいさい、さらには六官長冢宰ちょうさいの目に触れても耐え得る「書き損じた戸籍」を作る者を言った。

 始めは眉根を寄せ嫌悪した作業にもすぐに心動かされること絶えた。

 宮仕えとは、綱を渡るようなものだ。細く頼りない綱を、権力者に握られ揺らされ、恐る恐る渡る。それが出来ぬ者は落とし穴へと落とされる。

 諦観という。強いこころざしをもって目指した官吏の道ではない。周囲の者に良く出来た子よ、科挙も通る才覚者よといった声に押されるように勉学に励み、およそあり得ぬ幸運に恵まれて出世した。その内実は、己でなくとも良い、偶然にもその地位を得た、それだけだ。それがどうしたというのだ。

 そんな思いを抱えて、だが日々出仕して仕事という名の「作業」を繰り返してこなしていく。果たすべき役割があるうちはまだ良い。それをまたこなし続けるだけである。己が何をなすべきか、そのこと自体に困ることがないのだった。

 そんなある日。

 いつものように官府の門が開けられ、そしてこなすべき書類が手元に重なっていく。

 地官に職をえて半年、見慣れぬ文書が届いた。

 綜白は己の使う下士を呼びとめた。委細間違いないか。

 下士は困った表情をする。叱責を食らうのかと身構えたようだ。綜白は自分が激しく顔を歪ませていることに、それで気付いた。

 書面の書式に間違いはない。交易船の入朝の報告と勘合の符丁と水夫の停泊底簿。そして御調の検分帳、取引の概要、積荷一覧、水夫の計帳の写し、船長おさの身内とも言える従者らの官位を記したものまで。

 少し目を通しただけでも、分かる。間違いがない。……なさ過ぎるのだ。

 「書き損じた」ことのあるなら、これほど丁寧な手蹟で残らない。「鼠にかじられた」ことのあるのなら、どこか破られているはずだった。

 綜白は思わず「間違い」を探し始めた。取引の概要書に必ずあるはずの、品数の増減がない。その品数と合わないはずの積荷が一致する。大型の海船ふねにしては、少なく見せるはずの従者や水夫の人数がずいぶんと多い。

 何より御調みつぎが法に定められただけ、何の不足もないのだった。

 それは驚愕だった。

 仮に正しく書面を提出したとしても、地官の中には勝手に書面に「工夫」をし、後で金品を要求する者がある。少なくとも、今目の前にある数々の書類には、そういった官吏の目に触れたことがない、ということが言える。

 慌ててこの船長おさの名を探す。

 尚楊しょうよう

 尚氏は夏官としてその名を知られている。軍事を司る夏官の端々に多くの者を送り込んでいる、長く続く武官の一族。賜ったかばね、すなわち王旗を指す。

 綾錦にしきのその御旗みはたを押し立てる親戦いくさ、その陣において側近く仕えて御旗を振るう。その役割を果たすことのできる唯一の一族、それが尚氏である。

 官吏としての地位は高くない。親征の際にほかの何者よりも側近くあることを許されながら、王師の一軍を動かす将軍いくさきみに任じられることはない。そのため夏官の間では一段低く軽んじられ、それでも護衛官として平時から王帝の側にあるを疎まれ、揶揄されているのを知っていた。「揮尚きしょう」とは彼らへの賛辞とともに侮蔑をも含んでいるのだから。

 それでもその名を持つ彼らは、果たすべき役割を名に負い、夏官として務めている。それはなんと重く美しいことだろう。薄汚れた「殿声」の響きとどれほど違って聞こえることか。

 下士がおずおずと己の様子を窺っていることに目をとめた。きけばこの尚楊なる人物、地官の間でも知られており、尚氏の長、そして尚氏本家の主であざな托陽たくようというらしい。

 先の綜白が地官となった人事で、彼は王帝の身辺警護を司る僕臣の長、大僕だいぼくに任じられている。

 だが彼はすぐその職に己の一族から代官を置いてしまったのだという。前代未聞、大僕が王帝の側を離れることなど前例がないにも関わらず、王帝自らがそれを許したのだ。

 そして海船ふねを駆り、南海の島々へと交易あきなりのため航海たびに出た。この書類は半年ぶりに帰朝したその証なのだった。

 地官には、提出された文書の真偽を問いただす権限がある。だから、この托陽を官府へ呼び出すことはおかしなことではなかった。

 だが明らかに「間違い」がないであろう文書を問い質す、それは手心を加えて金品をせしめる猾吏と同じ手段のように感じて、綜白は迷った。綜白はこの書類の束の中に「間違い」があってほしかったのだ。でなくば、いづれ心ない猾吏に目をつけられる。

 そう考える己がおかしいのだ。そんな自分に眉をひそめた。余計な感情に己をすり減らすのはずいぶんと久しぶりだと思った。そして諦観の中で、淡々とただ日々の過ぎるのを待つ、そう道を定めたはずが、その目論見が崩されたのを知った。

 数日の後に、応じて地官府に参じた托陽は、夏官とは思えぬほど間延びした人物だった。

 伴をひとりも連れず、皮甲よろいもつけず、礼服でもなく、平服に太刀を帯びて門をくぐった。髪の結いもぞんざいに布被せただけの。偉容を示す装飾かざりのひとつもなく、ただ首から碧玉あおるりの勾玉を下げていた。門卒が顔見知りの夏官であったというが、これではそうでもなければ不逞の輩として追い払われていたところだろう。

 だが托陽にはそれを気にする様子もない。

 二人の間に、身分の上下はさほどない。

 大僕は位こそ下大夫だが、王帝の側近く仕える。綜白は中大夫で、六官の序列は地官が上とされている。齢は托陽がひと回りほど年上である。

 客庁きゃくまに茶器を整えた下士を綜白は遠ざけた。どのような会話になるの己自身にも分からず、何をどのように彼に伝えればよいのかも判然としなかった。

 だが迷いは顔に出さぬ。それがこの王宮に仕える者の渡世の術である。

 托陽が先に口を開いた。

「地官殿の客庁では、おとなう度に見事な茶器を見せていただける。良い杯だ」

 茶杯を酒器のように眺めながら言う。このような器は下士が失礼にならぬ程度にことあれば購い揃えておく程度のものだ。気に留めたことがない。

「よほど良い行商人あきなりのひとをかかえておられる。そして見る目を持つ者が多いのでしょう」

 聞いている内に綜白は焦れてきた。「揮尚」の名を持つその主が、これほど呑気な気性でよいものか。まさか代官を立てられたかのかと気色ばんだ。

「確かに私が尚氏大僕尚楊、字を托陽と申す」

「……夏官大僕とも思えぬご気性のようですな」

 厭味も出ようというもの、だが托陽は笑い飛ばした。どころか、

「私はこれでも武人として仕えておりますゆえ、遠回りな物言いに疎くできております。何ゆえのお召しか、伺いましょう」

「……」

「お手元を拝見するところ、先日提出させた文書のことかと察しております。なにか過不足でもございましょうか」

 駆け引きを考えるなら、すでに負けた、と綜白は思った。この「揮尚の托陽」は、何もかも承知してこの場に出向いたのだ。

「もしも」

 綜白は聞きたくなったのだ。この目の前にある男の渡世の術を。

「もしも、心無い狡猾な……地官があったとして」

「多いようですな?」

「この文書に『工夫』を施すを申し出た、と致しましょう」

「ほう、どこかで聞いたような話ですな」

「……貴方なら、いかがなさる」

 男は薄い無精ひげを歪ませて、にっと頬を持ち上げた。悪戯めいた、その笑み。

「それには及びませぬ。とお答え致しましょうな」

 だが、そんなことを言えば、いつこの王都にいられなくなるものか。そのことに心すり減らして日々を送らねばならない

「ま、その際にはこの太刀を献上致しましょう」

「太刀?」

 その佩刀を両手で綜白に掲げて見せた。その身なりからは思い起こすことのできぬ、見事な拵えである。

 太刀は夏官として仕える限りは手放せぬもの。それを佩刀することそのものが礼節であり、夏官の証ともいえる。

「その太刀を手放す、と申されるか」

 托陽の考えが見えない。夏官大僕にして尚家の主、その名をものを放り出すと言っているのも同じではないか。

「太刀に名などありませぬ。ただ、そのものが持つ価値のほかには」

「……!」

鋒両刃きっさきもろはにして直刀すぐは柄頭つかがしら装飾環頭かざりわがしら、鞘は漆黒ぬり。さらには鯉口こいくち沈金ちんきん堆朱ついしゅ紅玉べにるりで意匠を施した『実用の』太刀。まず世に二つとございますまい」

 綜白には目利きの技などない。それと言われなければ、ただの太刀として目に留めるものではないが、気に留めて間近にすれば見事なもののようだった。

 鯉口金物は遠目にはただ丈夫にするために取り付けたように見えるが、よく見れば細やかな美しい図案がある。流水と波頭を大仰にならぬように配し、木地に絵を彫り込んで漆で金を埋めた沈金、漆を何層にも塗り上げてから彫り出す堆朱を巧みに使い分け、さらに紅玉が飛沫のように埋められている。

 装飾太刀かざりのたちならば、もっと華美な細工をし、柄までも鉄鋼かねとするだろう。柄を木製とし、滑り止めに鮫皮わにを巻いた本式の実用太刀だからこそ、この太刀に価値があるのだと思った。

 戦場いくさばで、その美しさに眼を奪われる者など皆無だろう。だが、その凄惨な戦に於いてこそ意味のある美しさ……。

 托陽の言わんとすることが、綜白にも見えてきた。なんと空恐ろしい皮肉を含んでいることか。

「さて、貴公あなたには、このあたいを付けられたようだ」

 托陽は掲げた太刀を己の手元に戻した。相手をやりこめればこそ、この男に今本気で太刀を手放す気はない。

 実用の太刀を文官が手に入れたとしても、その本当の美しさを見ることはできない。細工の見事さに眼が眩んで手に入れても、意味がないのだ。

 そして、何気ないように見えるこの太刀の細工を施すことのできる者はそうはない。それほどの技巧わざが込められた太刀を購うならば莫大なたからを必要とする。僅かな「工夫」で貯めるよりもずっと多くの。

 この書類に……「間違い」がないのは。

 僅かな「工夫」も及ばぬほどの散財を托陽が繰り返してきたからだ。

 こうして官府に参じる度に散財する。托陽にとってはそれほど価値のあることだ。

 そのことに思い至るに、綜白は適わない、と思った。及ばぬ男だ、と思った。

「このよしみ、いづれまた。……貴公あなたにお伝えできることもございますゆえ」

 托陽はそう言って辞した。

 その何か含みのある物言いに綜白は眉をひそめたが、その後すぐに忘れてしまった。……いつものような日々を過ごすうちに。

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